第4話:病院

「恭人」

 那由は落ち着きのない恭人に声をかけた。

 やけに気の弱そうな女性の刑事に出会い、無線LANという思いもよらない通信手段に心躍っていたのも束の間。彼らの会話から重大な事態に気が付いてしまったのだが、それより恭人の焦り具合が驚きだ。

 周囲で悲惨な暴行事件が起きていてもしれっとした態度で傍観していた彼が、今更どうして取り乱すのだろう。勿論那由もまた、暴力を振るわれる少年には目もくれず、システム接続の手がかりや自分の記憶に関するものを探していたのだから人のことは言えない。

「病院で何が起きているのかは大体想像がつく。でも、急いで行っても落ち着いて行っても多分もう状況は変わらない……一体どうして?」

「……答えは簡単。急いで行けば状況が緩和される可能性があるから」

「え?」

 那由にはその回答の意味が分からなかった。

 向かうのは都市大学の附属病院。医学部の彼は何かしらその病院と繋がりがあるのかもしれない。少なくとも、研修などで訪れることはあるだろう。けれどその程度では、彼の言葉を理解するに足りる情報にはならない。


「あの」

 那由が考えていると、彼らの後ろをなんとか付いてきた女性刑事が声をかける。気づけば渋谷から新宿の方面へ随分と進んでおり、周囲に屯する年齢層も変わっていた。先ほどよりも落ち着いた、社会人らしき人々が目立つ。周辺にはオフィスビルがあり、仕事をしようにもできない者たちが集まっているようだ。

「あなたたちは、一体何者ですか?」

「何者……って」

 そう聞かれても、那由には答えるだけの情報がない。名前どころか自分が学生か社会人かどうかも分からない。どうやらかなりプログラミング能力が高いようだがその理由すら分からない。適当にでっち上げようにも、そういった臨機応変な会話術のようなものを身につけてはいない。

「お姉さん、名前は?」

 那由が悩んでいると、恭人が振り向きもせず尋ねた。

「人に名前を聞くならまず自分から教えてくれない?」

「あ……あの、赤嶺、赤嶺愛奈です」

 先ほどのトラウマもあってかびくびくしながら名乗る愛奈。ついでにという調子で小さく「捜査一課の刑事です」と答えていた。

「そう。よろしくね、愛奈さん。俺は浪川恭人。都市大学の学生で趣味は昼寝と女遊び」

 恭人は、愛奈を堂々と下の名前で呼ぶ。それにしてもデリカシーのない自己紹介だ。愛奈は何かを言おうと口を小さく動かしたが、ついにそれは言葉になることはなかった。

 愛奈の顔は次に那由に向く。二人の自己紹介が終わったのだから次は彼女が答えるのは普通の流れだろう。しかし那由は全く口を開く様子がない。

「あの、あなたは」

 と、愛奈が再び訪ねたところで、

「ついたぞ」

 と、恭人が呟いた。ふと二人が目線を上げると、既にそこは病院の敷地内だった。広々とした駐車場には何台も車が止まっているが、人が動く様子はない。

 幸か不幸か意図的か。恭人の無駄な自己紹介は、那由が話し出す前のタイミング調整になったようだ。結局那由が自分を説明する暇は与えられないまま、三人は正面玄関から建物の中へと進んだ。


 街を無法地帯と揶揄するのならば、病院の中は戦場だった。

「すみません、順番にお呼びしますのでお待ち下さい!」

 受付で叫ぶように訴える事務員。

「先生、小児科病棟の女の子の容態が悪化して……」

「小児科は俺の担当じゃないだろう。担当者はどこだ」

「それが、見当たらないんです」

 大きな声で言い合う医者と看護師。

 見慣れない紙の束が舞うように行き来し、白衣の者たちが駆け回る。

 そして、ロビーでは然程感じることのないはずの消毒液のにおいが鼻につく。那由は思わず鼻を押さえた。

 隣で恭人が何やら呟いたような気がしたが、周囲の騒音のせいで聞き取れない。

 子どもの泣き声。不平不満をまき散らす声。外とは比べものにならないほどにうるさく感じるのは、室内だからということもあるだろう。声という声が壁や天井に反響し、ロビーを走り回る物音も気にかかる。

 総合病院ということもあって、受付のロビーは広く作られており、簡易なものだが椅子も五十脚程度は並べられている。しかし、そんな室内の容量を超えるだけの人がそこにいた。

「なに、これ……」

 愛奈が呆然と呟く。

「病院ほど先端技術が集約した場所はない。患者の容態をシミュレーションして生命維持をしたり、手術をしたり……急患の対応や患者の病状把握さえも大部分をシミュレーションシステムが補っている。でも今はそんな便利システムが止まっているでしょ」

 那由は、手短に説明した。

「じゃあ、つまり」

「病院は殆ど機能しない」

 答えていながら、那由は疑問に思う。何故自分にそんな知識があるのか、そしてこの現状を咄嗟に理解できるのか。いったいどこから得た知識なのか。それを考え始めるときりがないことが沢山あるのだが。

「多分街の人たちと一緒で、医者や看護師も殆ど機械に頼りっぱなし。だから、機械が動かなくなった時の対処法も分からず……患者は……」

 おそらく、機械によって生命を維持していた者などはすぐ……死に至ってしまった可能性が高い。

 そして、食料などの物資もこないこの状況では、入院患者の管理は絶望的だと思われる。もちろん新たな病人など受け入れられるはずがない。

「ちょっと、どこいくの?」

 呆然と眺める那由たちをよそに、恭人はスタスタと階段のある方へ歩いていく。一応彼と協力関係を結ぶ予定の那由もそれに続いた。

「あ、あの……あ、ルーター!」

 そして那由がルーターを持ったままだということに気が付いた愛奈も、兵藤との合流を考える前に、彼らについていく羽目になってしまった。


「あ、おい、浪川!」

 外来受付、検診センター、各種診察室が並ぶ廊下を慣れたように歩く恭人の前に、一人の男が立ちはだかる。白衣を着ているが年は若く「研修」という名札をつけている。そして、このご時世ではまず見ることがない程大量の紙の束を抱えている。

「お前どこにいっていたんだ! 合同研修も抜け出して」

「悪い、サボっていた。橋本こそ何をやっているんだ?」

「見れば分かるだろう。手伝いだ手伝い。あの研修に参加していた学生と教授は殆ど強制的にここの手伝いをしている」

「ふうん。それはご苦労様」

「おい!」

 引き留めようとした橋本という男の横をするりと抜け、恭人はまた早足で歩きだす。

「ちょっと恭人……」

 おそらく橋本と呼ばれた彼は恭人の大学の知り合いなのだろう。その程度のことは那由でも察しがつく。ならば、彼も本当はここを手伝うべきなのではないだろうか。ただ、彼の性格上素直に手伝いなどするとは思えない。では、一体何をするつもりなのか? 

 那由はいつものように左手で首元に触れながら考える。

「そもそも恭人は精神科系だっけ?」

 昨日彼は心理学を学んでいたなどと言っていた気がする。実際彼は人の行動や心理を読み取るのがうまい。

 事情を考える那由をよそに、恭人は「関係者以外立入禁止」と書かれたガラス扉を開けてその先へ向かった。いくつもの扉の横を通り過ぎ、最後に辿り着いたのは「内科控え室」と書かれた真新しい扉。それを、ノックもなく開く。歩いてくる途中に新館か何かに入ったのか壁の色も随分と綺麗になっていた気がするが、ひとまず恭人だけを目で追っていた那由は、どこから変わったかということまでは分からなかった。

 それにしても……何か考えがあるにしても、多少この病院の者と面識があるとしても、ノックもなしに入るのは強引すぎやしないか。そう思う那由だが、自分も図書館の一件で何も考えず強引に管理室へ向かおうとしたためなんとも言えない。

 しかし、彼が少しの躊躇いもなく扉を開けたのは少々予想外の理由だった。


「父さん!」

 乱暴に扉を開けた恭人はそう言ってぐるりと部屋を見渡した。長机がいくつも並べられ、そこに何台ものモニターが設置されている。そして事務員や看護師らしき人々が数人、モニターの前で作業をしていた。部屋の隅には使われていない椅子が十脚程度放置されている。

 恭人は、一番奥に座っている男を真っ直ぐ見据えた。五十代程の男性で、白衣の下には着崩したTシャツを着ている。ルーズな格好なのに何故か様になっており、五十代男性特有の色気のようなものまで垣間見られた。

「……何呑気に座っているんだ」

 恭人に「父さん」と呼ばれた相手は、その質問に面倒くさそうな表情を作ってワザとらしく肩をすくめる。彼がここへ乗り込んできたことに関して驚いている様子もない。

「指示は出したもん」

 そして一言、見かけに合わない軽い言葉遣いでそう答えた。

 よく見ると、軽薄そうな顔も恭人とよく似ている。

 どうやら彼が恭人の父親であるらしい、と那由も判断した。


「指示は出したし、みんな働いてくれている。被害も思ったよりは防げたんじゃないかなあ」

 男は呑気に笑い、コーヒーを一口飲む。

 その仕草は、彼をよく知らない人間の神経すらも逆なでするかのようなものだった。

「ロビーを見た。あそこは不安や絶望に包まれた患者で溢れている。病棟の方はまだ見ていないが父さんの統治する病院のこと……どうせ精神面のケアはできていないに決まっている」

「やっぱり我が息子は熱いねえ。むしろ暑苦しいよ。誰に似たんだい? 俺は病気が治せればそれでいいもーん」

 やれやれ、といった調子でわざとらしく手を広げられても、それは恭人の怒りを促進することしかできない。

「ところで後ろの貧乳ちゃんと巨乳のお姉ちゃんは?」

 また、失礼な物言いと好みは親子同じであるようだ。

 見れば部屋にいる事務員や看護師までもが溜息を吐いている。

 彼らの言い合いやこういった失礼な発言も、既にいつもの風景なのだろうか。

「この人は一応刑事さん。こっちの貧乳の説明は後だ」

「貧乳って……」

 呼び名が本当にそれで固定されてしまいそうだが、那由には返す言葉がない。

「あれ? 君どっかで見たような……いや、気のせいかな」

 恭人の父親が首をひねったが、結局結論は出なかった。

「今の状況を教えろ。どんな被害が出てどんな対処をしている?」

「んー? パパにそんな態度でいいのかなー、恭ちゃん。それに俺、この病院の医院長だよ?」

 どうやら軽薄な言動や装いに反し、なかなか権力のある人間らしい。恭人は苦い顔で奥歯を噛み締めたが、やがて大きな息を吐いて口を開く。

「……医院長、ネットワークやシミュレーションシステムの不調によりこの病院でどのような弊害が起き現段階でどのような対処をしているのか懇切丁寧な説明をお願いします」

「恭人が折れた?」

「で、でも少し厭味ったらしくも見えるような……」

 親子のやり取りを見つめる那由と愛奈の間に、初めてまともな会話が成立した。この異様な空気も、やはりこの親子にとって日常茶飯事のことなのだろうか。

「そうかそうか、大事な息子がそこまで言うなら仕方がないなあ」

 彼は満面の笑みでそう言うと、一度背筋をぴんと伸ばし……そして肘をついて顎を乗せた。

「今、背筋を一度伸ばした必要性は?」

「……特にないと思います」

 どうも締まらない雰囲気だが、彼の目はどこか真剣だ。一応、真面目に説明する気になったらしい。

「まずは病院で使われている精密機器のことから。あまり外部には漏らしたくない情報もあるけど……おそらく刑事のお姉ちゃんと……そこの貧乳のお嬢ちゃんには言ってもよさそうだ」

「貧乳って……いや、それはいいけど、何故私にも言ってもいいと?」

 自分の素性は彼には教えていない。そもそも自分でも分からない。何か特別視される要因があるのか。

「伝えてはいけない人間だったらそもそも恭ちゃんがここへ連れてこないからねー」

 彼は、なんだかんだ言って息子を信用しているようだ。勝手についてきたのは那由の方であるが……ここで話をこじらせるのもよくないため、おとなしく情報を受け取ることにする。

「んーと、何から言えばいいかな。近年の急激な医療技術の発達によって体温、血圧、脈拍、神経その他もろもろの身体の状態は機械で探知し管理できる時代になったってことは知っているよね」

 つらつらと並べられた愛奈は「えっと」と指を折りながら言葉を噛み砕いていたようだったが、やっとついていけたようだった。愛奈の表情を見て彼はさらに言葉を続ける。

「HO2システムっていうんだけどね。患者にHO2システムを取り付けるだけでほとんどの健康管理ができてしまうんだ。栄養が足りなければ自動的になにが足りないのか表示をしてくれる。点滴の量も自動的に調整される。実のところ看護師は機械の表示に従うままに薬品を投与し、食事を与えるだけなんだ。手術も同じ。腫瘍の場所は機械が見つけてくれる。血管を切ったり繋いだりする細かな作業も機械が自動で行ってくれる。医者なんて皆ただのアシスタントに過ぎないよ」

「HO2? H2Oではなくて、ですか?」

「どうして水にしなければいけないんだ」

 腕を組み、父親の話をおとなしく聞いていた恭人だが、この発言には額にしわを寄せてつっこみざるを得ない。確かに水の元素記号と似てはいるが、それは単なる偶然である。

「全自動病院専用機器ホスピタルオートマシンバージョン2。略してHO2だ」

「バージョン2?」

「ああ。どうせまたアップデートされてHO3になるんだろう」

 恭人は小さく不満を漏らす。彼にはこれ以上機械を万能にさせる意味が分からない。それほどまでに現場の人間を無能にしたいのかと、常々疎ましく思っていたのだ。現場のことなど考えず、次々に便利なだけのものを生み出す理工学系の人間が憎い。けれど結局その機械に頼る方針の教育しかされていない彼も、概ねその有能な機械に頼るしかないのだろう。そのことには不甲斐なさも覚えている。

「ははは、恭ちゃんは相変わらず固いなあ。パパみたいに自由気ままに過ごそうよ」

 那由も、恭人の父親へ冷ややかな視線を向けた。ここまで過ごしてきて恭人の自由奔放な様子は分かってきている。そんな彼にここまで言うということは、この男はもっと壊滅的な生活を行っているに違いない。周りを見ると迷惑そうに顔をひきつらせる関係者の姿が見えた。

「父さん、続き」 

 再び、恭人が低い声で続きを促す。

「ああ、うん、ごめんごめん。とにかく、病院はHO2を中心として成り立ってきたんだ。この非常に便利なシステムがあれば、どれだけでも患者を受け入れられる……そんな風に思っていた。つい昨日までは」

「それが一気に機能停止……ただ指示されるままに動いていた能無しの医者や看護師は何もできない……病院はさぞパニックに陥っただろうな」

 やっと真面目な話に戻ったと同時に恭人が淡々と呟く。彼はここで告げられる言葉などもう分かっていた。大して被害がある訳でもない街でもあの状況だ。患者が次々と命を落としてしまう可能性のあるここは想像を絶する状況だっただろう。分かっていて、尋ねざるを得なかった。

「あれ? でも、それって単体で動いているものではないんですか? ネットワークに通じているようなものが何らかの影響で停止しているわけで、例えばMCCは起動させるくらいならいくらでもできますし……」

 愛奈が単純な疑問を口にする。一応警察と言う組織に属する一人間としてその辺りの情報は持っている。大規模停電が起きたのだと勘違いして騒ぐ者もいるが、部屋の電気はつくし、コピー機も順調に動く。セキュリティーシステムが導入されていない自動ドアなら開く。コンピュータも外部との通信以外の使用ならば問題なく行える。不調を起こしているのはネットワークに関わる機器だけなのだ。

「ううん、HO2は先端技術の詰まった精密機器。それ単体で機能するには情報量的にも必要な演算量的にも負荷が多すぎて全て……他のシステムやネットワークのように人工衛星にリンクしているはずだよ」

 愛奈の疑問に対して答えたのは那由だった。

「血圧を感知してからの自動調節とか、血液中の成分解析だとか、神経伝達物質や活動電位の様子からの薬の効き目の読み取りとか、さらにいえばそれらを読み取った上で現場に理解させる適切な結果の表示とか……患者に装着させている間二十四時間ぶっ通しで細かな計算を沢山しているから、あれのプログラム量は半端じゃない。何度も何度も改良が加えられた形跡がある。多くのプログラマーが分担し作り上げた一大傑作の一つ……ってあれ?」

 語っていて気が付く。どうして自分はそんなことを知っている?

 今自分の頭に浮かんだのはHO2のプログラム部分だ。機械そのものではなく、数字や文字が永遠と並ぶコンピュータの画面である。断片的だがそれを目にした記憶がある。目にして、その仕様に感動した覚えもうっすらとある。

「詳しいんですね」

 愛奈は理解半分といった調子で那由の説明を褒めている。しかし病院関係者は唖然としている。恭人も、その父親も。

 病院関係者でさえシステム内部の仕組みについて理解している者は多くないのに。

「父さんは、この国にはスーパー人工衛星が三つあるって知っていたか?」

「三つ? 普通の人工衛星も数に加えちゃっているんじゃないの?」

 恭人の質問に、彼の父親は首を傾げる。

 一体那由は何者なのか。少なくともなんの知識も持たない一般人ではないことは確かだった。


「まあいい。とりあえずこれらが止まった後の対処方法を教えてくれ」

 再び、恭人はどこか焦ったように問いかけた。

「簡単だよ。エリート医院長である俺が、治療や管理を全てアナログの手動式にするよう呼びかけただけ。患者の顔色を自分で確認し、症状を自分で聞き、体温は体温計で測り、カルテは紙のものを使用する。そうして一昔、二昔前の方法で対処するマニュアルを作った。勿論、それが即座にできる医者など少なかったけどね」

「そりゃそうだ」

 機械に頼ればいいと教育させられていた医者たちが、いきなり自らの判断に任せられても即座に動けるはずがない。

「だからまあ二割方死んだかね」

「死ん……!?」

 愛奈が声を上げる。が、最後まで言葉にならない。

 病院で二割も人が死ぬ。確かに病人だらけの場所ではあるが、それでも、それほどの命がこの短時間で一気に亡くなってしまうなどと簡単には信じられない。

「というか見捨てさせてもらった」

「な……っ」

 愛奈は絶句し、そして意を決したように机にバンっと手をついた。

「に、人間の命は皆平等です! 簡単に死んだとか見捨てただとかお医者さんが言ってもいいんですか? 大体もし故意に患者さんを見捨てたのだとしたら殺人容疑で……」

「だってあれは人間じゃないから」

「は?」

 人間ではない。そう言われてどう対処したらいいのか愛奈には分からない。差別的な意味でそう言っているのならばもっと怒らなければならない。しかし、さも当然のように言われてしまった。

「愛奈さん、君が喋ると事態がややこしくなる」

 恭人にもきっぱりとそう言われてしまった。せめて説明くらいしてくれてもいいのではないか。そう思うがもう言葉が出てこない。

「父さん、もしかしてそれをアンドロイドと呼んでいたりする?」

「おお、よく分かったね。さっすが恭ちゃん、パパの子どもだけある」

 父親の言葉は無視し、恭人は額に手を当ててしばし考え込んだ。

「アンドロイド……街で見かけた奴のこと?」

 那由が問い尋ねるが、答えは返ってこない。けれど大方正解なのだろう。

 街で見かけた、シンクロした動きを繰り返す人間たちが病院にも存在していたらしい。

「死体を確認したところ臓器は人間っぽかったけど、精密機器が使えない以上それが本物かどうかはっきり判断することはできない。でも、明らかに人間と考えるにはおかしな存在がいたんだよ。だから、アンドロイドって呼ぶことにしちゃった」

「アンドロイドを切り捨て、その分の労力を全て回した……それで被害を最小限に抑えた……と」

「まあね。まあ心臓の機能や呼吸機能を機械によって制御していた人間は助からなかったけど……急性期医療を行う病院としては今のところ最善を尽くしていると言える。どう? 満足できたなー?」

「まあ、大体予想通りだな。流石父さん」

 わざとふんぞり返る父親に恭人は苦々しい顔で一応の褒め言葉を伝える。ただ、その後神妙な顔つきになり、

「でも、俺が言いたいのはその後のことだ」

 と続けた。

「うん、恭ちゃんが言いたいことは分かっているよ。血相を変えてここへ乗り込んできた時からね。つい数年前までは俺の後を継ごうと内科医を志望して励んでいたというのに、精神科なんてはっきりしない科にシフトチェンジしてしまうなんて……そもそも俺は精神科の医長が苦手なんだ。真面目に仕事をしろだとか女遊びはするなだとか朝から酒を飲むなとか口うるさくて……」

「話を脱線させるな。そもそもこの病院にあるのは精神科でなく心療内科で……まあ双方に大差はないが……いや、それもいい。言ったよな? ロビーにはパニックになった人々が溢れていること。はやく彼らに対処しないと、また……」

 恭人が何かを言いかけたとき、部屋の外から大きな叫び声が聞こえた。

 悲痛な、そして誰かを呼ぶような叫び声だ。

「この声は病院で一、二を争うセクシー看護師花ちゃんの声だねえ。あの子すごいんだよ。多分Hカップくらいあるんじゃないかなあ。お尻の形もなかなかだし、それがナース服を着ると……」

 父親の言葉を無視して恭人は部屋を飛び出した。扉が大きな音を立てて乱暴に閉まる。

「ああ、怖い怖い」

 誰もついていけない中、身震いをするようなジェスチャーをする恭人の父親の声だけが部屋に響いた。


 那由は一瞬彼に続こうと考えたが……すぐにその考えは捨てる。今混乱状態に陥っているのは患者云々の前に恭人本人だ。右往左往する彼に一々ついていくのは少々馬鹿らしい。その代わり、何が起きたのか知っていそうな男に尋ねる。

「何があったの?」

「んー、十中八九、いやもう九分九厘患者の飛び降りだよ」

 彼はシンプルに、かつ断定的な口調で答えた。

「パニックに陥り現在の状況に絶望しちゃったんだねえ。勿体ないなあ、今のところ命は無事だったのに。おそらく医者たちが落ち着かずにバタバタしているのも患者の刺激になっただろう。俺みたいにコーヒーでも飲んでくつろぐ時間も必要だと言うことはせめて伝えるべきだったかなあ」

 慌てて飛び出していった恭人とは対照的に、事態を知っていながらも焦る様子はない。

「俺の専門外だからね」

 そうやって足を組んで笑う余裕すらある。

「でも、医院長でしょ?」

「言ったもん。精神科の医長に人づてに『なんとかして』って伝えたもん。ちゃんと伝わったかは分からないけど、会いたくなかったから仕方がないよね」

 医者としてはおそらくかなり頭のきれる人間なのだろうが……人間として、彼はだめなのかもしれない。恭人以上に。

 那由はこの適当な物言いに軽く眩暈を覚えた。

 自分自身、自分から遠い人間の生死にはそれほど頓着できないが、それでも同情する。

 愛奈にいたっては恐怖と混乱で涙をぼろぼろと零していた。

「もういやだ、帰りたい」

 さらには、子どものようなことを言い始めている。

「馬鹿じゃないの? いい大人が涙して……」

 那由は、自分の口から思わず棘のある言葉が出てしまったと慌てて口を押えたが、もう遅い。

「こういう時、大人も子どもも関係ない、です」

 愛奈は屁理屈をこねて泣き続ける。いい加減、面倒な存在だと那由は思い始めた。どう声をかけるか考えるだけで頭を使ってしまう。ひとまず、借りっぱなしであったルーターだけ、彼女のスーツのポケットに返しておくことにした。


 そうして気まずい時間が続き、那由がわざとらしくため息をついていると、やっと扉が開き、表情のない恭人がゆっくり部屋に戻ってくる。

「……大丈夫?」

 随分と顔色が悪い。昨日は彼に心配された那由だが、今度は那由が彼を心配する番のようだ。

「患者が、飛び降りた」

「飛び降り……へえ」

 へらへらと笑うのはやはり彼の父親だ。

「へえ、じゃないだろ!」

 恭人が机を叩く。距離が近ければ確実に掴みかかっていただろう。

「あの時と一緒だ、母さんの……母さんの時と……」

 そして、ブツブツと小さく呟く。

「ははは、恭ちゃんはいつまで経っても乳離れできない子だなあ」

 依然として挑発するような父親の言葉。恭人のすぐ隣にいた那由には、彼の殺気がしっかりと伝わってきた。

「ねえ、恭人」

「お前の、杜撰ずさんな管理の所為で……」

 彼の殺気の理由を聞こうとした那由だが、彼の雰囲気からとても会話などできないであろうことを察した。

「恭人のお父さん」

 だから、会話の対象を別の人間に移す。

「ん? 普通にお父さんと呼んでくれて構わないよ? ああ、パパでも可だし名前で敦志あつしさんとかでも」

「この人はどうしてこんなに殺気立っているの? あ、できるだけ手短に詳しく教えてね」

 矛盾した要求を淡々と投げかければ、さすがにへらへらとした笑いもひっこんだようで、少し真面目な顔になって語り出す。

「あー、俺の妻……つまり恭ちゃんの母親はある病気を患っていてね、昔から通院を繰り返していた。そんな時俺と出会ってお互いが意識するようになり、愛を育んで」

「手短にって言ったよね?」

 真面目に語り始めたと思ったらこれだ。このままでは那由も殺気立ってしまう。恭人の父親、浪川敦志は渋々と続きを語りはじめた。

「それで三年前かな。結ちゃん……妻の体調が悪化したのは。機械に繋がれた日々に結ちゃんは消衰しきって、これじゃあ生きている意味がないとも言っていたらしい。でも俺は気が付かず……結ちゃんは心を病んで飛び降り自殺をしてしまった。それ以来だよ。恭ちゃんが精神科医を目指すようになったのは。と、言っても今更専攻も変えられなかったらしく、大学では内科医の専門知識を学び実習にも参加して、心理学や精神医学をはほぼ独学で学んだらしいけど」

 敦志はマグカップで飲んでいたコーヒーをぐいっと一気に流し込んだ。

「今の……今の病院は機械任せで患者とのコミュニケーションもろくに取ろうとはしない。患者の精神面の管理を忘れている。だから……あんな悲劇が起きた。確かに心療内科は存在するが、他の科にいる患者にも精神のケアは必要なんだ。父さんは未だにそれを分かっていない」

 軽薄そうに見えるが、医師たちに的確な指示を与えている浪川敦志。彼が誰よりも病院の事態を把握する、優秀な医院長であるのは事実だ。

 しかし恭人は彼を許すことができない。それは、母親を殺したともいえるこの病院のシステムを未だに変えようとしないことにあるのだろう。

 那由は、恭人が図書館の精神医学系の本を網羅したと言っていたことを思い出していた。母親の死を受け全て独学で身につけた。その執念には並々ならぬものを感じる。

「ねえ、『結ちゃん』なんて呼ぶくらいには自分の奥さんのこと大事にしていたんでしょ? なんであなたは未だに制度を変えようとしないわけ?」

 恭人の熱い思いはともかくとして、彼の父親が本当に何もしてこなかったということに関しては疑問を抱く。双方の思いに特に違いがあるとは思えない。

 敦志は僅かに顔に影を落とした。

「俺は……結ちゃんの夫であると同時に、一人の医者でもあった。当時俺は医院長になったばかりで仕事も多く、病院全体の責任を負っていた。だからこそ、個人的な理由で深く制度を変えようとは思ってはいけない……そう思っちゃったんだよね。特にそうしているうちに恭ちゃんが精神科医を目指すと進路変更してくれたものだから、パパ甘えてもいいかなって、恭ちゃんが入ってくるのを首を長くして待つことにしちゃった」

 深刻そうな話かと思えば軽い語尾でそう締めくくられる。

「そもそも恭ちゃんが昨日研修をサボらずに病院に残っていたら、その知識をフル活用して患者を救えたかもしれないよね」

「な……」

 そして、息子の心を抉る一言を放った。

「恭ちゃんがパパを避けて家にも帰らず病院にも寄り付かずって感じだったから今回の事態に対処できなかったのかもしれないな」

 それは明らかに責任転嫁だ。

 けれど、そうだとしても、もしかしたらという可能性を考えだしてしまうと思考が止まってしまう。それは恭人も例外ではなかった。

「まあ、俺もなんだかんだでずるいかな。今回の事態に慌てていないのも、死に慣れ過ぎている所為だ。医院長という偉い立場になって、病棟に向かわなくなって、報告ばかり聞いて指示だけ出す。結ちゃん……お前の母さんのことを記憶の隅に追いやるようにしていたのは俺自身だし」

 反省の言葉を口にしたかと思えば、隣にいた事務員にコーヒーのおかわりを頼んでいる。まさに口先だけだ。だが、恭人は既に怒る気さえ失くしている。患者の飛び降りのこともあり、ただただ呆然としている。

 那由は、まず一つ大きな溜息をついた。この部屋へ来て数度目の溜息だ。それから黙って恭人の父親に近づくと、彼が受け取ったばかりのコーヒーカップをひったくった。一瞬の出来事だったため彼も言葉が出ない。

 オレンジ色のマグカップ並々と注がれた熱々のインスタントコーヒーは、程よい香りと湯気を生む。冷房の効いた部屋でリラックスしながらこの本格的なコーヒーを飲むのはさぞ心地がいいことだろう。しかし、それが誰かの喉を通ることはなかった。

 那由はカップを握る手にぐっと力を入れて身体の向きを変えると……恭人の顔に、躊躇いなくぶちまけた。

 彼の頬を、服の襟を、ジーンズのズボンを伝って床に滴る黒い液体からはまだ湯気が出ており、それが熱いことを示している。恭人はその場で呆然と立ち尽くし、その父親もやはり口を開いたまま言葉を出せずにいる。周りの事務員や看護師、愛奈も同じだ。誰も何も言わない。あまりに彼女の行動が理解できず、何も言えなかった。


「馬鹿なんじゃないかな。いや、馬鹿だよね、親子そろって」

 那由が、沈黙を破るかのように言い放つ。

「別に恭人のお母さんがどうだとかその後の対策がなってなかっただとか今人が飛び降り自殺をしただとか関係ないよ。こんなところでうだうだ和気あいあいと口げんかしている暇があったら今後少しでも被害者を減らせるように行動に移したらいいんじゃない?」

 単にここで生産性のない話を続けるのが面倒くさくなっただけというのも否めないが、それ以上にいちいち過去の話まで持ち出して揉めているのは実にくだらないと思った。そもそも、目の前で親子喧嘩とやらが繰り広げられるのが少し……癪に思えた。

「妻が死んだ? 母親が死んだ? そんなの過去の話でしょ? それと今回の事件にどんな関係があるわけ? あなたたちがいくら有能だろうと、そんな無駄話をしていたら……無能で使えない一般人と全く大差はないよ」

 言いたいことをぶつけて少しは満足したのか、那由はふっと肩の力を抜いた。散々なことを言ったが、後から彼らに優しい言葉をかけてやるようなことはしない。今投げた言葉が彼女の本音そのもので、それを取り繕う理由など分からなかった。

「そ、そうですよ!」

 今まで黙っていた愛奈が涙で赤くなった目をこすりながら声を上げる。つらつらと並べられた悪口に便乗する気はないにしろ、彼女は彼女で怒りを覚えているのだ。

「私の上司も言っていました。刑事は現場に出向いてなんぼだって……お医者さんは多分、患者さんに向き合ってなんぼ……わ、私たちも外に出ましょう! できることがあるはずです」

 だから、叫ぶようにそういった。


「よく言った」

 入口付近から力強い声が聞こえたと思って振り向くと、まさに今話題に上げた人物であり愛奈の上司、兵藤豪が立っていた。いつの間にか扉は開け放たれており、彼は小さく一礼した後にツカツカと部屋の中へ入ってくる。

「ご、ゴウさん、なな、何でここに?」

 愛奈はそう言ってから、そもそも彼が自分を呼んだということを思い出した。

「この病院の状態を小耳にはさみ偵察をしていた。浪川医院長、警視庁捜査一課の一課長、兵藤豪と申します」

 恭人の父親でこの病院の医院長、浪川享志に向かい警察手帳を突き出す。

「この病院は精密機器が使えない中、独自のマニュアルを作り患者のためにご尽力頂いている。しかし現にああやって命を落としてゆく患者もいます。それなのに何故あなたはこんな部屋で呑気にしているのですか? これは警告です。医療行為には最善を尽くしてください。そうでなければあなたを過失の罪に問うことも可能になってしまう」

 できるだけ柔らかい言葉で言おうとしているのかもしれない。しかしながら如何せん顔が怖い……と愛奈は思ってしまう。せめてもう少し愛想がよければ印象もよかったのかもしれない。

「できれば、この病院に外の怪我人を運びたい。そのためにも善処してください」

 兵藤は、責めつつも頭を下げることは忘れない。

 その説得がはたして効果があるのか……浪川敦志という自由奔放な医院長を知る者は不安げに見つめるが、

「……俺もコーヒーぶちまけられたり牢獄に行ったりするなんって死んでもいやだしね……行くよ。若い頃の血が騒いできた。そうだ、俺が行かないで誰がやる。患者が俺を待っている」 

 後半は都合よく取り繕って白衣をきっちりと纏い、颯爽と部屋を出ていった。ほぼ脅しが効いただけに過ぎない。

 残された者たちは、都合のいい彼の行動に沈黙を送ることしかできなかった。ただ、一つだけはっきりしたのは、彼への説得はまさに暖簾に腕押しのような状態だということだ。彼がこの後言葉通りにまともに働き出すとは到底思えない。

「はぁ……あの父親への説得は無意味だということはよく分かった。俺は俺にできることをしなければいけない……ってことだな」

 恭人は眼鏡を外し、顔についたコーヒーをその辺にあった殺菌済みタオルで拭いた。髪に付いたコーヒーもできる限りはふき取る。

「俺としたことが取り乱していた。母親のことをいつまでも引きずっていたりして情けない。目が覚めたよ」

 自分らしくなかった……そう呟いて、那由の方を向いた。

 熱いコーヒーをかけられたにも関わらずそれを顔に出さないのは流石かもしれない……那由がぼんやりそう思っていると、恭人はゆっくりと屈んで那由に目を合わせた。

「ありがとう」

 眼鏡の外れたその顔で優しい笑みを浮かべながら、まずは礼を言う。そして今度はゆっくりと彼女の頬に両手を近づけ……思い切り抓った。

「俺が言いたいことは分かるな?」

 笑みを浮かべたまま問い掛ける。ぐいぐいと何度も頬を引っ張っている様子は遊んでいるようにも見えるが、笑顔に隠された怒りはしっかりと見えていた。

「わ、わひゃってる……」

 那由は上手く喋れないことを理由に彼の手を払い、しっかりと彼を見据えた。

「あなたの馬鹿な父親にもコーヒーをぶっかけるべきだったってことでしょ?」

 そして、それが正解だとばかりにはっきりと告げる。

「えっと……え?」

 常識外れな解答に愛奈は戸惑う。

「その通りだ。よく分かっているじゃないか」

 けれど、本当にそれが正解らしい。

 ここはコーヒーをかけたことに対する謝罪の言葉が必要な場面ではないのだろうか。おそらくこの場にいる誰もが同じことを思っているはずだ。

「ちょっと手元が狂ってさ。それから案外中身の量が少なかった」

「馬鹿か。その辺はちゃんと計算をして配分を考えろ」

 まるで的外れな口喧嘩が繰り広げられている。先ほどの親子喧嘩よりも意味が分からず、周囲の者たちは首を傾げている。


「ゴウさん、あの、私はどうすれば……」

 先程彼に見事に置いてけぼりを食らってしまった愛奈は、今度こそ何か仕事が欲しくてびくびくとしながら話しかけた。

「どうだった?」

「え?」

「街の様子は」

 抑揚のない、短い言葉で尋ねられ、また怯えそうになる。

 どう答えるべきか。思考が停止しそうになるのを必死に堪えた。

「……暴力沙汰とか窃盗とか、そんなのばかりでした。うんと小さい子どもまで食料を盗んでいって……けが人もたくさんいますし」

 その食料を盗まれたのが自分だとは流石に言えなかった。しかし、後ろめたさが消えることはなく、兵藤からそっと目を逸らした。

 それ故に気が付かなかった。彼が踵でトントンと地を叩いていることを。

「そうか」

 結局兵藤はそれだけ言って黙り込み、次に自分の腕にあるMCCを操作してどこかへ連絡を取り始めた。

 また置いていかれるような気がした愛奈は必死に聞き耳を立てようとするが、何を話しているのか全く分からない。最後に兵藤が一言二言何かを告げて、その電話は切れてしまった。

「あ、あのゴウさん」

「怪我人をこの病院に運ぶ」

「え?」

 彼の言葉はいつも少し足りない。そういえば先ほどもそのようなことを言っていたような気はする。

「でも、この病院の状態はそれほどよくないと……」

「他の病院に比べたら断然マシだ。注意をしたのはここへ更なる怪我人を迎え入れるため」

 最善を尽くしてほしかったから、さらに警告を入れたということか。

「もしかして、いろんな病院を当たってよさそうな病院を探していたんですか?」

「昨日からな」

 愛奈は絶句する。兵藤には昨日から既にこうなる未来が見えていたというのか。しかもその知見を全く自分には共有してもらえていなかった。

「悲しいことに死人が出たお陰でベッドがいくつか空いている」

 そう言い残して兵藤は部屋をあとにしようとする。今回は言葉足らずだが彼の言いたいことは分かった。そもそも敢えて言葉を濁したのだろう。

 死人が出たためベッドが余っている。それは悲しいことであり、幸いなこと。新たな怪我人を運び入れることができるのだから。そんなこと、口にしてしまえばあまりに不謹慎だ。

「わ、分かりました。怪我をしている方々を探して、ここへ誘導すればいいんですね」

 後姿を見ながらそう尋ねる。背中だけでは彼がその言葉を肯定しているのかどうかが分からない。また泣きそうになりつつもきっと正解だと自己を奮起し、自分のやるべきことをやろうと決意する。

 そして、まだ震える足を無理やり動かして、兵藤に追いつくために走り出す。

 足には自慢がある。やれるべきことをする。この事態をなんとかしたい……そんな気持ちはしっかりある。愛奈は、これでも一応刑事だから。

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