第3話:警察

 シミュレーションシステムで予測できなかった地震が起きて一日。街は、混乱する人々で溢れかえっていた。けれど彼らはまだ混乱するだけで済むからいい。中にはこの混乱事態への的確な対処を求められる不遇な組織もあるのだ。

 それが、警察である。

 セキュリティーシステムや、犯罪・事故のシミュレーションプログラム。

 これらの発達によって警察の活躍の場は随分と減った。

 現在の警察の主流業務は、犯罪を未然に防いだり、サイバー犯罪に対応したり、迷子の子どもや荷物を持ったお年寄りを助けたり、紛失物の捜査をしたりする程度。

 それ故、このような緊急事態に即座に対応できないのが彼らの現状である。

 それでも、警察はなんとかしてくれるだろうというのが市民の見解であり、現在彼らはありもしない正義を振りかざさずを得ない状況だ。


「どうなってるんだ!」

 警視庁刑事部のトップ、すなわち刑事部長である長嶋ながしまは何度目かの大声をあげた。

 彼は昨夜から一睡もしていない。この騒ぎの渦中で責任者である彼は睡眠をとるなど、許されることがなかったためだ。残念ながら公務員は未だに労基の管轄外である。

 けれど、いくら起きていたって成す術は無いのだ。正確には、思いつかない。

 ハゲを隠そうと無駄に伸ばしている髪は乱れ、スーツにも随分と皴が寄っている。

 彼がこの広々とした部長室に留まるのは永遠と繰り広げられる会議と、次々と運ばれる苦情への対応のためだけではなかった。彼の家もまた、彼を中へは入れてくれなかったのだ。

 子どもは成人して家を出て、夫婦共々共働き。

 家の中に人がいれば内側から鍵を開けられるのだが、彼の場合条件は揃わなかった。もし今すぐ家に入れるようになるならば、彼はもうそこから出てくることはないだろう。事態がおさまるまで。

 部長室には現在長嶋を含め八人の男がおり、広いテーブルを囲っている。テーブルも椅子も海外製の高級品で、中でも椅子は長時間座っても疲れない座り心地のはずだが、今ではもう流石に腰が痛かった。

「何とかしろ」

 疲れ果て、部下に抽象的な命令を下すも、誰も動くことはできない。

 そもそも通信機能が失われたせいでろくな情報が入ってこないのだから、動こうなどというのは無理な話だ。

「政府はどう動いている?」

 国を統治する最高機関。その意向も分からない。政府や都知事でなくとも、警視総監や副総監の意思が分かれば動けるが、組織の中の一つの部である刑事部が勝手に動いていいものかも分からない。彼にはそれを判断するための決断力などなかった。ただ成り行きでなったも同然な刑事部長だ。それでも彼がここまでやってこれたのは、結局警察組織があまりにも平和だったからだろう。

「そうだ、国の意向が分からない限り俺たちは動きようがないではないか」

 とうとう長嶋はそう言って、自分たちが動かないことを肯定しようとする。あまりに強引な発言だが、部下たちもこれといった考えが無い以上、なんとも意見をし難かった。

「あの、例の組織はどうなのでしょう? プログラミングに長けているという噂の……あそこなら何か情報を握っているかも」

 その時、扉側に座っている一人の男が恐る恐る手を挙げた。まだ三十代そこらの若い男だ。

「馬鹿か」

 しかし長嶋は勇気ある部下の言葉を一蹴する。

「お前、ここへ来て何年目だ?」

「ここ、とは」

「俺の観察下、つまり組織の上層部だ」

 男は暫し上を向いて日を数え、

「一か月と少し……」

と答える。

「名前は」

みさきです」

 長嶋は岬と名乗る若い部下の顔を一瞥し、冷たい溜息をついた。

「あれは警察如きが触れられる組織ではない」

 例の組織、と名前は伏せて語られているが、部屋の中にいる者は皆、その組織の存在について分かっているようだった。しかしながら、一人たりとも岬の言葉に同意の表情を向ける者はいない。

「し、しかし一度追跡用シミュレーションソフト開発の時に協力を……」

「違う」

 長嶋のその声は、もはや怒りに近いものを孕んでいた。

「あれは、警察が四苦八苦している逃走用シミュレーションソフトを簡単に攻略するソフトを作ることができるぞという脅しだ。自分たちの権力を見せつけ、以降刑事部の上部組織であるかのように振る舞っている。うちは所轄とあの組織、双方の圧力を受けている……そう考えてもいい。その上どこからか知らないがこちらの情報を勝手に持っていく……我々側から干渉することは不可能に近い」

「そう、なのですか」

 長嶋の剣幕を浴びた岬は、他の者と同様下を向いて黙ってしまった。結局、警察が頼ることが出来る組織など存在していなかったのだ。

 そうして再び、何事もなかったかのように沈黙が蘇る。


 それから一体どれ程の時間が経っただろうか。ある者には一時間、ある者には十分程度に感じられた気まずい沈黙を破るように、外から扉をノックする音が響いた。

 正直、長嶋はもうこの音を聞き飽きていた。

 入ってくるのは悲報ばかり。暴動が起きた。盗難が起きた。市民からの訴えが来ている。

 それに対する長嶋の意見は決まって「対応中だと答えておけ」の一点張り。もはや対処する意欲すらなくなっている。対処したくても方法がないのだから仕方が無い。

「いい情報か? 悪い情報か?」

 だから、扉に目を向けることなく尋ねる。どうせいい情報なんてありはしないと、自然とそう考えてしまう。しかし、答えは彼の予想に反していた。

「いえ、いい提案です」

 扉の向こうの声は静かに答える。

「提案?」

 長嶋は、その言葉に一瞬興味を惹かれた。けれど、すぐにその声に聞き覚えがあることに気づいてしまった。長嶋は扉の向こうの人物のことをあまり好いてはいない。少なくとも、この場に喜んで手招いてやれる相手ではなかった。

「入ってよろしいでしょうか」

「……ああ」

 しかし、だからといって拒む理由があるわけでもない。刑事部のトップが集まっておいて、この部屋には既に虚無のようなものしかないのだ。


 長嶋の返事を聞くや否や入って来たのは、三十代後半のガタイのいい男だった。

 いかつい顔で背筋をピンと伸ばす姿は堅苦しいほど生真面目な性格をよく表しているといえる。黒いスーツにも皴一つ見当たらず、厚い胸板もよく分かる。扉を開けて一礼をするところなども、彼の人柄がよく現れていた。

 彼は兵藤豪ひょうどうたけし。警察組織のはみ出し者としてはある意味有名だ。

「聞くだけは聞こう。本当にいい提案なんだろうな?」

 長嶋は、テーブルに肘をつき、あからさまに相手を毛嫌いするような態度をとりつつ兵藤を見る。心身ともに疲れ果てているというのもあり、組んだ足を正そうともせず、いつもに増してぞんざいな対応をした。

「はい。我々は電話もメールもできない、すなわち情報伝達手段が皆無の状態です」

 兵藤は、長嶋の対応に気をとめることなく淡々と語り出した。

「そうだな。復旧の見込みも全くなさそうだ」

 長嶋は自分の手元を見て呟いた。もはや、警察機関で支給されているMCCも何の役にも立っていない。これに関しては誰もが諦めている。

「それについて提案があります」

 真面目な表情を真っ直ぐに向けられた長嶋は、すぐに自らの表情をひきつらせた。兵藤の目は、何故か自信に満ちている。

「何か解決策があるとでも?」

「はい。無線LANを使いましょう」

「無線……なんだそれは?」

 兵藤が発したのは聞きなれない言葉だった。そもそも、彼のような男から機械についての提案が出ること自体が意外だった。

「無線LAN。二十一世紀に使用されていたインターネット回線です。当時電子端末がネットワークに接続するためには拠点となる端末が必要でした。建造物に設置するタイプや携帯依存型などがあり、今でもスーパー人工衛星経由ではない旧来のネットワークに接続することが可能です。複雑な処理は不可能ですが、電話やメールなど簡単な通信は可能になるでしょう」

 スーパー人工衛星が生まれた後の現代日本のネットワークには、そのような細かな拠点など存在しない。通信料に関する料金換算の概念も根本から変わってしまった。だから、無線LANなどとっくの昔に忘れ去られたような存在だった。勿論、長嶋も知る由がない。

「しかし唐突になんだ……その無線なんとかを使うとしても……その専用端末が存在しないだろう」

 全く知らない単語を必死に頭で理解しながら、そう答える。

 突然新たなネットワークを作り出そうとしても、それは不可能に近いと思った。しかし兵藤は涼しい顔で顔を横に振る。

「いえ、私が昔所属していた企業は情報漏洩を防ぐため、携帯式のテザリング用ルーターを使用して旧来のネットワークに接続していました。それをいくつか借りてきて、せめて最低限の主要機関同士の通信はできるようにしておくのが最善かと」

 彼が昔所属していた企業……あえて名前を出さなかったのは意図的だろう。長嶋はあの企業のこともよく思っていない。警察トップの彼には嫌いなものが多すぎた。

「……本当に、できるのか?」

「すでに向こうに話はつけてあります。念のため動作確認もしてみましたが大丈夫でした。後は許可をください」

 少なくとも現段階ではデジタルな通信はできないはずなのに、いつの間に連絡をつけたのだろうか……多くの者はそのような疑問を持つかもしれないが、彼を知る者ならば、おそらく現地まで足を運んだのだろうということは想像できた。

「分かった。お前に一任しよう」

 結局、長嶋は投げやりな返答をした。

「ありがとうございます」

 そして恭しく礼をする兵藤を横目に見る。

「ただし、あの組織にだけは触れるな」

「……何のことですか?」

 これだけなら穏便な提案だが、それで終わらないことも分かっている。だから長嶋は大きな息を吐いた。

「ある意味警察よりも上部に位置する裏組織……お前が知っていることは確認済みだ」

 そして、忠告でもしなければ彼がそれに手をだすことも目に見えている。

 刑事部のトップが最も恐れていることをこの男は平然と実践してみせる。だから長嶋は兵藤が嫌いなのだ。

「とにかく、今回の件に関し、あの組織には触れるな」

「しかし、プログラムに不調が起きている以上、あの組織が関わっていようがいまいがあたってみるのが刑事として……」

「刑事としてこの先も続けたいならば迂闊にタブーに手を出すな。君子危うきに近寄らずと言うだろう」

 これだけは兵藤の意見など無視をして、自分の考えを押し通す。

 兵藤は無言を返し、同時に右足の踵で小さくトントンと床を叩いた。

「不満か?」

 机の上で腕を組んだまま、刑事部長長嶋は問い尋ねる。

「失礼ですが、刑事部長はこの事態にどう対処するお考えなのでしょうか?」

 兵藤の言葉遣いは変わらない。相変わらず抑揚がない声だ。

 しかし、目を見ればはっきりとした怒りの感情が見える。

「お前は、俺が何もせずにデスクに座っている、その状況が気に入らないと言いたいのだろう」

「刑事は、現場に足を運ぶことが仕事です」

「そんな大昔の言葉をまだ使う人間がいたとはなあ」

 もう、警察の役目が完全に下火になっている時代。現場という言葉さえ耳にしなくなってきている。

 怒りを徐々に表に出し始める兵藤。長嶋が余裕な表情を保つのは、感情的になった方が口論で負けるのだと知っているからだ。今のところ、この会話は冷静でいる自分が優勢である。長嶋は最初そう考えていた。

「許可をください」

「何のだ?」

 兵藤は間を置き、まっすぐに長嶋の目を見た。

 その途端、余裕の表情が一瞬にして崩れる。一瞬でも自分が優勢だと思っていたのは間違いだった。この男の威圧の前では、自分は蛇に睨まれた蛙のようだとも実感する。

「今後私がすることに刑事部長は一切の口出しをしないという許可です。勿論、責任は全て私がとります」

 おそらく、彼のこの言葉に逆らえるのは余程の度胸がある者のみだ。少なくとも、長嶋はそのような度胸など持ち合わせていない。

「……いいだろう」

「ありがとうございます」

 兵藤は再び丁寧に一礼すると、静かに部屋を去っていった。

 ただし、扉が閉じられるその勢いには明らかな怒りが込められており……八人の男は再び身を縮めることになるのだった。


「ゴウさん! お帰りなさい」

「どうでした? ガツンと言ってやりました?」

 警視庁刑事部捜査一課。

 ここは、シミュレーションシステムやセキュリティーシステムの発達に伴い年々廃れてきた課だ。けれど、現在最も威勢のいい課でもある。

 それは、柱となる兵藤豪の人柄故とも言えるだろう。

 昔は複数の班に枝分かれしていたが、人数の少なくなった今はその括りもほぼなくなったといっていい。三十数人のスーツを着た男女が、扉に近いデスクの方に集まって、一課長の帰還を讃えている。その分窓側は私物が放置されている以外、すっかりガラ空きとなっていた。

「まあ、それなりにな」

 タバコの臭いを纏っているということは喫煙室に寄って来たのだろう。余程怒りをかきたてられたと見える。それでも、苛立った時に見られる踵で床を叩く癖が見られないところから、今はその感情も少し収まっているのだと判断できた。

 捜査一課の者ならば、あまり表情の変わらない兵藤の感情を読み取るのは朝飯前だ。

 なお「ゴウさん」というのは彼のあだ名である。彼の下の名前はたけしだが、読み方を変えてゴウ。いつからか彼は、親しみを込めてそう呼ばれるようになっていた。

「昨日は情報収集に努めたが、今日は本格的に犯罪を取り締まっていく。刑事は現場に出向いてなんぼ。そして、」

「足を使ってなんぼ、ですよね」

 兵藤の言葉に、比較的若い男が語尾を強めて答える。

「ああ」

 口数は少なく、淡々としているが、それでも彼らには兵藤が喜んでいることが十分に分かる。一課にとっての兵藤は憧れそのもののような存在だ。

「先ほどもある程度伝えたが優先すべきは市民の安全。ネットワークの不調については二課にでも任せよう」

 捜査二課はサイバー犯罪などの知的犯罪を中心に扱う課だ。ネットワーク問題は彼らに任せ、人的被害を最低限に抑えることに従事した方がいい。

 兵藤は巨大電子ボードに乱雑に書かれた文字を指さす。

 目立つ字でしっかりと書かれたのは『市民の安全第一』という言葉だ。

「あの、質問です」

 ここで、一人の女性刑事が手を挙げた。長髪でおっとりとした風貌だが、背筋をぴんと伸ばして兵藤を見つめている。

「もしも、この一件が、何者かのテロ行為だった場合、我々はその捜査も念頭に置いた方がいいのでしょうか」

 今一課に在籍する者にとっては、テロなどドラマの中の出来事でしかないが、もし本当に人為的なものだった場合に対処するのは自分たちだろう。皆の表情が一瞬して固まる。

「いや、それに関しては俺が個人的に調査する」

「え?」

 けれど、続く兵藤の言葉の方が彼らにとっては意外だった。

 あれほど普段から連帯プレイを誇示する彼が、一人で調査すると言い出したのは、一体どういう心境の変化があったのか。

「……いや、ただ現状で優先すべきは市民の安全だということだ。俺もそちらを優先し、手が空いたら調べる程度にする。それに、先程も言ったようにサイバー関係の問題に関してはこちらの担当ではないだろうからな」

 兵藤の視線の先にあるのは太い柱を挟んだ先にある捜査二課。彼らが白い目で捜査一課を見ていることは分かっている。自分たちが未だに解決できない問題を捜査一課如きが解決できるわけがないという蔑みの意も込められているだろう。

 兵藤の様子がいつもと違う……先ほどの発言で、一課の誰もがそう気づいていた。それでも、彼に対して深い追求を行う事はしない。この男の指揮に間違いが起きた事などただの一度もないのだ。全員が、彼を信じていた。今までも。そして、これからも。

「分かりました!」

 白々しい二課の視線を跳ね除けるように、一課の者たちが声を揃えて力強く頷いた。


「ルーターは既に全員持っているな」

「はい」

 再び皆が口を揃えて威勢良く答える。手には片手に収まる黒い小さな機械が握られていた。これが、二十一世紀後半には一人一つが当たり前のようになっていたテザリング用ルーターだ。

 兵藤は一部の主要機関で連絡が取れるように使用したいと上に伝えたが、実際捜査一課の人間には全員に配っている。捜査に必要だと感じているから、それだけだ。

「インターネットの使用までは無理だが、お互いがメールや電話をする程度なら使える。何かあったら使うように。では、それぞれバディを組んで早速出発しよう」

「はい!」

 返事が綺麗に重なる。返事一つとっても随分と連帯の取れた組織だ。例え他の課に異質なものを見るような目をされても気にしない。それほど強靭な精神を、兵藤の元で築き上げてきた。


「いくぞ、赤嶺あかみね

 皆が颯爽と動き始める中、兵藤は一番隅に座っていた女性刑事に声をかけた。

「ひゃ、は、はい!」

 すると、すぐにたどたどしい返事が聞こえてくる。確実に、初っ端から言葉を噛んでいた。

 彼女はまだ新米の刑事だ。そして、これから兵藤と行動を共にするバディである。

 噛んでしまったことに恥ずかしさを感じているのか、彼女は兵藤から僅かに視線を逸らしながら立ち上った。

 ざっくりと短く切られた黒い髪。兵藤と並んでもそれほど小さいという印象は受けない高身長。じっとしていればスポーティーな印象を持たれる彼女だが、終始びくびくとした動きがその印象を壊している。

「どうした? 赤嶺。顔色が悪いぞ」

「い、いえ、なんともありません」

 彼女の名前は赤嶺愛奈まな。立ち上がって荷物を纏めても、兵藤とは顔を合わせようとしない。愛奈は、捜査一課の中で唯一兵藤を苦手と感じている人間だった。

 皆に慕われている兵藤だが、どうも不愛想で思考が読めないところがある。そして何より、顔が怖い。失礼だとは分かっているが、たったそれだけの理由で愛奈は兵藤を苦手としている。他の皆が口々に「兵藤は優しい」「今日の兵藤は機嫌がいい」と言っていても愛奈にはさっぱりわからず、いつも怯えていた。

 何故よりにもよってそんな人のバディに選ばれたのか。勿論一課長と組めるなんて多くの刑事の憧れとしているところなのだから、嘆きを口にすることはできないが、それでも何度も自分の不運を恨んだ。運動能力が高く、成績もかろうじて平均より高いためにキャリアとしてエリートコースを進んでこれた愛奈だが、ここに来て心が折れそうだった。これならばのんびりと出世をしていた方がよかったとも思えてしまう。

「い、行きましょう」

 声を上げて無理やり士気を高めてみるが、緊張のせいか既に疲弊しきってしまっている。この先自分はどうなってしまうのだろう……それを思って昨夜は全く眠れなかった。

 作戦は頭に入っている。市民の安全の確保。それくらいなら、愛奈にもできるはずだ。

 しかし、事態が事態である。

 むしろ皆が普段と変わらないことが不思議でならない。

「愛奈ちゃん、ファイトー」

「は、はい……」

 同僚の男に背中を押されるが、小さな声でしか返事が出来ない。

 その様子を見ていた兵藤と目が合い、ますます萎縮する。

「赤嶺、お前も一人前の刑事だ」

 兵藤はそう声をかけた。

 それは、一人前の刑事だから自信を持て、ということなのか。それとも一人前の刑事なのにその調子で大丈夫なのか、という声かけなのか。

 愛奈にはどうしても悪い方向へ捉えてしまう癖がある。

「が、頑張りますから……」

 せめて、見捨てないでください。そう続く言葉は口に出せない。

 赤嶺愛奈は捜査一課の中で一番の弱虫を自負する刑事でもあった。


  ◆   ◆   ◆


「悪化している」

 それが、街へ出た愛奈の第一声だった。

 昨日あれだけ街の状況を把握したつもりだった。けれど確実に手の付けられない方向へ変化している。

 一晩を経て、不安と怒りが溜まったのだろうか。混乱も、喧騒も、一層大きくなっている。

「私たちはどうすれば……?」

 隣にいる兵藤に話しかける。しかし彼は答えない。

 顔をしかめ黙って前を見据えている。

 その顔があまりにも怖いものであるため、やはり愛奈は怯えて声が出せなくなってしまった。

 街の状況と相乗して恐怖感情は依然上昇中だ。腹痛を訴えて早退したくもなってしまう。


 彼らがやってきたのは、渋谷駅の前の交差点だった。もはや車道も歩道も全く関係はなくなってしまっている。車道にたむろする人々が、車の動きを止めてしまっていた。その要因として、プログラムによって人や車の動きを感知し適切に動く信号機が動かなくなってしまったことも挙げられるだろう。

 立ち並んだ高層ビルは、今や日の光を遮る程度にしか役立たない。音声と共にビルの壁に表示されるはずの広告やニュースの類も今は見られない。街の喧騒は一層大きくなっているのに、機械的な音や映像がないのは何だか物足りなく感じる。

 愛奈は一つのビルに目を向けた。渋谷駅からもよく見える五十階建の白いビルは、この国で一番大きな孤児院だ。

 タワーマンション型になっており、六歳を超えた子どもたちには一人につき一部屋が与えられている最新鋭の施設である。

 政府からの補助金を貰っており、ネグレクトにあったり親を失ったりした子どもを次々と引き取っているそうだが、今はセキュリティーシステムの不具合の所為で多くの子どもたちが締め出されている様子が見えた。

 泣き叫ぶ幼い子を少し年齢が上である子どもが何とか慰めようとしている。けれどその子でさえもう泣きそうだ。

 一体大人は何をやっているのか。

 もう年齢など関係ないのかもしれない。

 皆、平常心を失っている。


 不意に単調な電子音が鳴った。愛奈は一瞬自分の手元を確認したが、どうやら音の発信源は兵藤のMCCのようだ。

 兵藤は無言で端末を操作し、電話に応じた。そして、低い声で一言二言喋り、しばしの沈黙の後何やら礼を言って電話を切る。

 そして、再び沈黙。

 兵藤を恐れる愛奈には、この沈黙が何より怖い。

「あの、えっと、ゴウさん……」

 勇気を出して何が起きたのか聞いてみようとするが、彼の顔のいかつさは先ほどより増していた。眉間にしわを寄せ、難しい顔をしている。時代劇の中で見るヤクザのような……愛奈にとっては悪者のような顔。やはり、とてつもなく怖い。

 だからこそ、思わず後ずさりまでしてしまった。身内にこんな反応をしてしまうのだから凶悪犯などに対峙したら尚更怯えてしまうだろう……自分自身でもそう思っている。

「ここは任せた」

「え?」

 愛奈が自分自身の恐怖心と必死に戦っていると、兵藤はただそう一言呟いて走り去っていった。

「え?」

 愛奈は再び呟く。

 ここは任せた……そう言われたということは、ここに残っていろということだろう。そう指示されたということだろう。

 しかしながら……この無法地帯に一人きりになるだなんて聞いていなかった。

 どんな時もバディを組んで行動しろと命じているのは彼であるのに。

「もしかして……置いていかれた?」

 足手まといだからと切れられてしまったのだろうか。そうだとしたら、悲しい。

 彼と行動したい訳ではないが、見捨てられるのもまた怖いのだ。

「どうしよう」

 先ほどから無意味に呟いてばかり。しかしそんな愛奈を不審に思う者はいない。何故ならこの街には既に不審な者だらけ。そして、犯罪者だらけなのだ。

 食料をとってこられなかった体格の小さな少年を殴る、恰幅のいい男性。こそこそとパンを食べていた女子高生からパンを奪おうとする、女子高生の集団。休んでいる人々の水をこれでもかというほど掻っ攫って走っていく男。

「酷い……」

 この状態を酷いと言わずなんと言えばいいのか、愛奈には検討がつかない。本当にここは現代日本なのか、目を疑ってしまう。

 罵声が絶えず飛び交い、不穏な音も耳についた。

 膝が震え、涙が出そうになる。孤児院の前にいる子どもたちとは違い、自分はいい大人なのだからと言い聞かせても怖いものは怖い。これでは刑事として失格。実際何度辞めようと思った事か数えられない。

 それでも辞めなかったのは……辞表を提出するために兵藤に話しかけにいくことができなかったから。そんな理由で赤嶺愛奈は未だに刑事なのだ。


 警視庁捜査一課に貸された任務は一つだ。

 市民の安全を守る……具体的には、今起きている暴動や犯罪を取り締まる。たったそれだけだ。皆一時的な混乱状態の中で行っているだけなのだから、ある程度の者は逮捕まではせず厳重注意でいい……が、どうにも手に付けられない者は拘置所行き。手順はしっかり頭に刻み込んできた。

 しかしこの荒れた人々にどう話しかけに行けばいいのか分からない。

 呆然としていると、泣きながらきょろきょろと周囲を見渡し彷徨っている幼い少女を見つけた。

 親とはぐれたのだろうか。そう思って近づく。子ども相手ならば愛奈だって話をすることができた。

「どうしたの?」

 少し屈んで、目線を合わせる。

「お母さんやお父さんとはぐれちゃったの?」

 尋ねるが、ぶんぶんと首を横に振られてしまった。

「あっちにいる」

 その少女が指を指した先に、おそらく彼女の両親がいるのだろう。太陽の光を遮る高いビルの前には、座り込む人々が数多くたむろしていた。

 少女は涙を拭って、真っ直ぐ愛奈の顔を見つめる。

「お姉ちゃんご飯ある?」

「ご飯……ああ、固形の栄養食だけど……」

 お腹をすかせているのだと分かり、ポケットの中から自分の食料を取り出した。警視庁の本部に置いてあった非常食だ。ちゃんと非常時のための食料が用意されていて本当に良かった。普通の家庭ならば非常な事態に陥るということがまず想定できず、非常食など用意できないであろう。

「ありがと」

 幼い少女は、素早く手を伸ばすと、それを箱ごと愛奈の手から奪い取った。

「え……あの」

 愛奈は驚きのあまり咄嗟に言葉が出てこない。一人分箱から取り出し渡すつもりだったのに、突然箱ごと奪われるとは予想外だった。

 幼い少女の目は相変わらず赤く、先ほどまで泣いていたのは見て取れる。けれど、今はどこか強気な表情も見せていた。

「ママとパパと妹のりんちゃんの分と私の分! これだけあれば足りるもん」

 そう言って少女は逃げるように走っていってしまった。

 これは即ち、盗難だ。

 愛奈は刑事でありながら盗難に遭ってしまった。

 どう見ても幼い犯罪者から。


 両親がいながら何故彼女が食料を探していたのだろう。しかも自分の分だけではなく家族の分も。その理由が愛奈には分からない。 

 もし彼女が自発的に盗みの行動に出たのならば、悪いのは彼女。しかし両親が彼女にやらせたのだとしたら……責めなければならないのは彼女の両親。

 少女が指さした方向に目をやる。そっちの方に両親がいるのならば、今から行ってみるべきだろうか。そもそも少女が逃げる時に呆然とせず追いかけるべきだったのだ。

「刑事失格だ……」

 自分は刑事として何ができるのだろう。

 犯罪を取り締まることができないどころか、犯罪に巻き込まれ犯人を逃した。

 もうこのまま混乱に乗じて逃げてしまおうか……そんな風にも思ってしまう。足に力を入れる気力さえない。

 その場にしゃがみこんで嘆いていると、不意に愛奈の左腕から電子音が鳴った。兵藤からの連絡のようだ。

 電話ではなくメール。それもかなりの短文である。

「どういう……」

 内容は簡単な指示だった。従うべき……とは思うが、いまいち意図が把握はできない。ここで何もできず立ち尽くしていたことがばれるのもまた怖い。

「ちょっといい?」

 どうするべきか迷っていると、愛奈の正面に誰かが立った。話しかけられ反射的に顔を上げる。

 そこにいたのは、随分と冷たい目をした黒髪の少女だった。背は低いが独特の威圧感があり、何故か目が離せない。背後にはまた別のタイプの男性もいたが、そちらに目をやることすらできないほど、彼女の眼圧はすごい。

「ひ……っ」

 愛奈は、思わず小さな悲鳴を上げる。

 刑事としての威厳など、最早皆無だった。


「無線LAN……テザリング……へえ。そんな手があったんだ。まあ私たちにはどのみちルーターがないから意味ないけど」

 黒髪の少女がしげしげと愛奈のポケットから取り出したものを眺めている。見た目的に明らかに愛奈よりも年下だが、全く敬語を使う様子は見られない。戸惑う愛奈をよそに、小さな機械に対して食い入るような視線を向けていた。

 彼女は愛奈のMCCから発せられた電子音に気づいて声をかけてきたらしく、何故メールが使えるのかを淡々とした口調で問い詰められた。だからつい自分の身分と機械について説明してしまったのだ。自分のたどたどしい質問で分かったのだから、この少女は随分と機械に強いのかもしれない、と愛奈は思った。

「警察はこんなものを常備していたんだ。用心深い」

「あ、それは……その、警察というより……別の組織のものを借りているんです」

 向こうが敬語を使う様子がないせいで、寧ろ愛奈の方が敬語になってしまう。

「別の組織?」

「わ、私の上司が昔いた企業で……いえ、そんなのはいいんです。機密事項です」

 どこまでこの少女に話していいものか判断できず、強引に会話を切る。やはり連絡手段があるということが一般人にばれたことはまずいかもしれない。これが兵藤に知られたらどんな顔をされてしまうだろう。

「一般人にばれたくないと思ったら電子音を切っておくべきだと思うよ」

 恐ろしい兵藤の顔を想像して愛奈が震えていると、先ほどまで黙っていた隣の男が急に口を出した。少女の相手で手一杯でそちらに目をやる余裕はなかったが、眼鏡をかけた聡明そうな男に一瞬見とれそうになり、そしてまた言いようのない恐怖に苛まれていく。

「えっと……?」

「いかにもバレてしまった、まずい、みたいな顔をしていたから」

 軽く嘲笑うような調子で言われて、愛奈は思わず自分の顔を手で覆った。そんなに分かりやすい表情をしていただろうか。だとしたらあまりにも恥ずかしい。

「この人の言うことは真に受けない方がいいよ」

 まだルーターに興味津々な少女が、適当なフォローに入る。

 彼らは一体何者だろう。先ほどの冷たい、見定めるような目は何だろう。

 愛奈よりも若い二人組に、混乱させられっぱなしだ。

「あ、わ、私行かなければならないので」

「どこへ?」

 とにかくこの場から離れたい一心で立ち上がり、渋谷の交差点から立ち去ろうとするが、今度は男の方が食いついてくる。

「えっと……じょ、上司が呼んでいるので」

 焦りながら答えると、男の目がスッと細められた。そうして急に距離を縮められる。

「お姉さん、俺が聞いたのは『どこへ』。別に『なんで』と聞いているわけじゃない。刑事云々以前に日本語も分からないの? 困った人だなあ」

 さらに、細い指が自分の顎をそっとなぞった。こんなことをされれば、普通は悲鳴をあげてもおかしくもない。しかし、あまりに慣れたような手つきや顔つきを前にすると、声を出すことすらもできないようだ。愛奈はその指一本を払うことすらできず固まってしまう。

「さあ、もう一回言ってごらん」

 けれど、耳元でそう囁かれると、

「……びょ、病院です」

 と、素直な声が出てしまった。この一瞬で見事に自分がコントロールされてしまったのだろう。本当に恐ろしいのは少女ではなく、この男の方なのかもしれないと愛奈は思う。

「うん、ありがとう。お姉さん結構俺の好みなんだ。今度付き合ってよ」

 愛奈が答えた途端、男は屈託ない笑みを浮かべた。

 今度はその表情のギャップに思わずどきりとしてしまう。

 しかし、目を逸らし慌てて大きく首を振った。怖がりで用心深い愛奈だからこそ分かる。この男はその手段で幾人もの女性を落としてきたのだろう。だから、簡単に信用してはならない。そう、自分に言い聞かせる。

「わ、私はそんな安い女じゃありません」

 そう答えると、今度は急に鼻で笑われた。

「冗談だって。お姉さんの巨乳はタイプだけどそこまで気弱な人間だと面白くない」

 これは、一瞬でもドキリとした自分が馬鹿だと思った。


「で、どこの病院? 実は無能な警察の動向が気になってさ」

 また失礼なことを言われたが、反抗する気力はもう残っていない。

 愛奈は再びMCCに目を落とし、

「都市大学附属病院……だそうです」

 と、答えた。兵藤からそこへ来いと連絡があったのだ。

 距離は然程遠くなく、徒歩で三十分程度だろう。

 そもそも交通機関は全滅なのだから、徒歩で行ける距離でないと少々困る。

「都市大学附属病院……?」

 すると、先ほどまで自分勝手に物を言っていた男の顔が強張った。呆然とし、そして何かを恐れるような顔になってくる。

「都市大学って恭人が通っている……?」

 少女も顔を上げた。そして硬直する男の顔を意外そうな目で見る。

「そうか……病院……何で今まで気が付かなかったんだ」

 男はぽつりと呟いて、そしてそのまま足早に歩き出した。彼が一体何に気付いたのか、愛奈にはちっとも分からない。

「ちょっと、何が……あ……」

 疑問を口にする途中で何かが分かったのか、あの冷酷な瞳の少女の顔も一瞬驚愕の色に染まる。

「え……?」

 おかしなことに、状況を理解できていないのはメールを受け取った張本人である愛奈だけになってしまった。


 早足で歩き出す二人は、方向的にもその病院に向かっているのだろう。

「ちょ、ちょっと待ってください」

 何故か愛奈が二人を追いかける形となり……三人は都市大学附属病院へと向かう。

 兵藤は何故そこへ愛奈を呼んだのか、一体病院で何が起きているのか。

 やはり愛奈には見当がつかないが、警察としては足を使うしかないのだろう。

 涙が出そうになるのをぐっと堪えて、彼らに置いて行かれないよう歩調を早めた。


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