第2話:接続エラー

 恭人が外で泣き腫らしていた冬香という女性を宥めている脇を通り抜け、那由は入口に向かう。そして、ロックの外れた自動扉を手動で開いてみせた。

 思惑通り、開いている。ロック解除は見事成功だ。

 当然のことだと思う自分。それに対し、疑問を覚える自分もいた。

 一体自分はこんな技術をどこで身につけたのか。

 気づいたら、指が勝手に動いていた。

 MCCでパスコード解除とセキュリティーシステムのロック解除のプログラムを組み立て、ついでに端末自体のデータが飛ばないように内部にしっかりと保存することまでやってのけてしまった。一連の動きが当然のようにできてしまった。

 けれど、やはり自分の正体は分からない。


「お前、もしかして犯罪者だったとかじゃないだろうな」

 後からやってきた恭人がそう問いかける。

 否定はできない。パスコードを楽々と解除してしまう辺り、まるでクラッカーだと思った。再び、左手が無意識に首元に触れる。

「私は、誰?」

 その疑問に答える者はいない。自分が何者なのか。自分の名前さえ分からない。

 自分にハッキング技術があったとしても、容姿が分かるくらいではインターネット上で自分の正体について調べることはできないだろう。


 人の流れに沿うように最寄駅の方へ向かいながら、街の様子を眺める。ひとまず、今は地震の被害のことを考えるべきかもしれない。

 建物が崩れているだとかそんな様子は見受けられない。

 そんなことが起きていたらそれこそ驚天動地。地震くらいで倒れる建物がこの国に……とは言いすぎかもしれないが、首都であるこの東京の街にあるとは思えない。

 頑丈で無機質なビルの群れはいつも通りそびえたっている。

 ただ、街路樹に囲われた駅前広場の辺りに集まっている人々は混乱状態だった。

 予測できなかった事態に順応している人間が殆どいない。

 地震の前に警報が鳴らないことなど、ありえないことだからだ。

 今までは震度一の地震でさえ警報音は煩く鳴り響いていたはず。それが、これほどの地震で鳴らないなど一体何故か……那由が首を傾げても見当もつかない。 


「ね、さっきすごかったよな!」

「すげー! じしん!」

 はしゃぎながら駆けていく幼児の方がまだ順応していると言えるかもしれない。

 スーツにきちんと身を包んだサラリーマンらしき男はMCCを震える手で弄りながらどこかへ連絡をしようと慌てている。

 年配の女性が混乱した様子で走り出し大きく躓いて転んでいた。

 主婦らしき人物がはしゃぐ子どもに目もくれずMCCを弄り、その間に子どもはどこか遠くへと駆けてゆく。

「何これ」

 那由の口からもれたのはたった一言だった。予測ができなかった、それだけでこんなにも人はパニックになるものなのか。

 街は全く崩壊しておらず、火災も起きていなければ津波の心配もない。ただ地が揺れただけで実害などそれほど出ていないはずなのに。

「滑稽なものだな。自然災害の予測が出来なかった過去の人々だったらもっと冷静に対処できただろうに。現代技術が人々のメンタルを退化させたか」

 那由は恭人の言葉に首を傾げ暫し間を置いたが、やがて合点がいった顔をして、そしてすぐさま不満を顔に出す。

「えーっと、何? もしかして予測システムが発達したせいで、人々が異常事態に対処できなくなったとでも言いたいの?」

「事実だろ」

 那由は大衆を馬鹿にされるよりも、システム自体を馬鹿にされることの方が何故か腹が立った。その理由はまだ分からない。

 対する恭人は慌ただしい街を見定めるような目で見ていた。

「お、あっちのOL、なかなか胸が大きいな」

「……あなたは真面目なのかふざけているのかどちらなの?」

 まだ、この男のことはよく分からない。ここまで本性が分からない人間などそうそういないような気がする。

「俺が真面目になることなんてない。この状況だってむしろ楽しんでいる」

 口角を上げられそう言われると本当にそうとしか思えなくなる。

「……はあ。何でこんな時にこんな事が起きるかな」

 記憶を失くしこの後どうしたらいいか分からない。食料調達も、寝る場所の確保も難があると思っていた状況だ。それが、更に困難に追い込まれた。


「……会社の扉が開かない!?」

 ふと、スーツ姿の若い青年に駆け寄られた中年の男が大声で叫ぶ。

「うちも……電子ロックが解除できないって……」

「セキュリティーシステムの異常か?」

 それにつられるように人々が騒ぎ出し、声量が増してゆく。扉が開かない、そんな嘆きがたちまち大きく響き渡る。

「え……まさか、一般家庭でも同じ状況が起きているの?」

 那由が呟く。図書館の指紋認証装置が停止し自動扉が開かなかったように、一般家庭の電子ロックも外すことができず、扉が開かない……と。

「お前、一軒一軒開けてやったらどうだ?」

 那由のメモリを見て恭人が提案する。那由は心底嫌そうに顔をしかめた。

「何で私が見ず知らずの他人のためにそんなことしなければならないの?」

「……随分冷たいことを言うんだな。人間としてどうかと思うぞ」

 ドン引きした表情で言われるが、どっちもどっちだと那由は思った。

「あんな大人数対処しきれないし」

 パニックに陥って泣き出す人、癇癪を起す人。

 そんな人々に一々対処できるわけがない。

「あれ……?」

 恭人は何かに気が付いたように天を仰いだ。

 混乱に乗ずるように、空を厚い雲が覆いはじめている。

 それは、おかしい。

「天気予報では、今日は一日猛暑日で……雲一つない晴天だったはず」

 完璧な天気シミュレーションに基づいた予測システム。それが導き出した結果が、外れているようだ。

 いつも天気予報が映し出されるビルの壁には、今は何も映っていない。

「やっぱりテロかな……この国のシミュレーションシステムを狙ったテロ」

 那由も同じように空を見た。ここ数日の天気予報は実際覚えていないが、周囲の人々を見れば今の天気が異常だということが分かる。ただの曇り空なのに、この世の終わりのような目で空を見上げている人々がちらほらいる。

「シミュレーションシステムか……でも、建物の電子ロックのようなセキュリティーシステムは関係ないんじゃないか?」

 地震や天気の予測をするシミュレーションシステムが機能しなくなったことと、各家庭や施設にある電子ロックが不調であることのどこに、因果関係があるのだろうか。

「あー、シミュレーションシステムっていうよりネットワーク事態が害を受けているって感じかな。電子キーって、パスコードを一定回数間違えたり無理矢理こじあけようとしたりすることで警報が鳴って管理会社に情報が飛ぶでしょ? 一応、ネットワークとして成り立っている装置の一つと言えると思う」

「なるほどな……」

 恭人は自分のMCCからインターネットに接続し、混乱する人々の書き込みでも見てみようかと考えた。しかし、操作をする指が途中で止まる。

「おい、お前何かこれに細工したか?」

「細工? 精々データが消えないように内部バックアップをとったくらいで……」

 答えつつ端末を覗き込む。そんな行為も自然にできてしまう程に機械に慣れていた。ただ、それ以外の細工はしていないと思っている。

「インターネットへ……接続できない? なんで?」

「知らないな」

 恭人はつまらなさそうに吐き捨てて、MCCを自分の腕に付けられたリングの元へ戻した。これもまた、ネットワーク障害の一つになるのだろうか。

 改めて周囲を見渡す。すると、先ほどどこかへ電話をかけようとしていたサラリーマンの男が青ざめた顔で端末を見ていた。

「なんで? なんで電話が繋がらない?」

 MCCを軽く手で叩いているが、一向に直る様子はない。

 そしてその異常は、すぐに街に伝播してゆく。

「ほお……メールも出来ないみたいだ」

 恭人がMCCを弄りながら呟いた。

「やっぱりこれは個体の故障じゃない……もっと大規模な……」

 図書館の自動扉の故障はそれ単体のセキュリティーシステムの異常ではなく、セキュリティーシステム全体を管理する大本の異常だった。そして、ネットワークを繋ぐ回線自体にも異常が起きている。予測シミュレーションシステムも作動しない。自然災害予測も天気予測も既に不可能だ。

 この街に張り巡らされていた回路。端末と端末、システムとシステムを繋いでいた電波。全てが不具合を起こしている。


「妙だ」

 恭人がぽつりと呟いた。神妙な表情で阿鼻叫喚する人々を見ている。

「そりゃ、妙でしょ。異常事態だし」

「そうじゃない」

 そして、指を指す。

「例えば、あの男」

 スーツを着崩した、三十代半ばの不真面目そうな男。周囲と同じように、パニックに陥っている。

「そして、あの女」

 もう一人指を指したのはやたらに着飾ったピンヒールの若い女性。やはり、同じようにパニック状態に陥っていた。

「あの人たちがどうしたの?」

 那由には彼が言わんとすることが分からない。

「よく見ろ。動きが同じだ」

 恭人は疑問を持つことが当然だというように溜息を吐いた。そうしてもう一度双方を指さす。

 「まず、MCCを呆然と見つめ、時々いじりながら右往左往する。一見ごく普通の混乱している人の動きだが、よく見ると違和感がないか? まるでシンクロするようにぴったり重なる動きをしている。まるでトランプの神経衰弱のように、そんな組み合わせが何体か見つかる」

 恭人は「何人」とは言わなかった。

「あの人たちは機械仕掛けのアンドロイドだって言いたいの?」

「それ以外に何を言いたいと思うんだ」

 一度恭人は那由自身がアンドロイドである可能性を疑った。しかし、それはあり得ないとすぐに否定していたはずだが、今度はきっぱりと言い放っている。


「すみません」

 気がつけば恭人は右往左往する女性にスタスタと近づいていってしまった。

 そして何やら話し込み、暫くすると手を振ってにこやかに別れ、今度はその女性と同じ動きをすると言っていた男性の元へ。そして話し込み、同じようにして帰ってくる。

 那由の位置からでは何を話していたかまでは分からなかった。

「やっぱりな」

 恭人は那由のところまで戻ってくると再び振り返って、そう呟く。先ほどまでの人当たりが良さそうなにこやかな笑みは既にない。

「私にも分かるように説明してくれる?」

「俺もお前に聞きたいことがある。それに答えてからだ」

 恭人はさも当然のように那由の問いを受け流して告げる。普通の人間だったら彼の言葉の続きを待ってしまうかもしれない。けれど、那由は違った。

「いや、私が先に尋ねたんだから、先に答えて」

 眉をひそめ、それこそ当然であるかのように訴えた。

 それを見て恭人は一瞬動きを止め、

「やっぱりな」

 と、頷く。

「大抵の人間なら、こういう時そんな風に歯向かわない。当然のように言われれば素直に頷いてしまう。でも、そんな人間が全てではない。今のお前のように例外的な動きをすることは多々ある。様々な系統の質問を繰り返せば、テンプレートではない答えが返ってくるのが当たり前。でも、彼らにはそれがない。それどころか、いくつかパターンが考えられる質問でも全て同じ方向に返す。そんな偶然あり得るか?」

「その調査、本当に正しい結果が得られると言えるの? 案外質問が偏っているのかも」

 那由は内容まで聞き取れなかったが、それでも恭人のその自信に半信半疑だ。

「これでも……心理学の面には十分詳しいつもりだ。だてに大学に五年以上通ってない」

「ふうん、院生なの?」

 那由の言葉に返事はなかったが、少なくともただの学生風情ではなさそうだ。確かにあの洞察力と心理関係に関する知識量は異常だった。ある程度は信用できるデータが取れると見て間違いはないのかもしれない。だがしかし、それは『絶対』ではない。

 言われてしまえば街全体が機械めいたものに見えてしまう。けれどそれも植え付けられた意識で見渡してしまうからに過ぎない。

 あらゆるシステムは停止してしまったのに、人間が機械にすり替わるなど……おかしな話だ。もう何を信じればいいのか分からない。


「お前はどうなんだろうな」

「私?」

「技術を見る限りとっくに理工学系の院を出てどこかIT系の企業に就職しているのか……はたまた犯罪者なのか。容姿的には俺よりも年が上には到底見えないが」

「さあ……ね。案外私自身も高性能に作られたアンドロイドなんじゃないかって気がしてきたよ……大体、その仮説が正しいとして、何故こんなうじゃうじゃとアンドロイドがいるの?」

 まだ、確定するべきではないと思ったが、一応そう呼ぶことにする。

「俺たちみたいに普通の人間もいる。おそらく全員がそうって訳でもなさそうだ。この混乱状態じゃ分かりにくいが、ざっと見た限り人口が増えているようにも見えない……これは、ただの推測にすぎないが」

 恭人は暫し躊躇って、もう一度人ごみを眺めた。

「一部の『人間』が消えて、その代わりに奴らが置かれているとしたら?」

「人間が消える? 百歩譲ってアンドロイドは信じても、流石にそんなことはありえないでしょ?」

 システムの不具合。地震。それに加えて人間が消える? 災いがそこまで重なっていいものか。あまりに出来過ぎている。

 無意識に首元に添えられる左手。自覚すると、自分の癖にさえ違和感を覚えてしまう。


「だ、誰か!」

 突如、叫び声が聞こえた。先ほどまで聞こえてきた、混乱に乗じた無意味な叫びではない。明確に、助けを求めている。

 見れば、制服を着た女子高生が一人地面に蹲っており、その隣で一人の女子高生が声を上げていた。

「灯里、しっかりして、灯里」

 その呼びかけにも蹲っている女子高生は何も返せない。

 身体が弱そうなタイプには見えない。髪を短く切って健康的に日焼けした外見。普段から運動をしていると見受けられる。

「あの人たちは?」

「おそらく人間。奴らは自分から目立った行いをしようとはしていない」

 こういう場合、誰かが助けに行かなければならないのかもしれないが、原因が分からない以上は動く気にはなれなかった。


「ねえお母さん、喉乾いたあ」

「こんな時に何言ってるの。大丈夫よ、脱水注意表示は出てないし」

 状況を眺めていると、駄々をこねる幼子とそれを宥める母親が、二人の前を横切った。

 脱水注意表示。それはMCCにインストールできるアプリケーションで、体調管理シミュレーションシステムから作られたソフトの一つだ。

 脱水状態や空腹状態、血圧の状態や睡魔の状態などを、気温や湿度の変化予測や水分補給、食事の量、手首から図れるバイタルデータなどから通知してくれるシステム。これにより、熱中症を始めとする体調不良者がぐっと減り、健康的な人間が増えた。

 これに頼れば簡単に健康状態を保つことができる。しかし……

「ちょっと待って」

 那由はその親子を引き留めた。

「そのシステム、本当に機能してる?」

「え?」

 那由は端末の確認を促した。母親がはっとした表情で調べる。

「……エラー表示?」

 そんなもの、彼女は見たことがなかった。

「天気や気温の予測システムが故障しているんだから、そのシステムが機能するはずがない」

「あ……」

 母親は立ち止まって子どもを見る。暑さで大量の汗をかいている。それすら気に留めていなかった。プログラムが知らせてくれるはずだと思っていたからだ。

 そこまで、人間の判断力は落ちている。やはりこういう状態でも幼い子どもは正しかった。機械に左右されず、感情のまま不調を訴えていた。

「ということは……」

 からくりが分かってきた気がする。那由は振り向いて先ほどの倒れていた女子高生に目を向ける。


「もう大丈夫だよ。軽い脱水症状だったみたいだから、日蔭で安静にして、こまめに水分を取ってね」

 そこには、女子高生の頭を膝に乗せ、優しい言葉をかけている男がいた。

 恭人だった。

「えっと……」

 先ほど、大して助ける気のなさそうな目で見ていたのは誰だったのか。

「あの、ありがとうございます」

 助けを求めていた女子高生が深々と頭を下げている。

「いいよ、困っている女の子がいたら助けるのが俺のポリシーだから」

 非の打ち所のない爽やかな笑顔に、女子高生二人は顔を赤らめている。これは完全に、口説きにかかっている。

 できることならあのまま置いていってしまいたい、と那由は思った。けれど、自分はMCCもお金も記憶さえも何も持っていない。この状況で一人で行動するのは不可能に近い。結局、協力者が必要なのだ。それが何故彼になってしまったのかは理解に苦しむが、あの洞察力と手八丁口八丁に人を動かす能力はかなり貴重だと思われる。それを手放すわけにはいかなかった。

「……どうしよう」

 頭を抱えるしかない。ああいう人間にはどう対処したらいいものか。


「おい、お前」

 あまりに恭人に気を取られ過ぎていたからか、背後に人がいることに気が付かなかった。

 黙って振り向くと、いかにも柄の悪い男が数人立っている。派手に染めた髪と腰からずり落ちそうなズボンが非常に不快だ。

「一人か?」

「まあ、見れば分かると思うけど……」

 先ほどまでの連れは女子高生をナンパ中。少し間違えれば犯罪だ。

「もうすぐこの世界は終わりだ。その前に俺たちに少し付き合え」

 これは多分、とても下品な誘いだ。下卑た笑いが耳につく。

 ナンパにしても誘い方が酷過ぎる。やけっぱちになっているのだろうか。

「生憎、あなたたちみたいな単細胞に付き合っている暇はない」

 那由は冷ややかな視線で声をかけてきた男たちを見る。大体、何がこの世の終わりだ。街が壊滅的な状態に陥っている訳ではない。

 システムに頼りすぎた人間たちがそれの故障によって騒いでいるだけ。

 倒れている人間も皆システムに頼り過ぎていた所為だ。世界の終わりなどという呼称はあまりにも馬鹿らしいと那由は思った。

「はあ? 随分と舐めた口をききやがるな」

 当然、那由の口ぶりに相手は怒り心頭の様子である。

「単細胞を単細胞といって何が悪いの? あ、素直に馬鹿って言った方が良かった?」

 しかし那由は言葉を訂正したり取り繕ったりするつもりはない。

 思った事を率直に口にするだけ。

 言っておいて、自分はこんな性格なのだな……と再度実感した。

「……っ」

 この、普通の人間とはかけ離れた冷たい言葉に、流石の男たちも声が出せないようだ。睨みをきかせるも、那由は冷ややかな表情で男たちを見ている。自分より背が高く体格がいい男たちにも、全く恐怖を感じることはない。

「おい」

 その時、また那由の背後から声がかかった。

「そんなところで油売ってないで行くぞ、貧乳」

 それも、明らかに小馬鹿にしたような声だ。

「お前、あの女子高生よりも胸がないぞ。まああの子は規格外か? それでもお前は平均より小さすぎる。やっぱりお前が大学生かそれ以上という可能性は排除してもいいかもしれない。まあそれはともかくとして、早く行くぞ。俺はまだお前に質問をしていない」

「……そうだね」

 ほぼ悪口ともとれる言葉になんと返したらいいか分からなかった。確かに自分には胸のふくらみがないようだ。それに関しては特に何も思っていなかった。しかしストレートに言われると少し気に障るものがある。文句を言おうとすると、

「ちょっと待て」

 と、怒りに満ちた声が呼び止める。けれど既に彼らは二人が対処するまでもない相手だ。

「君たち、こんな貧乳しかナンパできないなんて可哀想だね。今度何人か紹介してあげようか? ああ、でも君たちにとっては今日がこの世の終わりなんだっけ? 残念だなあ」

 そう言って恭人はさっさと去っていこうとする。

 那由は慌てて後に続いた。

 相手は依然唖然としているが、追いかけるという思考に辿り着かなかったようだ。誰も寄り付かせないくらいには、二人の纏う空気は少々異質で冷たいものだった。


「ナンパはどうしたの?」

「いや、結構いい雰囲気になったし連絡先でも交換しようと思っていたんだけど、それすらうまく出来ない状態でさ。流石に事を早く進めすぎるのは危険だし別れてきた。つまらないな。結構可愛かったのに」

 平然と言ってのけるこの男は、本当に信用できる相手なのだろうか。

 最初から信用はなかったが……自分が認めた才能は本当のものだろうか。段々不安にもなってくる。

「てっきり年上好きかと……」

 あの司書の女性は随分と年が上だったように見えるが。

「別に? 俺は胸が大きくて可愛ければ誰だっていい」

「胸って……」

「つまり、お前のような貧乳は範囲外」

「な……っ」

 そこまで宣言しなくてもいいだろう、と那由は思った。勿論この男に好かれて気持ちの悪い口説き文句を浴びせられるのも嫌だ。しかしここまで悪く言われるのもどうかと思った。

「そんな遊びまくっていて勉学の方は大丈夫なの?」

「勿論。女遊びは趣味の一環だし」

 趣味で付き合わされる女性は如何なものだろう。

「彼女がいたことは?」

「ない。面倒くさいだろ、そういうの」

 呆れた。人間として底辺にいるような気がした。本当に彼は頼れる相手なのだろうか。


「……まあいいや。それで、私に聞きたいことって?」

「お前が記憶を失くしたと気が付いた場所と、その大体の時間を教えてくれ」

 そういえば、まだ詳細を伝えていなかったと那由は気が付く。

「そうだね……場所は渋谷駅のスクランブル交差点の前。時間は……大体今から四時間くらい前……おそらく正午だろうね」

 指で方向を指しながら説明する。

「正午か……ふうん」

「それが何か?」

「いや、こっちの思い過ごしかもしれない」

 恭人は独り言のように呟いた。彼の頭の中で何が繋がろうとしているのかは分からない。

「そういえば、さっきの女子高生に水をあげた所為で手元に飲み物がないんだ。ちょっとコンビニに寄ってもいいか? その後、渋谷駅まで行こう。にしても……お前こそ脱水症状にならないのか?」

 この失礼極まりない男が、珍しく心配するような事を言ってきたことに思わず眉をしかめる。否、ただ単純に疑問を持っただけだろう。

 今は気温が表示されていないが今日は相当な猛暑日だ。那由はそんな日に数駅分も歩いて図書館に来た。

「そういえば……何となくくらくらするような気がする」

「おい……」

 呆れたような目を向けられる。意識をすると視界も歪んで見えるような気がした。

「でも、なんか慣れているような気がするな……この感覚。そういえば、お腹も減っているような……」

 そのとてつもない空腹感も、何故か慣れているような気がする。

「ああ、そうか……なんかくらくらしながらひたすら……指を動かして画面を見て……そう、プログラム作っていて……あれは……どこだったっけ? 何を……作っていたんだっけ?」

 その通常ではない感覚に少しだけ何かを思い出せそうになっていた。やはり自分は常日頃から何らかのプログラムを作っていたらしい。飲み食いを怠りながら。

「……やっぱり企業勤めではないな。社員の体調管理もしないような企業が今時あるとは思えない。数十年前の不況時とは違うんだ」

「ああ……昔は相当ひどかったって聞くね……当時定められた一日の労働時間の最高が八時間もあるってのも驚きだけど、それを破るのは当たり前だったとか」

 八時間……口にしておきながら、どうもその数字にピンとこなかった。それが多いと感じなかった。自分はそんな時間よりもよっぽど長い事画面に向かっていたような気がするが、一体何故だろう。

「ま、それはともかくこんなところで倒れられても困る。さっさと買にいこう」

 そういって恭人は少し先にある、ビルの一階に構えられたコンビニを指さした。

「……ん? なんかすごく混みあってない?」

 恭人の指の先に目を向けた那由は呟く。

 黄緑と白の看板が目立つ、よくあるチェーンのコンビニ。 

 そこは……中に有名人でもいるのではないかと思うほど、内部も外部も何故か人で溢れていた。

 ひとまず近づいてみると、余計に異常さが伝わってくる。それは最早店などではなく、無法地帯のようだった。

「あ……え?」

 店から出てくる客の一人を見て那由が思わず声を出した。

 どう見ても、その客はレジに寄ることなく店を出ていった。

 普段は無人が当たり前のコンビニだが、異常事態とあって裏手から出てきたらしい店員は、既に言葉を失っている。

 店は今、無断で商品をさらっていく客で溢れている。否、それはもう客とは言えないだろう。

「商品を店から持ち出すと警戒音が鳴る……けど、そのセキュリティーシステムは故障中。だから無断で持っていってもいいと思った……いや、世の中そんな悪人ばかりか?」

 疑問を口にしつつ恭人は残っていたペットボトルの水を一本取った。

 客の入りをシミュレーションして常にぴったりの数商品を用意するコンビニ。しかし、圧倒的に商品の数が少ない。皆、手あたり次第に商品をひったくる。

「ああ……もしかして金の管理システムまで壊れているのか?」

 レジを見て呟く。

「どう見てもそうだね」

 また一人、菓子の袋を大量に持って店を飛び出していく客を見送りながら、那由も小さく頷いた。


 硬貨や紙幣を使用する時代遅れな者がいたらまだまともな買い物ができたかもしれないが、残念ながら今の東京にそんなアナログなシステムを使う人間など殆どいないだろう。

 金銭のやりとりはMCCか財布と呼ばれる薄型の電子端末を使って行われる。

 このようなコンビニなら、レジで専用の端末に財布をタッチすれば金を払うことができる。個人同士の金のやり取りもそれぞれの財布を合わせるだけで行えるし、親が子どもに小遣いを与える時も、子どもの財布に自分の財布をくっつけるだけでいい。家庭用の財布も持っていればそこに生活費を貯蓄することもできる。また、この財布は現在いくら入っているのか、その日一体いくら使ったのか、何に使ったのか、全てを表示してくれる。勿論、電子ロックをかけることができるため落としても悪用されにくい。

 しかしそうはいってもハッカーが現れれば簡単に金を奪われてしまう。個人同士のやり取りならまだしも店舗などの金銭管理はかなり厳重だ。チェーンのコンビニは、その店で支払われた金のデータが即座に統括する機関に移るようになっていた。その転送機能において独自のプログラムが使用されているのだ。今まで見てきたものと同様、この金銭管理システムのネットワーク自体に問題が生じているのかもしれない。

 そして、建物の扉をロックするセキュリティーシステムと同じように、全体を繋ぐネットワークに何らかの異常が生じているために、個別での働きを失ってしまっているというのが那由の見解だ。

「すごい、反応しない」

 恭人がレジに財布をタッチさせながら楽し気に笑う。

「金が払えないなら、食料が手に入らない。でも、どうせセキュリティーシステムも働かない。なら、盗めばいい……なんという単純な考えなんだか」

「……確かにね」

 ちょっと状況が重なっただけ。それだけで人間は皆泥棒になってしまうのか。

「まあ、集団心理も関係しているだろうがな。誰かがやっている。それだけで罪悪感は薄れてしまう。それに予測されていない地震のせいで皆、パニックになっている。パニック状態なら常識が崩壊してもなんとも思わなくなってしまうんだろう。無意識に自分の行動を肯定してしまう」

「なるほどね」

 納得はし難いが、一応頷いた。

「さあ、いくか」

「え?」

 恭人はいつの間にかペットボトルの他にサンドイッチと固形栄養食を持っていた。固形栄養食は一口分で一食の食事になる便利な食料だ。

「お前は何もいらないのか?」

「あ……えっと」

 いらない、とは言えない。ここで食料と水分を手に入れなければ自分は脱水症状で倒れるか、餓死するかのどちらかを選択することになる。生死と犯罪行為を天秤にかけたら、生きる方が優先だ。那由は既に閑散としている棚から急いでペットボトルの緑茶と固形栄養食を取った。盗った、という方が正しいかもしれないが。

「もしかしてすぐに東京中の食料が尽きてしまうんじゃないか?」

「まさか……貯蓄もあるし……」

「余分な貯蓄はしてないだろう。この人口が一日にどれくらいの食料を必要とするかはシミュレーション済み。でも……地震で棚が倒れるなどしていくらかの食料はダメになっている。それに、間抜けにも自分の家の電子ロックが開けられなくて外食をせざるを得ない者がいる」

 予想外が次々と起こっている。本当に、食料がなくなるという事態が起きるかもしれない。

「電気は通っているんだな……一体なんでこんな次々と……」

 そろそろ日が落ちてくる。暗くなるのを察知するという古典的な方法で作動する電灯はパッと明かりを灯した。

 しかし、日入りの時間までもシミュレーションに頼っているビルの明かりはいつまで経っても点かない。電気が通っている限り手動でも点けられるだろうが、それを人々はすぐに思いつくだろうか。今まで誤作動など起きてこなかっただろう。電源の在り処をしっている人間も少なそうだ。

「国家単位で管理されている最先端、またはデータ量が膨大なシミュレーションシステムやプログラムはみんな人工衛星を経由している。それに何らかの不調が起きたんじゃないかとも考えられるかな」

 那由は首元に左手を添え、天を仰いだ。それくらいでこの地球の周囲を回る多量の人工衛星を見ることはできないが。

「人工衛星……ああ、スーパー人工衛星のことか」

 スーパー人工衛星は多くの先進国が所持する巨大なインターネットサーバーのようなもので、国家単位の巨大なデータは全て、そのスーパー人工衛星が絡んでいた。

「でも、普段使われる人工衛星の一つが故障したとして……日本にはそれがうまく起動しなくなったときのための予備のスーパー人工衛星がある訳だろ? そのどちらも壊れてしまうなんてことは……」

「そうだよね……仮に二つ目のスーパー人工衛星が壊れてしまっても、上層部しか知らない予備の予備……三つめのスーパー人工衛星だって存在するのに……それが全てダメになるなんて……」

 恭人の疑問を受け、那由は深刻な表情でぽつりと呟いた。

「は?」

 その言葉に恭人が顔をしかめる。今、明らかにおかしな単語が飛び出した。

「上層部って何のことだ? しかも上層部しか知らないって……じゃあなんでそんな情報をお前が知っている?」

「……あれ?」

 確かにおかしいと気が付く。何故、そんな機密情報を自分が知っている? そもそも一体どこの機密情報なのだろう。

 やはり自分は只者ではない。もう薄々分かっていたことが改めて突きつけられる。

 自分は、一体…… 

 そう考えた時、唐突に頭の中が真っ白になった。

 自分について思い出そうとすると、何かが邪魔をしてくる。

 今まで考えていた事に、真相に近づきかけた頭に、空白が生まれてしまう。

 心の中まですっかり空っぽになった気がして、なんとも言えない気分の悪さを感じる。白かった目の前が今度は黒く染まり、ビルの間で反響するような切羽詰まった足音が聞こえてくる。荒い息遣いと共に聞こえてくるそれはどんどん大きくなり、やがてぐらりと目眩がして……赤いものが、見えた。

 それは、まるで……


「おい」

 恭人の声で、那由は我に返る。

 自分は今、何を思い出そうとしていたのだろうか。途端に分からなくなる。

「顔色が悪い。早く水分補給をしろ」

 彼はそう言うと、半ば強引に自分の水を那由の口に突っ込んだ。

「……っ」

 意識ははっきりと戻ってくるが、同時に咽た。何度か咳をしてやっと落ち着く。それと同時に、自分が思い出しかけていたことなど、もうすっかり忘れてしまった。

「何するの?」

 強引なその所業に睨みをきかせる。

「無理に思い出さない方がいいかもしれない」

 対する恭人はやけに落ち着いていた。

「え?」

「精神的な原因からくる記憶障害は、過去にあった嫌なことを排除するために自ら記憶を忘却……封印していることがある。あまりよくない体験がお前の記憶を消しているのかもしれない。その場合、下手に思い出してしまうのは危険だ」

 那由は、恭人が先ほどからやけに自分の顔色を窺っているように感じた。人間観察は趣味ではないのではなかったか。

「危険?」

「余計パニックに陥る」

 那由に無理やり飲ませた水を自分も一口飲むと、恭人はにやりと笑った。

「それでもいいなら俺が思い出させてやろうか」

「そんなことできるの?」

「どうしても思い出したくないようなトラウマ……それをひたすら羅列して、後は反応を見ながら連想術から当てていく……時間はかかるが案外いけるかもしれない」

 記憶は思い出したい。しかし、もしそれが、とてつもない恐怖を伴うものだったとしたら少し、躊躇ってしまう。

「今は……いい」

 結局、断ってしまった。

「ふうん」

 恭人は再びにやりと笑った後、行くか、と呟く。

「ああ、そうだね。早いとこ渋谷に……」

「それはもういい。今日は街にいても渾沌とした状態に嫌気がさすだけ。だったら、さっさと退散して明日の様子を見る」

 次々とトラブルが起きる街。確かに、長時間いても事態は悪化し続けるだけだ。ひとまず騒ぎの鎮火を落ち着く場所で待った方がいいかもしれない。

「でも、どこで?」

「決まっているだろう。寝床だ」

「寝床……」

 どうも明日になるまで眠って過ごすつもりらしい。恭人は大きく欠伸をした。

「ほら、早く来い」

「え……もしかしてだけど、私のこと、泊めてくれるの?」

 衣食住に関しては非常に困っていた。もし寝床を提供してもらえるならば素直にその好意に甘んじたい。

 例え床で寝ることになっても、室内にいるだけで大分環境が違うというものだ。

 泊めてもらえるというのならば、少しだけ彼のことを見直していいかもしれないと那由は思った。

 すると恭人は屈みこんで那由の目線に合わせた。整った顔がすぐ目の前にやってきて、那由は思わず一歩後ずさりをしてしまう。真剣な表情と目が合う。何故か視線を逸らすことができない。そのまま彼の表情は深刻なものとなり、やがてゆっくりと口を開いた。

「お前が必要なんだ」

 彼は那由がゆっくりと首を縦に振るまで、じっとその瞳を見続けた。


「うん……そんなことだろうと思った」

 電子ロックはありとあらゆる建物についている。寧ろこのご時世電子ロックではない建物は珍しい。電子ロックでない建物があったとして、もしもその鍵を落としたら面倒なことになってしまうだろう……そう思っていた時期もあった気がするが、今は逆に電子ロックの部屋に入れない状態だ。世の中どんな逆転が起きるか分からない。

 那由は電子ロックの付けられた扉の前でじっくりとそれを観察した。どうも扉のロックを解除するための要員として呼ばれたらしい。自分は業者でもなんでもないのだと、大きくため息をついた。

「でも、ここって家じゃないよね?」

「家みたいなものだ」

「……そう」

 言いたいことは様々あったが、那由は電子ロックの付いた扉の前に立つ。

「って、こんなただの建物の扉にチップを差し込む場所がついているわけないよ」

 しばらくは何か突破口がないかと眺めていたが、諦めるようにそうつっこむ。制御盤があれば別だが、このたった一つの部屋の扉のために制御盤があるようには思えない。管理会社にでも行かない限りプログラミングでの解除はおそらく不可能だ。

「パスワードを打ち込むパネルは……うん、全くの無反応……」

 流石の自分でもどうにもできない。すると、背後から悪態を吐く音が聞こえた気がした。先ほどの懇願する様子はどこへいったのだろうか。どうせ演技だったのかと、那由も同じような反応をしたくなった。

「仕方ない。まあ期待はしていなかったけどな。そこはついでだ。ついてこい」

 そういって恭人はスタスタと歩いていこうとする。

「その前にここがどこか教えてくれる?」

 那由はやっと先ほどからの疑問を口にすることができた。

「ん?どう考えても大学の研究棟だろう。医学部の」

「まあ、看板見れば分かるけど……」

 都市大学医学部という看板なら先ほど見た。

 慣れた様子からも、彼が所属している大学の内部ということは間違いなさそうだ。大学に五年通っているというのは院生だからではなく医学部だったからのようだ。

 

 図書館の最寄駅から歩いて三十分ほどの場所に、この大学のキャンパスはあった。

 どれほどお金をつぎ込んだのか、石造りの巨大な門が来訪者を迎え入れ、白く統一された清潔感がある箱型の建物が丁度シンメトリーになるような形で並べられている。道は低反発の合成粘土で丁寧に舗装され、両脇には桜や松や銀杏の木がやはり規則正しく並んでいた。この医学部の研究棟は、その片隅にあった。この建物もやはり真っ白で、窓ガラスが西日を反射してきらきらと輝いて見える。

 ただ、その豪華な外見に比べて内部はいたってシンプルだった。

 閑散とした廊下に同じような無機質な扉が並ぶ。プレートのない扉もいくつかあり、慣れていなければ迷子になりそうな造りだ。監視カメラもいくつか設置されているので、コンピュータが人物の動きから不審者を見つけ出す仕様になっているのかもしれない。

 扉に目を向けて歩いていると、この無機質な景色をどこかで見たことがあるような気がしてきた。街中の景色や晴れ渡った空よりもずっと、見慣れたような、どこかに似ているような、不思議な感覚がしたのだ。

 何か資料を抱えながら淡々と廊下を歩き、そして手前から三番目の扉の前に立ち電子ロックを外して……

「うっ……」

「どうした?」

 自分の前に立っていた恭人が振り向く。那由は口に手を当てて黙っていた。

 恭人は暫く考え込んでいたが、やがて、

「俺はここに来る人物くらい大体知っている。その中にお前のような貧乳がいた記憶はないんだ。お前はここへ来たことはない。もし過去の記憶とシンクロしたとしても、ここではないことは確かだ」

 と、ゆっくりと言い聞かせるように告げる。

「……分かってる」

 那由はそう答えるが、恭人の言葉を聞くまでは頭が混乱してそこまでの思考に辿り着けなかった。この発言は単なる強がりだ。吐き気を無理やり飲み込む。

 そして、おそらく過去に通っていた嫌な場所の記憶と重なってしまったのだと判断した。

 過去の記憶を無理矢理引きずり出すのはやめよう……そう自分に言い聞かせる。何度も吐き気や眩暈に襲われていたらたまってものではない。

「そういえば、自分の家には行かないの?」

 話題を逸らすために、那由は疑問を投げかけてみた。

「暫く帰ってない」

「え?」

 言葉を短く切ると、恭人は階段に向かって歩き出した。これでは彼の表情を見ることもできない。

 彼について黙々と階段を上がり、また上がり……暫くは無言でついていたが、十階ほどは上ったあたりで、那由は息をきらしながら前屈をして、膝に手をつけた。

 ただでさえ十階分というなかなかハードな道のりをきたのだ。その上恭人の足の速さに合わせるのは無理がある。

 恭人はまたスタスタと歩いていこうとしたが、立ち止まった那由の様子に気が付いたのか、彼女の元へと数段戻った。

「貧弱だな」

「……こんなに階段を上るのは無理がある」

 心配してくれるのかと少し期待したが、そんなことはなかった。ただの罵声が振ってきただけだ。

「ほら」

 また置いていくように歩き出されるのかと持ったが、何故か恭人は那由に向かって手を差しだした。

「え?」

「時間の無駄だ、早く行くぞ」

 那由は、おそるおそる彼の手を掴む。すると、ぐいっと力強く引っ張られた。そのまま再び階段を上り続けるが、今度は彼も那由の歩調に合わせてくれているようだった。一応彼にも人間の心があったのだと、ほっとする。

 さすがに恭人も疲れているのか繋いだ手はすこしばかり熱くなっているが、それは那由も同じだった。熱を持った手同士の間に汗が生じる。離れないように、握っていた彼の手を再び強く握りしめた。

「さてと」

 15階。そう書かれた階でやっと恭人は立ち止まる。ゆっくりと歩いたお蔭で那由の息も大分整ってきていたが、それでも足は重りがついたかのように気怠くなっていた。

 閑散とした廊下に足音を響かせながら何とか彼についてゆき、一番奥にある部屋の前で再び立ち止まる。

 そして、手がするりと解けた反動で再び膝に手を付く。立ち止まったことで身体に溜まっていた熱が汗と共に発散された。

 部屋の前で扉を確認すると、ここにもやはり電子ロックが付いていた。これでは先ほどまでの部屋と何も変わらない。けれど恭人は躊躇いなく扉を横に引いた。

「え……?」

 すると、扉はガラリと音を立てていとも簡単に開いてしまう。

 内部には、大きな機材や、資料が詰め込まれた棚で半分以上が埋められた小汚い部屋が広がっていた。全てが乱雑に投げ捨てられるように置かれ、あまり見栄えはよくない。少なくとも客人を招くにはあまりにも不向きだ。また、一角は誰かの所有物らしきものに占拠されている。

「もう存在さえ忘れられている物置だ。電子ロックはとっくに壊れている」

「なるほど……」

 恭人は誰かの所有物らしきものの山に自分のぬいだ白衣を放り投げた。

 誰か、という必要はないだろう。おそらく彼の所有物だ。

「もしかして、ここで寝泊まりしているの?」

「ああ」

 よく見ると棚の影に人が一人寝ころがることができそうなソファーがあった。応接間にでもありそうな、柔らかそうな材質のソファーだが、ところどころ汚れが目立つことから、新しいものと取り換えられて物置行きになったものなのかもしれないと考えられる。


 階段を上っているうちに、窓の外はすっかり日が落ちていたようだ。現在の時刻を確認するが、もはや壁につけられたデジタル時計も信用できなくなっている。単純に規則正しく時を刻む機能まで作動しなくなるとは思いたくないが。

 恭人はソファーにどさりと座ると、固形栄養食を口に入れて咀嚼した。空腹も凌げれば栄養も補給できるすぐれもの。毎日それを食べるだけでも人は健康に生きていける。勿論、毎日そんなものだけ食べて生きていきたいと思う人間は物好きでない限りそうそういないが。

 那由も同じように固形栄養食を口に入れる。そして、ふと気が付いた。

「さっきのサンドイッチは食べないの?」

「この食事に飽きたときに食べる。それより、お前はいつまでこの部屋に居座るつもりだ?」

「え……?」

 すぐに彼の言わんとするところは分かった。

「確かに電子ロックを解除するためだけにいる私はもう不必要……ってじゃあなんで私はここまで上って来たの!?」

 ここでもう帰れと言われても納得はできない。

「冗談だ」

 恭人は呆然とした那由の顔を見ておかしそうに笑った。その笑顔は先ほどまで自分に向けていた厭味ったらしいものではなく、どうやら素のものであるようだ。

 顔が整っているだけあって、笑顔も映える。

 女子高生たちに向けていたような屈託のない笑みだが、正面から見るのは少し新鮮だった。

「多分お前の技術はこの先も必要になる。それに、記憶のことも気になる……こんな使えそうな奴を簡単に手放すか」

「つ、使える……って」

 しかし、結局飛び出したのは辛辣な言葉だった。

 ただ、それは那由も先ほどまで考えていたことだった。

 この男の洞察力と会話力は使える、と。

「まあ、お互いがお互いを利用すれば両者得することがある……かもね」

 だから今は、無理矢理納得することにした。

「じゃあ、お世話になります」

「ああ。その辺の床自由に使っていいからな」

 そう言って恭人はソファーに寝転がった。

 そのまま目を閉じるあたり、もう就寝するらしい。

「え? ちょっと……」

 ソファーを使わせろ、というのは流石に傲慢かもしれない。使うか? と問われればちゃんと断るつもりでいた。けれど、他に何か話すことはないのか。あまりに自由過ぎはしないか。

「トイレなら反対の突き当りだ」

「う、うん……」

 事務的な言葉に那由は何も言えなくなる。

「もしかして襲って欲しいとでも思っているのか? さっきも言ったが俺は貧乳には興味がない」

「人をあなたみたいな性欲の塊だとは思わないでほしい」

 こんな状態で何を言いだすのか。

「それから貧乳って繰り返されると流石に傷つく」

 自分の容姿は自分の責任ではないと言うのに、どうしてこうも繰り返されなければならないのかと不満に思う程度の感情は存在する。 

「そういえば……名前がなかったな、貧乳」

 それが呼び名になるのは非常に困る。けれど、現在の那由は自分の名前すら思い出せない。

 那由はソファーから少し離れた位置にある場所に座り込んだ。夏は床の方がひんやりとしていて気持ちがいい。

「明日までにもうちょっといい呼び名を考えておくから」

 ひとまずそう答えておくことにした。

 恭人はそれに答えず一つ欠伸をする。

 そして、暫く気まずい沈黙が流れた。


 どれくらい経っただろうか。やがて、恭人が口を開いて沈黙を破った。

「……お前はこの状況に何とも思わないのか」

「え?」

「俺が一人ソファーに寝そべって、お前は床に座っているこの状況」

「それはまあ、私は居候させてもらっている身だし……文句は言い難いけど、でもまああなたの性格の悪さはひしひしとにじみ出ているね」

 思ったことをあえて言葉にすると、

「……なら早くそう言えよ。ツッコミ待ちだったのに完全に言うタイミング逃したじゃないか」

 恭人は易々とソファーから降りた。わざとらしく欠伸をしたのも、自分はもう寝るけどいいのか? というアピールだったようだ。

「……ここ数時間見させてもらったあなたの性格からじゃ分かりにくいよ」

 一応彼にも良心もあったのか、と複雑な気持ちになりながら息を吐く。

「でも、いいよ。悪いし」

「そうか……なら半分ずつ使うか」

「え?」

 共用するとなると随分と窮屈なソファーではないか、と那由は思う。どう考えてもかなり密着しなければならない。

「何を考えているかは知らないが、こうすればいい」

 すると恭人はにやにやしながら、ソファーの端を引っ張った。

 それは、どうやら二つの一人掛けソファーがくっつけられているタイプだったらしい。

 分離され、一人掛けとなったソファー。寝転がるのは無理だが、背に凭れて座った状態で眠ることならできる。少なくとも床で眠るよりいい。

「……ありがとう」

 とりあえず気遣いに礼を言って、ありがたく片方を使わせてもらうことにした。


「あ、あと」

「何だ?」

「あのさ、汗、どうにかしたいんだけど」

 ここへ来るまで随分と汗をかいてしまったことが今になって気になってきた。

「ああ、そこに殺菌作用付きタオルがある」

 恭人の私物の中に密閉された袋に入ったタオルが混ざっていた。消臭効果や殺菌効果があり、風呂に入らなくてもある程度は清潔感が保てるレジャー用のタオルだ。

 恭人は自分の分を一つ取り、那由にも投げ渡した。そしてそのまま……上半身の服を脱ごうとする。

「ちょっと待とうか」

 那由は静かにその動きを制止した。

「一応私も女なんだけど」

「ああ、欲情してしまうと」

「そうじゃなくて……」

 制止の言葉も聞かず恭人は服を脱いでしまう。細い身体だが、意外に筋肉はついている。多くの女性が理想とする男性の体つきだろう。

 那由は目を逸らした。男性の上半身くらいなら見たことはある。けれどどうにも居心地が悪い。

「えっと……私は外で拭いてくるから」

 だから、そう告げてタオルを持って部屋の外へと避難した。


 一応誰もいないことを確認してから衣服を脱ぐと、自分の身体が随分と細いことに気が付く。筋肉もついていない、痩せ細った身体だ。多くの女性が求める体型より少し痩せすぎているような気がする。そしてやはり胸もない。

「まあ、私の知ったところではないけれど」

 記憶にない自分の私生活など関係ない。ある程度身体を拭くと部屋に戻り、既にソファーに身を預けてくつろいでいた恭人の隣のソファーにもたれかかる。服も変えたいところであったが仕方がない。

「大丈夫か?」

 ふと、恭人が尋ねてきた。

「何が?」

「体調」

 度々吐き気を催したり倒れそうになる那由を一応心配してくれているようだ。共に行動する相手として体調を崩されては困るのかもしれない。

「分からない」

 何度か調子が悪くなったが、記憶に蓋をしている時はまだ楽だ。だからといって今の自分の体調がどの程度保つのか、記憶のない那由には判断できない点でもある。

「水分とっておけよ」

「え?」

「自分の分が足りなかったら俺のも飲んでいい。せめて二百ミリリットルくらいは飲んでおけ」

 命令調だったが、確かにそうだろう。これだけ汗をかいていれば脱水症状で倒れてしまう。

 立ち上がって買ってきたお茶を飲む。自分のものは既に減っていたので、彼のものにも手をつけさせてもらい、やけに具体的に指定された数値を飲み終えた。

 そうして息を吐き、自分のソファーへ戻る。

「体調悪くなったら起こせよ」

 恭人は最後にそう言って、おやすみと付け加えた。

 那由はそれに答えない。彼に頼りたくないのではなく、夜中に体調が悪くなる事態は避けたいのだ。できれば嫌なことなど忘れてぐっすりと眠りたい。

 窮屈ではあるもの、もたれた心地は上級であるソファーに身を任せ、目を閉じた。頭を使ったせいか、すぐに睡魔が襲ってくる。

 突然記憶がないことに気が付き、皮肉屋の青年に出会った。そして唐突な地震が起き、シミュレーションシステムが不調に陥った。確実に、状況はよくない方向へ進んでいる気がする。明日がどうなるかも分からない。自分が何者なのかも結局分からない。分かる気がしない。明日から一体どうすればいいのか……そんなことを深く考える前に、那由の意識はいつの間にかするりと落ちていった。

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