第1話:記憶喪失
空を見上げれば容赦ない日差しが世界を焼き尽くすかのように光り輝いており、前方を見れば複雑に交差した横断歩道の上を、何かに追われるに早足で歩いてゆく人の波が見えた。歩行者用信号機から流れる音楽と、ビルに設置された電子掲示板から漏れる宣伝文句がやけに煩く耳につく。後ろを向けば『渋谷駅』と大きく書かれた建物が目に入った。この駅は長期に渡った改修工事が何度も繰り返され、最近やっと足場が解体されて真新しい近代風の建造物へと生まれ変わったのだ。ずらりと並んだ窓ガラスが日光を反射しており、どうも目に悪い。また、左を見れば古びた犬の銅像の前で記念撮影をするカップルが目についた。順番待ちをしている者もいる。右を見れば元々あった建物へ通じていた地下道への入り口があるが、厳重に封鎖されている。ここもまた、真新しい建物に合わせるために改築中らしく、工程表が貼りつけられていた。
再び前方を見る。この辺りのメインモニュメントとも呼ばれる、壁に立体映像が映されたビルに目を向けると、一面に本日の天気と気温一覧が貼りつけられていた。絶対的な天気予測システムにより打ち出された数値だ。信憑性もほぼ百パーセントといっていい。今日はまた随分と気温が高いが、殆どの人間は暑さ対策を万全にしている。一か月先の気温まで分かる時代なのだからそれくらい常識だ。
しかし那由の額にはうっすらと汗が滲んでいた。
どうしたわけか、万全な暑さ対策を行っていなかった。真上に位置する太陽が少々憎い。
一体何故自分は何の準備もせず、出歩いているのだろう。まず一つ疑問が湧く。急に立ち止まった彼女の肩に若いサラリーマンがぶつかり、何も言わずに去っていった。
暑さ対策についてより、もっと疑問であることがあった。
自分が何故立ち止まったのか。その理由が那由には分からない。自分で立ち止まっておいて、おかしな話だ。
いや、そもそも歩いていた理由が分からない。自分がついさっきまで歩いていたのか走っていたのかさえ分からない。
どちらの方向を向いていたのかも分からない。
どうやってここまで来た?
昼ご飯は食べた?
どこへ行こうとしていた?
家を出たのはいつだ?
「時間……」
今がいつなのかを知りたいと思い左腕に腕に触れるが、そこにあるはずの固い感触がなかった。自分のやけに細い腕を掴んだのみに終わる。そこにあるはずのもの……MCCと呼ばれる携帯式コンピュータが行方不明だった。現代では生活するための必需品とも言われる電子端末だ。現代人は皆腕のリングに装着して持ち運んでいる。果たして忘れるなどということがありえるだろうか。
また、無意識に鞄に手をやろうとして自分が何も持っていないことに気が付いた。つまり財布もないことになる。ならば電車に乗って来た訳ではないということだろう。そして昼食を外で食べたわけでもないということだ。
「あれ?」
そもそも、自分の家は一体どこにあるのだろう。この駅の近くか……もう少し離れたところなのか。
今日は平日だろうか。ならばこんな時間に何をしているのだろう。
平日であるならば……そう考えて思考が止まる。自分は学生だっただろうか。それとも会社勤めをしていた? それとも無職?
自分の格好からは何も判断できない。
親や友達に連絡をとろうにも電子端末がない。
親? 自分の親は一体どんな顔をしていた? そもそも親はいたのか?
友達? もう全て同様だ。何も思い出せない。
そうして那由は、一番大事なことに気が付いた。
「私は、誰?」
自分の名前が思い出せない。松井那由は、自分の名前が松井那由であるというその事実さえ忘れてしまっていた。
「一端、落ち着こう」
そう言葉にするまでもなく、彼女は落ち着いていた。
取り乱すことなく一度駅ビルの中に入り、洋服店の鏡の前へ行く。そして自分の全体像を確認する。
鏡なのだから、そこに映るのは自分の姿だ。しかしながら、やはりその姿を見てもピンとこない。鏡に映った身長百五十センチそこらの少女。年齢は十代後半あたりだろうか。ありきたりな青いワンピースを着て、ありきたりな白のカーディガンを羽織って、ありきたりなセミロングの黒髪で、左手を首元に添えながら呆然と自分を見つめる少女。これが自分らしい。もしこれが鏡に映し出された単なる映像でしたと言われても信じてしまうくらいに、見覚えがない。
ここがどこであるかは情報としては分かっている。頭もしっかり働いているように思える。記憶をつかさどる部分以外は。
若年性認知症を始めとする記憶障害を疑ってみるが、自分ではなんとも分からない。ただ、そういう単語やそれがどのようなものであるかという知識は存在することが分かる。
失ったのは、自分に関する情報のみ。
それだけは理解できた。
しかし、理解したところでどうしようもない。
どうやら自分は比較的冷静な性格であるらしいことも分析はできる。
こんな事態になっても一応パニックに陥っていない。鏡に映った少女の顔は、いつの間にか無表情に戻っていた。それともあまりの混乱状態についていけていないだけなのか。
那由は目を瞑った。一度外部情報を遮断する。
時間を知りたい……先ほどそう思った自分は左腕に手を伸ばしていた。つまり自分は右利きなのだろう。故に、考えずとも右手が左腕に付けられた電子端末を操作しようとした。無意識下の反射的行動だ。
記憶はなくとも、身体が覚えているということはよくある。
球技を行う選手が真っ先にボールに反応できるのは、日々の繰り返し練習によって頭で考えるよりも先に身体が反応できるようになっているからだ。俗に言う運動記憶。そしてそれは、日常生活でもよくあることである。身に染みついている動作は考えずとも勝手に行われる。ならば、それを試せばいい。
自分は歩いていた。きっと何か目的を持って歩いていたに違いない。
だから何も考えず足を動かしてみればいい。案外、知っている場所に導かれるかもしれない。
「……だめか」
しかし、一度分からないという意識を持ってしまった以上、自然な状態でどこかへ向かうことは難しい。
記憶の喪失。この場合何処へ向かうべきだろうか。
警察? それとも病院?
何故かどちらも行く気はしなかった。
自然と左手が首元にそえられる。悩むと首元に手が添えられるのはおそらく自分の癖のようだ。
身分証明書もない。目立った外傷もない。そんな自分の話を相手はどこまで聞いてくれるだろうか。
逆に質問をされても何も答えられない。道の途中で突然記憶がないことに気が付いたなど、聞いたことがない。自分自身でも未だに信じられない。
肌を撫でるような、妙に生々しい暑さを感じる。しかし自分自身のことが認識できない、どこの誰かも分からない視点で改めて見た世界は、どこか作り物のように思えた。
身分証明書……それさえあれば解決の糸口が見つかるのに。
そう思い、那由はふと首元から離れた自分の手が目に入った。
「これだ」
おそらく絶対に紛失しないであろう証明書を見つけた。
現在人類は完璧なシミュレーションシステムの元で暮らしている。
天気や気温、災害、交通情報、健康状態、流行等ありとあらゆる事象が百パーセントに近い数値で予測でき、管理される。唯一シミュレーションできないのは人間の行動や感情くらいだ。それでも人間の言動をある程度模倣したAIなどは開発されていることから、それらがデータ化されるのも時間の問題ではないかという説もある。人型アンドロイドも厳重な管理の元、多方面で実用化されていた。
犯罪も、高度なセキュリティーシステムのお陰で数を減らし、犯人特定も容易くなった。勿論犯罪者側も負けてはおらず、ありとあらゆる技術で既存のプログラムを越えようとしているが。
アプリさえダウンロードすれば、一般人でもそんな最先端技術を使いこなせる端末も開発された。一昔前のスマートフォンという端末に取って代わられるように爆発的に普及したそれは携帯型コンパクトコンピュータ、通称MCCと呼ばれ、人々に愛用されている。電話やメールやインターネットなど通信機能としての役割を持つのは勿論のこと、交通機関に乗ったり体調管理をしたり身分を証明したりするのにも使える端末だ。
腕に専用リングをつけてはめ込めば、昔の腕時計のように簡単に画面を見ることができ、子どもから老人に至るまで、国籍を問わず皆利用していた。
それなのに。
那由は現在MCCを所持していない。
タイムスリップでもしてしまったのだろうか? そう思えても仕方がないくらいの状況だった。
容赦なく照りつける日差しに目眩がする。気温を探知しアスファルトを濡らす自動小型噴水も特に意味があるとは思えない。
そんなことを考えながら向かった先は、石造り外壁が異色を放つ、やや古めかしい建物だった。
公共施設にも関わらず、屋根に太陽光パネルや小型風力発電設備がついている様子はなく、入り口には意味をなさないモニュメントが取り壊されることなく立っている。まるで、現代社会から取り残されたような建物だ。
渋谷駅前からここまでくるのに随分と歩いた。電車に乗ることができればすぐだったが、MCCも財布もないのだから仕方がない。
ここは、国内で最も大きい図書館だ。古さが目立つせいか、利用者はかなり少ない。そのためだろうか。昔は利用に年齢制限があったらしいが、そんなものは取っ払われている。
本当は図書館ならばどこでもよかったのだが、ここまで来る羽目になったのは、昔に比べ図書館の数が格段に減ってしまったからだ。電子書籍に侵食された紙媒体。本屋でさえ、書籍データの入った電子カードを売るだけの店が多く、紙媒体の本を売る店は希少価値になっている。紙の本はネットでの売買が主流になり、非常に高価な値段がつくようになった。
そんなご時世、図書館は主に数の少なくなった昔の書籍やあまり出回らない専門分野の資料などを扱う。
言うまでもなくこれは希少なデータ。故に持ち出せば高く売れる。
それを防ぐために図書館の防犯はかなり高度になった。郊外のベッドタウン以上の警戒だ。
借りていない本を持ち出そうとするものならば警報がなるのは勿論のこと。人が出入りした情報までもがきちんと記録され管理される。
入り口に立ちはだかる駅の自動改札のような機械。ここで人々が翳すのはMMCや磁気の入ったカードのような、形のある証明書ではない。
図書館が入館の際身分証明のために扱うのは個人の指紋だ。図書館を利用するためにはたとえ子どもであろうと指紋認証装置を通り抜ける必要がある。
政府が国民全員の指紋データを管理するという案には反対派が多く現在も実現されていないが、図書館などの限られた公共施設で登録したい者のみが登録するというシステムは公認された。これが、形が違えば納得されてしまう大衆心理。
那由はそんなことを考えながら改札へおもむき、自分の指を触れてみた。
すると、ピッと心地の良い音がして入口が開く。
これで一つ分かった。
自分は図書館に指紋データを登録している人間だということが。
図書館の存在は記憶にあったし、自分の手を見たとき指紋認証装置が思い浮かんだことから、ここに入れる可能性は高いと睨んでいたが、それは正解だったようだ。
これさえあれば名前や貸出データも確認ができる。案外簡単に自分の正体が分かりそうだ。那由はほっと胸をなでおろした。
そのまま貸し出しや返却の手続きをするデータ管理記録装置に向かおうとするが、その前にぐるりと図書館を見渡してみる。見覚えのあるような、ないような。ぱっと場所が浮かんだことからこの場所に関わりがあったとは思うのだが、しかしながら、自分がどこでどのような本や資料を借りていたのか、やはり浮かばないのだ。
自分に関する情報だけが、どうも頭から抜け落ちている。
入口から一番近い柱の隣に取りつけられているデータ管理装置を起動させ、先ほどと同じように指紋認証を行う。何故か少し緊張し、画面を見つめるが、個人情報が表示される前に、小さな枠が表示された。ピコンという電子音が妙に耳につく。
そこに書かれていたのは、パスワードの入力を促す文言だった。それを打ち込まなければ情報は閲覧できない。
「……盲点だ」
何となく指が無意識に動いてはくれないかと考えたが、やはり意識をすると無意識下の行動は起こせない。
指紋認証で本人だと分かるではないか、と呆れてみる。あまりに警戒が強すぎてうんざりとする。解決の糸口が掴めたと思ったのにとんだ徒労だった。
しかし、確かに自分が利用していたという施設が見つかったのだ。これは大きな一歩といってもいいだろう。
それに、大量の資料が管理されているここならば、医学的資料も勿論存在する。記憶に関するデータをここで調べてみるのもいいだろう。
那由はできるだけことを前向きに捉えることに努め、入口で本の配置を確認すると、医学専門のコーナーへ足を運んだ。
バランスを取っているのが不思議なくらいに乱雑に積まれた本の山。その横で那由は黙々と書物を読み続けていた。
壁に備え付けられた時計を見ると、ここへたどり着いてから二時間ほど経とうとしていることが分かるが、収穫があるかないかでいうと、その結果は絶望的といってもよかった。
専門分野の本はやたらに分厚いので、読み進めるのに時間がかかってしまうことも、拮抗状態の原因の一つだった。記憶に関する部分だけ流し読みしていくが、やはり自分のように歩いている途中にふと記憶が抜け落ちるなどという例は見つけられない。
ありがちなのは心因性の健忘症。外傷はないし、薬剤性や症候性にしては意識がはっきりしているように思える。だがしかし、心因性だとしても記憶の忘却が道の真ん中で突然起こるだろうか。何か、ショックを受けるような物でも見たのだろうか? どうにも思い出せない。
もしくは自分は記憶の貯蓄が不可能な病気で、度々記憶を失い現在は徘徊の途中だったということもあり得るだろうか。自分で考えたことにも関わらず、思わずぞっとしてしまった。あまりあってほしくないことである。
唯一分かったことは、ある程度こういった資料を読むのは慣れているのかもしれないということだけだ。
二時間ぶっ通しで集中できるだけの能力はある。すぐに、だから何だという結論へ戻るが。
「よくもまあ、そんなくだらない本を飽きずに読めることだ」
那由が悩み込んでいると、唐突に隣から声をかけられた。集中しすぎて隣に人が座ったことに全く気づいておらず、慌てて顔を上げる。
那由が座っているのは椅子と椅子の間に仕切りのない長机である。隣から読んでいる本を覗きこむのは容易であった。
那由に声をかけたのは、白衣を着た青年だ。眼鏡をかけ、一見利発そうに見えるが、白衣の下の黒いシャツはだらしなくしわが付き、細身のジーンズを含め、なかなかルーズな格好である。
机に肘をつき、それに凭れるようにして、気だるげな顔で那由を見つめている。顔立ちは整っているが、人を嘲るような表情が非常に悪印象を与えている。
話しかけたことに特に意味はなく、暇つぶしに声をかけた……そんな風にも見えた。
現に、あくび交じりにこちらを見ている。
「……あなたにとってくだらなくても、私は必要に駆られて読んでいるの」
青年の言葉にやや苛立ちを感じた那由は、少々棘のある言葉で言いかえした。
よく考えれば自分の口調も声も然程分かってはいなかったが、ふと飛び出した言葉がこのように棘のあるもので、自分でも僅かに驚く。
「何? 君、学生? にしたってこんな古臭い文書今時参考にする人間なんていない。その棚は全て網羅したけど、書いてあることなんて大体同じ。作者の自己満足で終わっている。いくら読んだってちっとも生産性がない」
その皮肉めいた言葉は那由ではなく、彼がくだらないと称した資料たちに向かっているようだった。
「じゃあ、代わりの資料でも紹介してくれる? 確かに、何も見いだせなかった」
くだらないと吐き捨てるのならば、他に何かくだらなくないものがあるというのか。
こちらは非常事態だというのに、からかうような言葉が非常に不愉快だった。
那由の言葉を受け流すようにしながら、青年は那由が広げている資料をじっと見つめる。
「記憶障害? また偏った内容だな。レポートを作成するには随分とチープだ。そもそも君は、調べた情報を記録するための道具も持っていない。だとすると俺の最初の読みははずれだ。君は学生ではない。そしてレポートのための資料を探しているわけではない」
突然語り出され、那由は少し戸惑った。けれどその困惑した表情で、彼の言葉が正解だと伝えてしまったと気づく。相手は納得したように薄っすらと笑い、持論の続きを語った。
「だとすれば私用か。趣味……ではない。必要に駆られていると言うあたりで、ゼロとは言い難いがまず否定していい。ならば、何故必要に駆られているのか。記憶障害の資料を実用書として使う……親や祖父母が認知症とか? んー、その表情から察するにハズレだな。まあ、それなら病院に行くなり手元のMCCで調べればいいだけの話だ」
青年は那由の表情を観察するようにじっと見つめ、それからにやりと笑う。
「そもそも、お前の腕にはMCCが付いていない。それが入りそうなポケットも見つからなければ鞄も持っていない。今時の若者が電子端末無しに出歩くだなんてことは考えにくい。あまりに異常。異常な人間……それから導き出される結論は何か」
那由は相手を見つめながら息を呑む。
「お前自身が記憶障害を持っている」
まさか、自信ありげに一発で正解を当てられるとは思ってもいなかった。
驚きに自然と目が見開かれる。男はそれを正解と取ったらしい。口角を上げて自分で「ご名答」などと言っている。
「必死に調べても答えが出ない。ならば通常の資料には載っていない、つまり一般知識から外れた記憶障害を患っているということ。一体何だろうな。そこまでは読めないか。ただ、MCCなど持っておらず……さらには多分暑さ対策もしていない。そんな状態のままここへきて調べもの。ということは……相当慌てていた……もしくは、気が付いたらここまで来ていて、何も持っていないために帰ることが不可能……いや、そんな状態なら呑気に調べものなどしていないで警察に行くなり誰かに通信用の端末を借りればいいだけの話……」
顔色を窺われていることが分かる。しかし青年のあまりに見事な推理に圧倒され、口を挟むことはできなかった。
「気が付いたら何も持たず屋外にいた……そこまでの推理は合っているな。まるで夢遊病患者だ。それにしても随分理性的な判断を取る。ただ、そんな理性がありならもその後ここへきて馬鹿の一つ覚えのように同じことが書かれた資料を漁る他なかったということは……」
また、息を飲む。
「連絡を取る相手も自分が帰る場所さえも分かっていないということだ。逆行性健忘……だろうか。それも自分に関する記憶のみすっぽり抜け落ちた状態。それが、おそらく唐突に起きたんだな。突発的……いや、前振りは何度もあったかもしれない。本人の記憶にはないだけで」
ほぼ全てが言い当てられた。出会ってから少し、那由の様子を見ただけで。
那由は暫く黙って呆けるしかなかった。彼が何者なのか、何故そこまで分かってしまうのか。不気味ではあるが……その洞察力にどうしたって称賛の気持ちを抱かずにはいられない。
「あなたは、何者?」
「
先ほどの饒舌な推理とは一転、今度は随分と面倒くさそうに告げられた。
雑な自己紹介だ。本当であるかも疑わしい。
「……趣味は人間観察とでも言うと思った」
やっとのことでそう切り返す。相手の様子から細かな推理をしてしまう。並大抵の洞察力ではない。
「人間観察? ふん、馬鹿らしい」
すると、浪川恭人は那由の言葉を鼻で笑う。
「お前は日常的に周囲にある光景を見ることを趣味というのか? 観察と呼ぶのか? 俺はただ、周囲に溢れる馬鹿な奴らの阿呆な言動をぼーっと見ているだけ。趣味でもなんでもない」
人を完全になめきった態度。これは、那由自身も馬鹿の部類に入れられているのかと考える他なさそうだ。
那由は自分の知能を知らない。こんなに何もかも分からない状況で覚えている訳がない。
しかし、この舐めきった態度はいただけない。心の中の何かが千切れそうな感覚がした。
「所詮学生風情が偉そうに」
思いっきり睨みつけてやる。すると相手は少々怪訝な顔をした。
「……何で俺が学生だと分かった?」
恭人は一言も自身を学生だとは言っていない。白衣だからといって医学系や理工学系の学生と決めつけるのは単純すぎる。病院や研究所に勤めている可能性だってある。それでも那由は彼の姿から確信を得ていた。
「その腕に付けているMCCを見れば一目瞭然でしょ。病院や研究所みたいな、専門的なプログラムを扱い尚且つ常に情報を共有しなければならない組織は、お揃いの専用端末を持っている。けど、あなたのそれはデザイン的にも所属組織から支給されたそれではない。勿論私用の物に付け替えたってこともあるけど、あなたは白衣のままここにいる。なら、どこかの所属場所から直接ここへやってきたということ。わざわざ電子端末を付け替えるとは思えない。故に、研究所や会社みたいな組織には属していない。つまり、まだ学生ってこと」
那由は的確にポイントを突いた。記憶を失くしていようと、それは自分自身に関することのみであり、他の一般常識や雑学はしっかり頭に残っている。お陰で、推理の仕返しをすることができた。
「随分と専門的なことに詳しいな」
それに対し怪訝な顔をしつつも、恭人は那由の正体について考えだしたようだった。いくら知識は忘却していないといっても、元から知らないことを知っているはずはない。
「しかも考え方は固い。絶対に数理学系の人間だ」
恭人は数理学系の人間に恨みでもあるのか、何故か苦々しそうに口にした。
「なるほど……」
その言葉に納得はするが、やはり何も思い出せそうにない。
「私は誰なんだろう……」
それが思い出せない限り、帰る場所もない。金もないためどこかに泊まることもできない。
「そもそも、あんな道の途中で記憶がなくなるなんて……いや、何も持たずに外出したという時点で不自然……」
「道の途中?」
「そう。本当に中途半端なところだよ。ふと足を止めて自分が今どこに行こうとしていたのか……なんて考えていたら、そもそも自分に関する情報を何一つ覚えていないことに気が付いた」
読み漁った資料の中に、そのような事例は勿論なかった。
「お前は、心因性の健忘症について考えていただろう」
恭人はそう言って資料の一つを指さした。
「思い出したくない何かを自らが封印した。そう考えるのが妥当だな。その時、その場で何を見た? 何を考えた?」
「それが分からないから、苦労しているんじゃない」
「そりゃそうだ。ところでどうしてこんなところでこんな役に立たない資料を見ている? 例え原因が分かったとしても記憶が元に戻るとは限らない」
「……それは」
言葉が続かない。薄々分かっていたが、もしかしたらこの作業は現実逃避だったかもしれない。
忘れてしまった記憶。それを思い出すのを自分から拒んでいる。
「一番手っ取り早いのは、お前が気が付いたその場所へもう一度出向くことだな。そこで何かを感じたのはおそらく間違いはない……いや、もう一つ可能性はある」
恭人は思案するようにして、那由の顔を見た。
「お前は、人間か?」
「な……?」
随分と失礼な質問だった。記憶を失くしたとしても、それくらいは那由にも判断がつく。自分は紛れもなく人間。それともまた、こちらを馬鹿にするための比喩だろうか。
「お前は記憶を失ったのではない。そもそも記憶を持っていなかったんだ。お前が生まれたのが、つい先ほどだとしたら?」
そもそも、記憶を持っていない。生まれたのが、つい先ほど。
そんな人間がいるはずがない。那由の見た目は幼子のようなものではない。そして知識はしっかりと持っている。
「あ……」
しかし、彼の言わんとしていることがなんとなく分かってしまった。その程度には、那由の頭は働いた。
「アンドロイドの可能性を疑っている?」
だから、人間かと質問したのだ。
つい先ほど起動したばかりのアンドロイド。人工知能搭載のアンドロイドは日本にも数多く存在している。感情を持ち自立したタイプの開発はまだまだ精度の低いものしかないが、自分がその類だったとしたらどうだろう。
自我のなかったアンドロイドに突然自我が芽生え、自分が何者であるのか思案しだしたとしたら……
「ありえない」
しかし、それを否定する。
「例え自我を持つような最先端技術を駆使したアンドロイドが生まれたとして、それが、一人で街中を歩いていると思う? まあ、脱走したという可能性も考えられるけれど、それならすぐに追跡されるはず。こんな自由な身になっているだなんて、まず考えられない」
本当は、認めたくないというのが一番なのだが。
自分の身体を観察する限り、そこに作り物の様子は見当たらない。血も通っている。そこまでそっくりに作られたものだとしたら大したものだ。
「まあ、そうだろうな。ここまで複雑な精神構造をしたアンドロイドが作られるなんて……あり得ない」
恭人もあっさりと否定した。ならば最初から提案しなければいいのに、と那由は思う。
「俺は思いついたことは言わないと気が済まない人間なんだよ」
すると、那由の心を読んだかのようにそう言われた。
「まあ、結構おもしろい……いや、興味深い事例だな」
薄笑いしてそう言われても那由は嬉しくもなんともない。
「ちょうど暇つぶしの道具が欲しかったんだ。行ってやろうじゃないか、お前が記憶を失くしたと言う現場へ」
気が付けば二人称が『君』から『お前』へ。いい加減自分の名前くらい思い出したいと那由は思ったが、それは叶わぬ願いだ。
「出会ったばかりの人間に協力するなんてどんな神経をしているの?」
自分ならばそんなことはまずしない、そう思った。
「協力? なわけないだろう。これは実験みたいなものだ。未知の病気が解明できるまたとないチャンス」
この男の行動を善意と捉える方が間違っていたと、那由は反省する。
しかし、専門的知識が豊富そうなこの男に手伝ってもらうのは利点も多い。双方が得をする可能性が高い。また無意識に首筋に添えてしまった左手を見つめる。
「そう、なら……お願いするよ」
気に食わないこの男と行動を共にするのはかなり抵抗があるが、彼はその分野に関して知識があるようだし目的は同じ。今は頼るしか術がなさそうだ。
「じゃあ、これ片づけなきゃ」
那由は机の上に積まれた資料を指した。結局、何の役にも立たない資料だった。敢えて言うならば、この恭人という男との接点を持てたくらいか。あの洞察力ならば何かを見つけられるのではないか……そのような一抹の期待は抱いている。
断じて彼という人間自体を信用している訳ではない。
「手伝ってくれる?」
「まさか。面倒だ。俺は寝ている」
一応声をかけてみたが案の定断られた。仕方なく本や資料をかき集め、持てる分だけ持って立ち上がると、少しよろけてしまった。どうやら自分はあまり体力はない人間らしい、とぼんやり思う。
その時だった。
那由は、何かに足を取られるように、その場に前のめりに倒れてしまった。
自分の手元から本がバサバサと落ちてしまい、同時に悲鳴のような声が聞こえる。一瞬、何が起きたか分からなかった。
立ち上がろうとするにも身体のバランスが取れない。地に伏して、数秒して、やっと状況が理解できた。
どうやら、地面が揺れているようだ。
地震大国とも呼ばれる日本。昔から地震は珍しいことではない。
ただ、今のはあまりにも大きな揺れだった。動揺を隠せないのは仕方がない。
いや、動揺したのはその揺れの大きさの所為ではないかもしれない。
「何で? 警報音は?」
地震が起きるならば、その前にそれを察知して警告音が鳴り、危険を知らせるはず。こんなに大きな揺れならなおさらだ。
本棚からは無残に資料が崩れ落ちている。これだって、本来ならば安全装置が働いて、中の物が落ちないようについたてが出てくるように設計されているはずだ。
災害も完璧に予測できる現代において、予測されていないこの地震は明らかに異常だった。
どれほどの時間が経ったのかは分からないが、気が付けば揺れが収まっていた。
騒ぎ出す人の声は未だ絶えない。那由は、暫く言葉を失ったまま、先ほどまで机に突っ伏して寝たフリをしていた恭人に目を向ける。
流石の彼も身体を起こし、本が散乱する周囲を見渡していた。
「このご時世に予測の出来ない地震、ねえ」
こんな地震を災害予測システムが察知できないはずがない。事前に分からない自然災害など、あり得ない。それが常識だった。誰だってそう思う。
「システムの故障か何か?」
「地震ではなく新手のテロかもしれないぞ」
「だったら防犯システムに引っ掛かるはずでしょ?」
普段は静けさに包まれる図書館も、今は騒ぎが絶えない。
「とにかく、建物の外に出てみる?」
那由は立ち上がり、提案した。ここで呆然としていても仕方がない。
中の本が半分以上落下してしまった本棚に、今更自分の抱えていた資料を戻しても意味がないだろう。
勿論、揺れの影響で落ちた大量の本を本棚へ戻す義務は自分にはない。
「……ああ」
恭人は那由の提案に賛成し、二人で入口へと向かうことにした。
今日の図書館の利用者は多くはない。どうやら今日は平日であるらしいことを那由は察していた。老人や主婦、調べ物をする大学生がいる程度。このラインナップでまさか休日ということはないだろう。
利用者は少ない。しかし、すんなりと外へ出られる訳ではなかった。
皆が、入り口付近で立ち止まっている。
「何が……?」
その理由はすぐに分かった。
どうやら外へ出られないらしい。
指紋認証装置が起動しないのだ。
図書館は出る時にも指紋の認証が不可欠で、それができなければ自動扉が開かない。肝心な指紋認証装置が起動しなければ、外へ出ることは不可能である。
「こんなときに……」
どうしてこうも異常事態が続くのか。那由が呆然としている隣で恭人がふんと鼻を鳴らした。
「こんな時だからこそ、だろう」
「どういうこと?」
「異常事態が二つ重なるときはその因果関係を疑うのは基本。今は地震の所為で機械が故障したと考えるのが普通だな」
「自慢げに語るくらいなら解決策を考えてくれない?」
原因が地震にあると分かったところで、何も解決できはしない。
ロックがかかったまま閉まった扉。しっかりと鍵がかかっている状態なので、手動で無理矢理こじ開けることもできない。電子ロック式の自動ドアに鍵穴など存在しない。
照明は消えていないことを考えると、停電ではない。この自動扉に関する機能だけ停止してしまったのだろうか。
「どうやって出るか……」
恭人は真剣な顔をして閉まったままの自動扉を見ていた。那由も首に左手を添えそれを見ていたが、ふと思いついたように恭人のMCCを見た。
「それ、貸して」
「は?」
「いいから。あ、パスワードは解除してね」
恭人は暫し怪訝な顔をしていたが、ひとまず自分の腕から外しパスコードを打ち込んで那由に手渡した。
那由は礼も言わずにそれを操作し、画面を次々と切り替えていった。
「あった」
次に収納式の小型キーボードを引き出して、カタカタととても常人ではない速さで何かを打ち出す。
恭人が後ろから覗きこむと、白い画面に、英数字のようなものがひたすら入力され続けていた。止まることなく、那由の指の動きに合わせて入力され、上方へと流れてゆく。デタラメな文字を打ち込んでいるだけではないかと思うほど、軽快なリズムで打ち込まれていった。
「できた」
そして、那由は徐に自分の髪につけていたヘアピンを外し、恭人のMCCの側面にひっかける。そしてそこから小さなチップを取り出した。どの端末にも大抵は付いているメモリチップだ。
「おい……」
容易に抜けば中のデータがとんでしまう可能性もあるのに、と恭人が焦るもお構いなしだ。
「バックアップは内部に取っておいた。寧ろその作業の方が手間取ったよ」
那由はメモリチップをひらめかせながら、指紋認証装置と混乱する人々をざっと眺めた。そして一人の人間に近づいてゆく。それは、利用者を助けることができず途方に暮れていた司書の女性だった。
「管理室はどこ?」
「え?」
「教えて。外に出られなかったらあなただって困るでしょ?」
淡々と告げる様子には相手に対する配慮など見られない。
「でも……」
司書の女性は困惑する。一般人を管理室などに連れていけるはずはなく、ましてやこの少女が何者かも分からない。緊急事態だからといって……いや、緊急事態だからこそここで自分がしっかりしなければ……そんな思いで見知らぬ少女を見つめる。
「だめです。関係者以外を中に入れる訳にはいきません」
これも、司書である仕事のうちだ、ときっぱり言い放つ。しかし、直後彼女の心を揺るがす声が聞こえた。
「あれ? 誰かと思ったら冬香さんだ」
いつの間にか、司書の女性のすぐ横に恭人が立っていた。さらに少し身を屈め、女性に顔を近づけている。
「あ、きょ、恭、人さん……!?」
すぐに彼女は挙動不審になり、恭人からやや距離を取った。
「どう? 俺が払ったお金、ちゃんとお父さんの介護費にまわしてる?」
「あ、も、勿論……」
女性は今にも消え入りそうな声で言いながらびくびくとしており、彼女に何か後ろめたいことがあるのは、事情を知らない那由からしても一目瞭然だった。
「でも、すごいよね、冬香さんは本当に優しい人間だ。だって公職に就いてるのに病気のお父さんのために副業なんてしちゃって。見つかったら大変なことになるのに、随分と親思いで……」
恭人の言葉がどんどんと大きくなっていく。周囲の人間にも聞こえそうな声で。
冬香と呼ばれた女性は慌てて周囲を見渡した。同僚も皆この場に集まっている。聞こえてしまったら一大事だった。
「や、やめて……」
「ああ、そうだね。こんなところで大声出して佐藤冬香は公務員にも関わらずお金欲しさに身体売っています、なんてバレたら冬香さん困っちゃうもんね。じゃあ、ちょっと奥行こうか。個人的な話もたっぷりあるしね」
周囲の人々が何人かこちらを向く。幸い利用者を止めようと必死になっている同僚が気づく様子はないが、利用者の何人かが、確実に恭人の言葉に反応している。
「あ……ああ……違……」
「どうしたの? ほら、ここに立ち止まっているとどんどん変な目を向けられるだけだよ? 誰もいない場所……そうだ、管理室行こうか」
あまりに分かりやすい誘導だが、もう彼女には抵抗するだけの力が残っていない。
この世の終わりのような顔をしながら、恭人に促されるままに管理室へ向かう。勿論、那由もそれについていった。
「こ、ここ……ここよ……でも、恭人くん、なんで……」
「ありがとう」
入口につくと、恭人は扉を開け那由をさっさと中に入れると自分も入り、冬香も後に続こうとしたところでバタンと扉を閉めた。ぼそぼそと発せられる彼女の言葉には一切耳を貸さない、あまりに無慈悲な行為だ。
「酷い」
那由は、ぽつりと呟いた。しかし呟いただけで、視線はシステムの制御ボードの上を彷徨っている。
「大丈夫、後で慰めておくよ。突き放した後に慰めると女は簡単に落ちる」
「なにそれ。私だったら不信感が募るだけ」
なにはともあれ、恭人とあの女性が知り合いでよかった……那由が抱いた感情はそれくらいだった。やり口は非情であるし、あの女性は公務員でありながら身体を売るという副業を行っている。しかし今この事態にそのことはあまり関係がない。恭人が身売りする女性を買ったというのもまたどうでもいい。
「あった……」
基盤の上を彷徨っていた那由の手が一点で止まる。
どんな施設の制御ボードでも、新たなセキュリティーシステムを導入する時やシステム点検時には必ず専用の端末を繋ぐ必要があり、そのためのメモリを埋め込む挿入口が必ず付いている。そして、大体の電子端末のメモリの形状は同じ。
「ブレーカーは落ちていない。どんなシステムエラーは分からないけど、完全に復旧させる必要はない。とにかく、扉を開けさえすれば……ね」
恭人の端末から抜き出したメモリを差し込む。
すぐに画面上にパスコードを要求する小窓が出るが、自動的に解除された。
「……何が起きた?」
「パスコード自動解除システムをメモリの方に打ち込んでおいた」
那由はさも当然のように言う。
「もう全部打ち込んでおいたから大丈夫。自動扉のロックは解除される」
画面に文字が流れていくが、すぐに収まり、ロック解除の文字が出てきた。
「で、外で泣いてる女の人はどうするの?」
那由は既に管理室の扉に手をかけている。恭人は暫く言葉が出なかった。
誰だってそうだろう。
こんな簡単にネットワークに指令を与える。指先を少し動かしただけでシステムを動かしてしまう。
プログラミングを少しかじった程度の人間ではこんな即興技は使えない。それくらいは恭人にも分かる。
一体彼女は何者なのだろう。
「かなり、面白いものを捕まえてしまったな」
恭人は那由に聞こえない声でぽつりと呟いた。
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