シミュレーションを開始します
無月彩葉
記憶喪失少女と予測不可能な街
プロローグ
コンクリートの僅かな亀裂に足を取られたのだろうか。
少女は転倒した自分の身体を必死に起こすと、転んだ理由は深く考えずに再び大きく地を蹴った。とてもではないがアスリートの完成されたフォームとは程遠い、息も絶え絶えの情けない走り方だ。
肺に息を取り込む度に鋭い痛みが走り、嫌な鉄の味が口いっぱいに広がる。膝には疲労が溜まり、そろそろ動かなくなってしまうのではないかという予感がよぎった。高い建物に月明かりは隠され、足元もよく見えない。最悪な環境の中、何度も躓きながらも少女は走った。
背後から迫ってくる恐怖から逃げるために。
体育は好きではなかった。体力なんて所詮個体差によって限界があると笑って、ろくに運動をしてこなかった。そのことに今は後悔の気持ちでいっぱいだ。
残念ながらこれは退屈な体力測定とは訳が違う。捕まったら終わりの史上最悪な鬼ごっこ。
逃げつつ隠れ場所を探すが、防犯面に力を入れているこのベッドタウンでは人が一人隠れられる場所など用意されていない。
少女は、立ち並ぶ高層マンションから僅かに漏れるオレンジ色の光が憎いと思った。あの中では今も幸せな会話が繰り広げられ、テレビを見たり、ゲームをしたり、各々が好きなことをして暮らしているのだろう。誰も彼女を助けには来ない。気づきもしない。
まんまと相手の策に嵌ったようだ。今更自嘲気味な笑みを浮かべても仕方がない。
足は止めないまま、手元の端末に目を落とす。起動しているアプリは犯罪者の間で密かに出回っている逃走用シミュレーションソフトだ。これがあれば大抵の警察からはまず逃げられると謳われるソフトの示すままに逃げていた。けれど、呆気なく追い詰められている。これから導き出される結論は何か……少し考えれば分かった。相手は逃走用シミュレーションソフトを元にした追跡用シミュレーションソフトを利用しているのだ。随分と笑える話だった。その追跡用シミュレーションソフトを使ったのは自分なのだから。もっといえばこの逃走用シミュレーションソフトを作ったのも自分だった。どちらのソフトも質に関しては自分が保証している。あとは使う人間の体力と器量次第か。
背後から響いていた足音は次第に近くなってくる。それに怯え暇もなく、少女は行き止まりへと追い詰められていた。
タワーマンションの裏側の一角。こんなところに死角があるとは気が付かなかった。やはり、相手の方が一枚上手だったようだ。体力面にしても……精神的な余裕に関しても。
ひとまず、逃げるという考えは捨てたほうがよさそうだ、と少女は思った。追いかけっこの終わりを悟って立ち止まり、息をゆっくりと整える。
まだ肺は痛むが、それでも喋れる状態までは呼吸を戻した。そして、口を開く。まだ立場上は優勢なのだ。堂々としていればいい……そう判断した。
「データは全てデリートしたよ。あのプログラムは危険すぎる」
振り返り、しっかりと相手の顔を確認する。陰になって少々見にくいが、背がひょろりと高い、髭面でスーツの男だ。間違いなく、同じ組織に属していた人間の一人だった。
「そうでしょ……
できるだけ脅しをかけられるように睨みつける。けれど体格的にも劣っている彼女からの無言の圧力など全く役に立たなかった。
「お前は人類の新時代を潰そうとしている」
金田と呼ばれた男は、妙にはっきりとした口調でそう話す。
「その新時代を最悪なものにしたくないのならば、諦めるべきじゃない?」
「多少の犠牲が生まれるくらいで何をごたごた言っている」
少女は左手で首筋に触れた。汗が滲んでぽたりと落ちる。走っている時には感じなかったが、今になって身体中に篭った熱が発散しだし、夏の夜の蒸し暑さを実感する。
「犠牲が出ると最初から分かっているのに実行するのは、あまりに馬鹿げている。事前に分かる被害は最小限に……いや、その事象は起こらないようにすべき。そのために様々なシミュレーションソフトやシステムが生まれているんじゃないの?」
少女は語りつつ、相手の隙を探った。
自分の手元にある電子端末で相手を負かす手は二、三考えられるが、それも相手が先読みしていては意味がない。
「ふん……他人が作ったシステムに囲まれて、異物は目に見えないところへ排除し、ろくに頭も使わないゴミのような民衆の犠牲がそんなに嫌なのか? 寧ろ無能であるそいつらを有効に利用してやろうってんだからいいじゃないか」
その言葉はどう考えても道徳に反している。けれど、少女にとってそれは理解できない言葉ではなかった。
「お前だって切り捨てられた異物の一人だろう。お前が他人様の心配をするなど夢にも思わなかった」
少女は何も返せない。自分だって社会を見下してきたのは本当だ。けれどそれとこれとは話が違う。再びゆっくりと自分の首筋を撫でる。自分からふっかけてみたものの、口頭での訴えはどうも苦手だった。
それでも、もう彼らが欲する問題のプログラムはデリートしたのだ。いくら脅されても問題はないはず……そう、少女が考え込んでいると、相手の男はにやりと笑った。笑ったといっても、口角を上げただけのような、不気味な笑みだ。
「何?」
「いい加減無意味な足掻きにも飽きてきたと思っていたんだ。安心しているところ悪いが、お前がデリートしきっていると思っているプログラム……それは既にここにある」
男は腕に付けた端末から小さな電子チップを取り出した。一般人では入手困難な大容量メモリチップだ。この大きさでコンピュータ一台分のデータは容易に記録できる。
「……そんなはずは……ない」
彼が欲していたプログラムは全てデリートしたはずだった。『データを食す』ウイルスを組織のコンピュータ全体にばらまき、跡形もなく消したはずだ。さらに組織に属す人間の個人端末にもウイルスは転移したはず。自分の端末も一つ犠牲にしておいた。
例えメモリチップが端末から外されていたとしても、それを端末に接続した瞬間ウイルスに侵される。隅々まで噛み砕かれ『食べられる』。
だから、データを持っているはずはない。少なくとも、少女の計算上では。
「ああ、あのウイルスは厄介だった。この界隈で【
苦々しい顔をする男。けれど、その顔にはまだ余裕がある。少女の背中にゾクリとしたものが走った。
「電子上ではな」
次に男が黒いスーツケースから取り出したのは、A4サイズの紙の束だった。
「大変だったんだぞ。ここに記録されたデータを手作業で入力し直すのはな」
「あ……」
電子媒体上のデータならばあらゆる手を使ってデリートできる。けれど、アナロジックな紙という媒体は、直接触れない限りどうにもできない。印刷されたデータ、これは計算外だった。おそらくこういった事態は以前から予測されていたのだろう。自分が組み立てたプログラムが、紙面にずらりと並んでいる。一から入力し直すのにはそれなりの労力が必要だったはずだ。
「そこまでして……」
そんな労力をかけてまで、あのプログラムを実行したいというのか。
水に濡れれば、切り刻めば、燃やせば、一瞬でダメになる紙という媒体。そんなものに出し抜かれてしまった。デジタル世代に生き、デジタルなプログラムに頼りっきりだったのは自分も同じだというのか。
復旧させられたデータは既にバックアップもとれていることだろう。今、この場でこの男をどうにかしても意味がない。
いや、この男の端末を奪って再びウイルスを流せばあるいは……
首元に手を添え、じっと考える。
少女は一縷の望みに賭けることにした。
二人の間には既に距離がない。一、二歩前に出れば相手を掴める。
「仮想空間制作ソフト……」
少女は手元の電子端末を素早くいじった。
それと同時に、整然としており何もないベッドタウンの路地裏の景色が、一瞬で廃墟と化した工場の内部のように変化する。
鉄材や壊れた機械など、使いものにならないガラクタがあちこちに積まれ、壁沿いに蔦のようなものが伸び、割れた窓ガラスの破片も散らばっている。時代遅れの蛍光灯がチカチカと点滅し、建物のいたるところに太い柱が立っていた。下手に動けばたちまち足を怪我してしまいそうな上に、柱のせいで余計に視界が悪く周囲が見渡しにくい。
仮想空間制作ソフトとは、電磁波により近くの人間の視覚に干渉して、幻影を見せるソフトだ。
一見とてつもない技術に思えるが、そこにあるのは所詮幻影。一時期流行った、子どもたちが遊びで使う程度のソフトだった。
「ふん、そんなものが一体何の意味を……」
その言葉ににやりと笑う少女。それを見て男が蔑むような目を向ける。動かなければ幻影に惑わされることもない。彼女の意図が分からない。
しかし、次の瞬間、
「な……」
男の背後に少女が現れた。素早い動きで手にあった紙の束を奪い取り、腕の電子端末にも手をかける。
目の前でにやりと笑っていた少女……それさえもまた、幻影だった。背景が大きく変わったことに騙されて、本当の少女がいる位置に気が付かなかった。
男の腕に装着された電子端末は簡単には外せない。どうやら腕のリングから端末を外すのにパスコードがいるタイプのようだ。
それを奪い取ることは物理的には不可能。ならば、そのままの状態で作戦を実行するまで。
少女はポケットからチップを取り出した。この中にデータを食すウイルスが入っている。これを端末に挿し込むだけでいい。
「これで……っ」
終わり、そう言おうとした。
けれどその言葉を発することはできなかった。
乾いた息が漏れる。
痛みを感じて視線を落とせば、自分の腹に深々と、大きく鋭いナイフが刺さっていた。
「データは既にコピーしてある。その悪あがきも無意味。ならば何故お前を追いかけていたのか、頭のいいお前になら簡単に分かると思っていたんだがな」
「……私を、処分するため」
「さすが天才児」
今告げられるその言葉は皮肉にしかならない。
少女は、組織からすれば裏切り者も同然であった。組織の情報を消し逃げようとする者は、もう生かしておく必要がないのかもしれない。
「残念だな。この組織はお前の唯一の居場所だったのに、裏切った所為でそれさえも失ってしまった。今のお前はもうこの世のどこからも必要とされてはいない不必要な人間だ」
「あ……あああ、ああああああっ」
朦朧とする意識の中で残酷な一言が告げられ、意味を為さない悲鳴が漏れる。
「ああ、この紙を奪ったところで、コピーはまだあるからな。紙は何にも感染はしない」
最初から、この逃走劇に意味はなかった。足掻きは無駄に終わった。全ては男の計画の上だった。
少女はアスファルトへと崩れ落ちた。奪った紙の束が床に散らばる。幻影は既に解け、少女の頭上には今まで隠れていた月が見えた。
「じゃあな」
去ってゆく後姿が憎い。何もできなかった自分が憎い。
「助けて……」
呟いたところで、防音性の高い窓が閉まった建物の中からは少女の声は聞こえない。
少女は、腹部から広がってゆく痛みに抗う術がないまま、蹲ることしかできない。
死を、覚悟するしかなかった。
腹に触れれば、手が真っ赤に染まる。
そのまま押さえても傷口が塞がるはずもない。
血の臭いに眩暈を覚える。
自分を必要としない世界で、初めて消える恐怖を感じた。
せめてもの望みは……あの危険なプログラムを誰かに防いでもらうこと。
絶望と恐怖と罪悪感に包まれながら、そう願った。
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