第18話 わらって、生きて

 石造りの狭い道を進む。壁には、ぽつぽつと蝋燭が灯されているため、そこそこ明るかった。

 はやる気持ちを抑えつつ、早足に歩みを進める。

 

 長い一本道の曲がり角を曲がった。

 曲がったその先に、一層明るく光っている場所を見つける。垂れ幕が下がっていて中の様子は見えないが、幕に映っている影から、誰かがいるのが分かった。

 こらえきれなくなり、エリーナはそっと駆け出した。あっという間に距離を詰め、垂れ幕を勢いよくまくった。


 そこには、一人の少年が座っていた。


 この数週間ですっかり見慣れた藍色の騎士服。

 肩口の金色の金具で留められた紺色のマント。

 そして。

 青みがかった、銀色の髪。


「…見つけた」


 エリーナは、そっと胸元を握りしめた。

 服の内側で、ペンダントが小さく揺れた。



 少年は、突然現れたエリーナに驚いたようだった。こちらを振り返り、澄み切った空のような瞳を丸くしてエリーナを見た。


「驚いた、ここまで来る人がいるとはね…」


 そして、ふっと口元に微笑を浮かべた。


「君が〈リコリス〉か。噂には聞いていたけど、本当に女の子なんだね。スカルロート国王は女性を軽んじるから、王宮の重要な関係者はみんな男だって聞いてたんだけど」


 記憶の高い声とは違う、聞きなれない声。

 木漏れ日のように暖かく優しい、耳ざわりがよいテノールの声。

 それを聞いて、エリーナは呼吸を忘れそうになりながらも、何とか口を開いた。


「まあ、それは間違ってないわ。私は特例。実際に王宮の重鎮も王国騎士団も男ばかりよ」

「じゃあ君は紅一点ってわけだ。…でも、やっぱり不思議だなあ」


 少年はその場で立ち上がった。背丈はすっかりエリーナを追い越し、頭一つ分ほど上にある。

 少年はまじまじとエリーナを見た。そして、こくりと首を傾げた。


「君みたいな普通の子が、どうして戦場に立つことになったの?君に戦場は似合わないんじゃない?」


 エリーナは少年を見上げぐっと唇をかみしめた。

 どうして戦場に立ったか?そんなこと、決まっている。全て、この日、この瞬間のためだ。


 破裂しそうなほどに伸縮を繰り返す心臓を抑えながら、エリーナは少年の瞳をまっすぐに見つめた。


 昔と変わらない、晴天の空を凝縮したような瞳。

 昔から、この瞳が大好きだった。


「いいかげん、こんな白々しい会話はやめましょう。ねえ、私よ。覚えてる?エリーナ・レグリスよ!」


 エリーナは首元から鎖を引っ張り出した。首に下げたまま、ペンダントの先についている花を見せる。

 少年は一瞬動きを止め、次いでエリーナの出したペンダントを興味深そうに見つめた。


「へー!ネリネの花だね。良くできてるなあ」

「とぼけないで!ねえ、あなた…」

「そうだ、僕の自己紹介がまだだったね」


 パチンと手を叩いて、少年は明るく笑った。言葉の途中で邪魔されたエリーナは思わず口をつぐんだ。

 少年は洗練された王族の作法でお辞儀をした。紺色のマントがふわりと舞う。


「僕はシオン・ヴァーマリン。このヴァーマリン王国の正式な王位継承者だよ」


 少年――シオンはそう言うと、にっこりとエリーナに笑ってみせた。エリーナの遠い記憶の中、毎日が輝いていたあの幼い頃、ずっと側で見てきた笑顔が、成長した今の顔と重なった。


 やはり、彼はあの頃の幼馴染だ。生きていたから、忘れなかったから、ようやく会えた。


 喉から熱いものがこみ上げそうになり、こらえるようにエリーナは目を細めた。口元が震えて、言葉が出ない。


「あれ、ビックリしないんだね?えっと、レグリスさん、だっけ?もしかして、スカルロート王国は僕のこと知ってた?ちゃんと秘匿されてたはずなんだけど」


 だからこそ、互いに名乗ってもまだふざけた会話を続けるシオンが、信じられなかった。


「…いいえ、あなたの存在を知っている人は、あの国にはいないわ。見事に隠されていたわね。王国騎士団に出ている命令は、『国王と王妃の生け捕りと兵士の殲滅』よ。王位継承者については、何も触れられなかった。だから…」


 エリーナは一度目を閉じると、キッとシオンを見据えた。紅い瞳には、宝石のような輝きが満ち、強い意思を感じさせた。


「存在を知られていないあなたなら、ここから逃げても気づかれない。でもここにいたら、必ず誰かに見つかるわ。お願い、私が王国騎士団の気を引くから、その隙に王宮を離れて!」


 エリーナの訴えに、シオンは目を丸くした。何を言われたのか分からない、という顔をすると、エリーナの言葉を咀嚼したのか、フッと笑った。


「逃げる?王宮を離れる?どうして?」


 シオンは腰にさしていた剣の柄に手を添えた。そして、騎士服に縫い付けられている王国の紋章を、もう片方の手で力強く触れた。


「僕はこの国の王子なんだ。王族は、国と国民のために命をささげる。王族の者として、王位継承者として、国を捨てて逃げることはできない」


 水面が全く揺らがないような静かな声音だった。しかし、いやだからこそ、シオンの中に通っている芯を、確固たる意志を、感じさせた。


 分かっている。シオンは昔から、自分のことより周りを優先する人だった。国の王子ならば、自分より国を守るために動くだろう。秘匿されている存在だから、前線には出てこないだろうとは思っていた。だが、もし敵に見つかったら戦うだろう。自分を守るためではなく、国を守るために。

 だから、自分が来た。王国騎士団の騎士に見つかる前に、シオンの味方である自分が。


 シオンの思いを言葉という風でその身に受けたエリーナは、それでもなお言いつのった。


「お願いシオン、逃げると言って!あなたのためなら、私は騎士の階級なんていらない!今の生活だって、どうでもいい!でもあなたには、生きていてほしいの…!」


 八年前、分断戦争が起こった時には、自分はこの戦いに巻き込まれて死ぬのだろうと思った。だが生き延び、六年前にセシルに買い取られ、ヴァーマリン小王国の存在を知った。


 小王国の名前を聞いた時、雷に打たれたような衝撃があった。


 「ヴァーマリン」は、シオンの母親の家名だったのだ。そして、ヴァーマリン1世の第二王子時代の肖像画を見て、確信した。彼は、たびたび見たシオンの父親と瓜二つだった。

 ただの偶然ではない。ヴァーマリン1世はシオンの父親だ。きっとシオンは、両親と共にヴァーマリン小王国にいる。

 だが、ヴァーマリン1世の息子なんて、スカルロート15世は見逃さない。息子がいると知られたら、必ず殺しに来る。

 ならば。

 自分が力をつけて、シオンを逃がすしかない。


『どんなに遠く離れててもずっと一緒だよ』

『生きてたら、いつか絶対会えるから』


 地下街で明日をも知れぬ生活を送っていた中、それでも折れずに生き延びられたのは、シオンのかつての言葉のおかげだった。セシルに拾われて、アミュリッタ学院の過酷な訓練に耐えられたのも、シオンのおかげだ。


 会えずとも自分を支えてくれていたシオンに、自分も恩を返したい。


 その一心で、ずっと今まで努力してきたのだ。騎士の昇進は、それによってついてきた副産物でしかない。正直、いまさら失ったとしても、痛くも痒くもない。

 そんなものよりずっと、大切なものがある。


 瞳に強い光を宿し、まっすぐに自分を見つめるエリーナを、シオンもまた静かな瞳で見つめ返した。


 シン…と不自然なほど静まり返る中、シオンがため息をついた。そして、困ったように眉尻を下げて、小さくわらった。


「言ったよね?僕は、この国の王子として、国を見捨てることはできないって。王族が国を守ることは責務の一つ。最期の一人になったとしても、抗わないといけないんだ」


 そう言うと、シオンはおもむろに腰に下げた剣をスラリと抜いた。

 穏やかな海のような、清らかな青色の刀身だった。

 シオンは笑みを消し、鋭い切っ先をエリーナに向けた。その瞳に揺らぎはない。剣を持つ手も、微塵も揺れなかった。


「さあ、剣を抜いて、レグリス騎士。お互い、自分の国を背負って戦うんだ。どちらかが生きて、どちらかが死ぬ。それだけだよ」


 シオンの感情の揺らがない瞳を見て、エリーナはくしゃりと顔を歪めた。

 ああ、自分の言葉が全く届いていない。

 そもそも、シオンは私のことを覚えていないのだろうか?シオンが最後にくれたプレゼントにも、自分の名前にも、彼は全く反応しなかった。


 私は、シオンにとってその程度の人間だったのだろうか?


 心がスッと冷えた。奈落の底に、突き落とされた心地だった。今足を着いている床が、もろとも崩れたようだった。

 エリーナも剣を抜いた。磨かれた白い刀身に蝋燭の光が反射し、涙のようにつるりとこぼれる。唇をかみしめながら、エリーナもまたシオンに剣を向けた。


 こうなったら仕方がない。多少手荒にはなるが、失神させてでも王宮から連れ出そう。


 分かっている。

 シオンに国を捨ててでも生きてほしいと願うのは、自分のわがままだ。

 それでも、シオンには笑っていてほしい。幸せになってほしい。


 そのためなら、何を投げ出してもいい。幸せなシオンの傍らに自分の姿が無くてもかまわない。


 エリーナが決意を固めたのを感じたのか、シオンの纏う雰囲気が変わった。先ほどのふわふわした空気が一転し、切れ味の良い刃物のようになる。


 目の奥から湧き上がる熱いものを気力で抑え込み、エリーナはシオンを見据えた。 


 バクバクと音を立てる心臓がうるさい。鼓動が邪魔だ。

 

 心臓の音が聞こえるのではと思うほどの静寂の中、シオンが動いた。

 大きく踏み出した右足を軸に回転し、遠心力をつけて剣を振る。エリーナはとっさに、轟音のうねりを上げながら己の身体を分断しようとする刃を受け止めた。

 

 剣同士の激しくぶつかり合った衝撃に、右腕が震える。


 その衝撃波をこらえ、エリーナは強く剣を弾き返した。シオンが身体をのけぞらせたところに、エリーナも足を踏み込んだ。剣を手の中で翻し、剣先で下から上へと弧を斬った。


 シオンはその軌道を見切ると、更に身体を反らして回避する。そのまま身体を弓なりに倒して手を床に付けると、よく見ることもせず、身体を反った状態から足を蹴り上げた。

 シオンのすぐ側まで接近していたエリーナは、慌てて後ろに下がる。ついさっきまでエリーナが立っていた場所を、シオンの硬いブーツが風を切りながら通過した。

 

 今のシオンの攻撃は、明らかにエリーナの顎を狙っていた。いや、もはやどこに当たっても良かったのだろう。それによってエリーナの動きを、少しでも止めることが出来れば、それだけで勝利は見えてくる。


 シオンは蹴り上げた足で半円を描き、着地と同時に跳ね起きた。その顔に表情は無く、青空のような瞳は冷え切り、吹雪がちらついている。

 シオンは間違いなく手を抜いていない。隙を見せれば、確実に急所を突いてくるだろう。だが、そうむざむざ殺られるわけにはいかない。


 エリーナは膝を曲げて、シオンの頭上に跳び上がった。空中で大きく身を反らし、剣を斜め直線に振り落とした。刀身が弓のようにしなり、鋭く風を斬る。

 シオンの首を狙って振り降ろした剣は、その彼によって阻止された。刀身同士が激しく音を立ててぶつかり、バチバチッ!と火花が散る。

 首の後ろは神経がたくさん張り巡らされている。そこに強い刺激を与えると、人は意識を保てなくなる。剣の柄で打って気絶させようと思っていたエリーナは、失敗したことに歯噛みした。チッと舌打ちすると、シオンから飛び離れた。


 エリーナが着地すると同時に、シオンが素早く斬り込んでくる。上下左右から剣筋が嵐のようにエリーナに襲い掛かった。

 目もくらむような速さで、光の筋をいくつも作りながら繰り出される剣技。

 その連続剣技を、エリーナは反射で全て弾き返していった。剣の刀身がこすれ合い、金属音が限界とばかりに金切り声を上げる。


 互いに一歩も引かない剣技のぶつけ合いの中、エリーナは存外冷静に思考を回転させていた。


 シオンの剣は今日まで対峙してきた小王国のどの騎士よりも強く、重い。この国を守るという、誰よりも硬い意思が直接流れ込んでくるようだった。


 だが、それだけでは、私に勝てない。


 打ち合ってすぐに気づいた。純粋な剣技としてなら、エリーナと互角かもしれない。しかし、実戦での剣技では、圧倒的にエリーナの方が上だ。

 これなら、攻撃の合間をぬって、意識を刈り取ることもできる。


 一瞬、エリーナの集中が横にズレた。


 その瞬間を逃さず、シオンが剣をひらめかせ、神速の突きを繰り出した。剣戟の光が目前でいっぱいに煌めく。


 頭の中で警報がガンガン鳴り響くと同時に、反射的に動いた右手の剣が光を跳ね返した。軌道のズレた剣先が、エリーナの頬の皮一枚に赤い線を入れる。エリーナは慌てて後退し、距離を取った。

 左の頬に手を当てる。痛みは全く感じない。だが、確かに小さく血が滲んでいた。

 エリーナは、手に付いた血を朱色の騎士服で拭った。同時に、体中から吹き出す冷や汗もふき取る。


 これで確信した。

 シオンは自分を殺すことにためらいがない。一瞬の隙をも逃がさず、死神の鎌のように剣を振るだろう。


 対して、自分はどうだ?シオンをこの手で殺すことなんてできない。そのせいで、さっきから剣を振るタイミングが鈍っているのだ。


 この差は大きい。いくら剣の腕はエリーナの方が上でも、決定的なところで判断が鈍ったら、あっという間に逆転される。


 どうする?


 片隅にあった余裕がなくなり、エリーナに焦りが見え始めた時だった。


「ヴァーマリン一世と王妃の生け捕りに成功!護衛の騎士たちの排除も終了した!王国騎士団は、速やかに簡易基地に帰投せよ!繰り返す――」


 部屋の中に、第二部隊隊長レアギンダ准一等騎士の声が響いた。エリーナが見つけた隠し通路が管となり、画が並んだあの廊下で叫んでいるレアギンダの声が、部屋に流れ込んでくる。


 ヴァーマリン一世と王妃が捕まった。

 シオンの両親が――。


 レアギンダの言葉に、瞬間気を取られた。その、一瞬の隙に。


「はぁああぁあーーーっ‼」


 全身から気迫をほとばしらせ、シオンが力強く床を蹴った。轟音を上げ、シオンが勢いを殺さず、矢のようにエリーナに肉薄した。驚くほど冷え切った氷のような瞳と、赤を求めるようにギラリと光る青い刀身が目に飛び込む。


「っ‼」


 息を吞み、エリーナは考える間もなく剣を突き出した。


 しかし、一瞬遅く、剣先をシオンの剣がすり抜ける。右脇腹に熱が走り、どろりと温かい液体がしみ出した。


 切り裂かれた脇腹に、エリーナがとっさに眉をしかめた、その時。

 剣を持つ右手首を、力強い手に捕まれた。

 ハッと目を見開くと同時に、捕まれた手をグッと惹かれる。

 

 目の前で、鮮血が飛んだ。


「あ…あ……」


 信じられない気持ちで、エリーナは瞳をこぼれるほど大きく開いた。紅い飛沫が紅の瞳に溶ける。


 エリーナの持つ剣が、目の前の藍色の騎士服を貫いていた。

 残酷なほどまっすぐ、正確に、心臓を突いていた。


 シオンがゴポッという音と同時に血を吹き出す。その血が、エリーナの右手に降り注いだ。火傷しそうなほど熱い赤に、手が染まる。


 息の仕方が分からなくなり、エリーナはあえいだ。呼吸が遠い。空気が薄い。


 息が、できない。


 むせかえる鉄の臭いに、喉が締め付けられる。

 肉を引き裂き、抉る感触。

 吹き出す赤の鮮やかさ。

 生温かい血の温度。


 それら全てに、思考が塗り潰されていく。


 ち…血を止めないと。止血しないと…!


 恐慌に陥った頭が、震える身体を叱責して命令を下す。


 剣を抜こうと手を引いたところで、右手首を掴んだままだったシオンの手が、それを拒絶するように力を込めた。


「シ…シオン、手、手を離して、早く…!」


 締まった喉から声を絞り出す。その声は、無様なほどにか細く、弱々しく、震えていた。


 しかし。


 シオンは地に濡れた口元にうっすらと笑みを浮かべた。氷刀のようだった瞳が溶け、本来の暖かい光が灯る。


 深々と自分の心臓を貫くエリーナの剣ごと、シオンは彼女を抱き寄せた。


 生きている人間の体温。

 昔と変わらない、側で感じると安心できる熱。


 シオンの腕の中で、エリーナがびくりと身体を強張らせる。それに構わず、シオンは力の限りで抱きすくめた。

 枯れかかっている最期の声を、喉から振り絞る。


「…ありがとう。それから…ごめんね」


 ――エリーナ。


「あ…」


 シオンはエリーナの髪に顔を埋め、吐息と共に『言葉』を吹き込んだ。その言葉に、エリーナは息を詰める。


 シオンは優しい手つきで、エリーナの小さな頭に手を添えた。

 穏やかな表情を浮かべ、エリーナの顔を見つめた。

 空色の瞳に、深紅がさらりとこぼれる。


 ずるりと、シオンの身体が力を失くして滑り落ちた。


 唐突に消えた重みと熱に、エリーナは呆然と動けない。

 ただ、シオンに掴まれていた手首と、シオンの血を被った右手だけが、まだ存在を主張するように熱かった。


 ゆるゆると目を下に落とす。純白に輝いていた己の剣が、シオンの身体を貫き、その刀身を真っ赤に染め上げている。

 シオンは床に転がり、未だ刺さったままのエリーナの剣から血を流し続け、血だまりに沈んでいた。

 周りに咲いている赤が無ければ、幸せな夢を見ながら眠っているようだった。


 だが、その瞼は、もう二度と開かない。


 二度と、あの穏やかな、晴れ渡る空のような瞳を、見ることはできない。


 昔から大好きで、今までずっと焦がれて来た、あの瞳には、もう、二度と。


 自分のせいで。


 私が、殺したせいで。


「い…いや……いやぁ…!なんで、なんでよシオン…‼」


 シオンの作る血だまりの中、膝をつき、両手で顔を覆った、


「ありがとうって…ごめんって、言うくらいなら…」


 どうして、生きようとしてくれなかったの?


――わらって、生きて


 どうして、最後の最期に、そんなことを言うの…⁉


『エリーナの笑顔は、人を明るくする力があるね』


 そんなの、シオンがいたからだ。

 シオンがいたから、毎日笑って過ごせていた。


 なら、シオンを失った今、どうやって笑ったらいいというの?


 視界が滲む。景色がぼやける。シオンの姿が、目の奥からせり上がって来るものに掻き消える。


『僕だって、寂しいし悲しい。でもね、エリーナ』

『生きてたら、いつか絶対会えるから』


 嘘つき…


『だから、その時にいっぱい、いろんなお話をしよう』


 うそつき


『約束だよ、エリーナ』


 シオンの、ウソつき…‼


 胸元に下がっているペンダントを引きちぎった。薄紅色だった花は、今ではシオンの血でところどころ赤いまだらになっている。


 エリーナは、ペンダントを投げ捨てた。


 もういらない。約束は灰になって消え、永遠に反故になったのだから。


 ペンダントは、シオンの側にぽとりと力なく落ちた。

 血の色にみるみる染まっていくその姿は、まさに彼岸花そのものだった。

 赤をまとったネリネの花から、赤い雫がこぼれ落ちる。

 やがて、波打つ血の海に呑まれ、静かに沈んでいった。



 王宮からの撤退時、エリーナの姿が無いことに気づいたモレラスが王宮に戻り、そこで隠し通路を発見した。

 そこを進んだ先に、エリーナが血に濡れることもかまわずぺたりと座り込んでいた。

 こちらに気付く様子の無いエリーナに不穏さを感じて顔を覗き込み、モレラスは思わず腹の底をゾッと冷やした。サッと急速に血の気が引いていく。


 エリーナは、ベトリと血の張り付いた顔いっぱいに、ひび割れた笑みを浮かべていた。


 機械仕掛けの人形が笑顔のままカクリと壊れてしまったような、血の通っていない表情だった。

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