第8話 『エリーナ・レグリス』
道の角を曲がって人目のなくなったところで、エリーナは無造作に担いでいた男を滑り落とした。煉瓦造りの家の壁に、男がゴツンと派手な音を立てて頭をぶつける。
男を放り捨てたエリーナは、吸い込まれるような紅い瞳で彼を見下ろした。
「どうせ起きてるんでしょう?寝たフリはもうやめたら?」
エリーナの呼びかけに、男は閉じていた瞼を開いた。
先ほどラウスに捕まえられた時の、必死に足掻く雰囲気は微塵もない。口角を持ち上げ、太々しい欲深さが爛々と瞳の中で光っていた。
「……さすがと言うべきかな、レス」
「もう私はレスじゃないわ」
「いいや、お前はこれからもレスとして生きていくんだよ。お前に騎士なんて気取った仕事ができるわけない」
「…何しに来たの?」
「まぁ、生活の足しになるものはないかと思ってな」
「あるわけないでしょ。この街では、騎士団直轄の警察組織が目を光らせてる。地下街の人間がのこのこ来られるところじゃないのよ、ジーム」
ジームと呼ばれた男はニヤリと笑うと、煉瓦の壁に寄り掛かった。
「そう言うお前だって地下街の人間だろう」
「もう違うわ」
「ここにお前の居場所はないぞ」
ジームの吐き捨てるような言葉に、エリーナはグッと拳を握った。
ここに自分の居場所はない。
そんなこと、とうの昔に分かっている。
騎士団で、明らかに自分は浮いている。
学院では、セシルの推薦があったから入学試験を受けることができたのだ。だが、それからはセシルの力を借りることはできず、自分の力を証明し続けることで学院に居座っていた。
そうでなければ、あの学院からはじき出されていた。
それは騎士団でも同じことで、エリーナは一人の騎士として見られる。
年齢なんて関係ない。
大抵の騎士は後ろ盾に大きな家があるが、それがエリーナにはないのだ。
セシルが金を払って自分を買った。
シャルティー家の養子になったのなら話は別だが、エリーナは購入された物品であり、家族になったわけではない。だから、名前だって母の苗字を使い続けている。
だが、地下街が自分の居場所だと思ったことだってなかった。
地下街が自分に与えたのは、痛みと苦しみと屈辱だけなのだから。
「居場所なんて、自分で作るわ。あんたに言われる筋合いはない」
力の籠った声で言い切った言葉に、ジームはヘッと鼻で笑った。
「どうせお前にはムリだろうよ。地下街の匂いがたっぷり染み込んだお前なんかを」
この世界の住人が必要とするはずがない。
途端、ジームは首筋に冷たいナイフを突きつけられていた。
少しでも頭を動かしたら、首にズブリと刃が入るだろう。
頭を限界までのけぞらせ、首にピタリと当たられた小型ナイフを見ながら、ジームは引き攣った笑みを見せた。
「……あいっかわらず、可愛い顔して恐ろしい女だな、お前」
「あんたこそ、兄のラーグに似てるわね。他人を支配しないと気が済まないのかしら?」
刃を突きつけたまま、エリーナはニッコリと音を立てるように笑った。
ジームはエリーナが地下街にいた頃の雇い主・ラーグの弟だ。ジームはラーグと同じく性格が悪く横暴で、彼のせいで死んだ人間は数が知れない。
地下街の王としてふんぞり返っていたラーグの弟が、こんなところに出てくるとは、一体何をしているのか。
「それで、あんたは一体何しに来たの?何か盗ろうと思ってたなら、あんたの腰巾着に頼めばよかったでしょう」
「お前のせいで全員消えたんだよ」
「…消えた?」
「お前が兄さんたちを騎士団に売り飛ばしたからな。兄さんは騎士団に連行、店は解体。ガキどもも連れてかれやがってよぉ…。残ったのはおれだけだったんだよ。全部お前のせいだろうが、レス」
当時、ジームはどこかに出かけていて、確かに店にはいなかった。
ラーグが騎士団に連れていかれてからどうなったのか、一緒に生活していた「同僚」たちがどうなったのか、エリーナは知らない。しかし、ジームがこれまで逃げ延びていたことは素直に驚いた。
「自業自得よ。私は自分が生き残るための選択をしただけ。とやかく言われる筋合いない」
つまり、ジームがここに来たのは、単純に地下街でひもじくなって盗みを働こうとしただけということだ。
自分が危惧したような理由はなかった。それが分かっただけで十分だ。地下街の話には興味がない。
「なんだ、おれがお前を地下街に連れ戻そうとか思ってここに来たと思ったのか?それは自意識過剰の見当違いだぜ。レスがここにいるとは思わなかったからなぁ。運命の巡りあわせってやつさ」
「いらない運命ね。ま、あなたも悪運が強かったってことで」
「あんなひょろい奴に捕まるなんざ、屈辱だな…」
「ひょろく見えても、あれでもあんたみたいなのとは鍛え方が違う。あんたでは、屈辱を感じることすらおこがましいわ」
エリーナは突きつけていたナイフを下ろすと、太腿に巻き付けていたベルトにしまった。ベルトにはナイフ、吹き針数本が仕込まれている。
それを目にして、ジームはフッと鼻で笑った。
「おいおい、随分物騒な物持ち歩いてやがるな。そんなに治安が悪いのか?ここは」
地下街よりやべえな、と笑うジームの鳩尾を蹴り上げる。
ブーツの鋭い爪先がめり込み、ジームは声を上げることなく失神した。
脱力したジームを無造作に担ぎ上げ、エリーナは近くの騎士団直轄の警察署に向かう。
鼻を覆いたくなる臭いを漂わせる男を担いだエリーナに警察官はギョッと目を剥いたが、エリーナの簡単な話を聞いてすぐに連行の手配を始めた。
「お疲れさまであります、レグリス六等騎士!」
「お疲れさま。その人、煮るなり焼くなり好きにしてくれて構わないわ」
「ええっ⁉」
「それくらいしても、罰当たらないわよ」
それじゃあねと手を振って出て行ったエリーナを、警察官たちは唖然として見送った。
彼らはカーマンブルクの治安を維持している。
アミュリッタ学院の卒業者が王国騎士団に入るのに対して、彼らは一般的な学校を卒業した後、試験と訓練を重ねて警察組織に入る。
警察組織入隊後は、スカルロート王国の都市や地区の署に配属されていくのだ。
それぞれの地区の治安維持が仕事のため、基本的に王国騎士団の騎士と顔を合わせることはなく、また、地位も騎士より低い。そのため、先ほど会った警察は大柄な中年男たちだったが、十二歳のエリーナに敬語を使うのだ。
一人で道を歩きながら、エリーナは先ほどのラウスとフローティアの温かな空気を思い出した。
相思相愛とは、まさにあの二人のことを言うのだろう。お互いのことを大切に思っているのが、傍から見ても良く分かった。
焦げ茶色のブラウスの上から、胸元に隠れている花の意匠のペンダントを握りしめた。
昔から心の支えにしていた、エリーナにとってはお守りのような存在だ。
ずっと身に付けて居たくて、地下街でどれだけ身ぐるみをはがされようと、これだけは手放さなかった。
『エリーナの髪も、お日様を浴びるとすっごくキラキラするでしょ?光の雨が降ってるみたいで、本当にキレイだよね』
不意にかつての記憶がよみがえり、慌てて頭を振った。
今そんなことを考えている場合ではない。
ひたすら自分を強化して、誰よりも強くならなければならないのだ。
「史上最年少の快挙を遂げた天才少女」と言われるくらいで満足してはいけない。
そもそも、自分は半月前のあの手合わせには納得していない。
あの時、ノルディは明らかに手を抜いていた。
ノルディの実戦での様子は見たことは無いが、それでも〈ヤマカガシ〉の逸話は有名だ。
剣筋が全く見えない、気が付いたら斬られている、動きが身軽で風のよう、屠った敵の骸を食べて己の力にしているなど、さまざまなものが飛び交っている。
さすがに最後の話は脚色が過ぎるが、それでも他のものはだいたい正しい。
また、最後の話も、あながち間違っているという訳でもない。
〈ヤマカガシ〉の名に相応しく、ヘビのように敵を見据える目は、まさに捕食者の目をしているそうだ。
騎士としての矜持を持って、エリーナと手合わせしていたのは確かだ。だが、ノルディは本気を出したわけではない。
今の自分の剣技では、あの男の本気を引き出すことができなかった。
それが悔しい。どうしても。
グッと唇をかみしめたエリーナは、布越しのペンダントの感触から手を離し、灰色の煉瓦が敷き詰められた道を歩き出した。
晴れ渡った晴天の空が、きらきらと街道を明るく照らしていた。
もう地下街で弄ばれていた『レス』はいない。
今ここにいるのは、王国騎士団六等騎士の『エリーナ・レグリス』。それが、これから自分が歩く道。
全ては、母親に地下街に売られたあの日から、別れて会えなくなってしまった幼馴染のシオンに、もう一度会うために。
それ以外はどうだっていい。
何を思われようと、蔑まれようと、厭われようと構わない。
シオンに会うためなら、なんだってする。
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