第7話 ひったくり

 アミュリッタ学院の正面玄関。

 ヴィンテージ煉瓦を基盤にして造られた朱色の建物を背景に、豪華な模様を施された、アーチ形の鋼鉄の門がそびえ建っている。


 その門の前で、学院の制服を身に付けたラウスはそわそわと落ち着かない様子で、辺りを見渡していた。


 やがて、ガラガラという車輪が地面を走る音が聞こえてくる。そちらに目を向けると、赤いカーテンのかかった馬車がこちらに向かっていた。


「ラウス!久しぶりね!」


 馬車からぴょんと跳び降り、ミルクティー色の柔らかな髪をふわふわと揺らしながら駆け寄って来る少女を目に留め、ラウスは破願して出迎えた。


「フローティア様、お久しぶりです!」


 陽光をいっぱいに浴びて、咲き誇る大輪の華の笑みをこぼしながらやって来た少女――フローティア・エリクトルに、ラウスも満面の笑みを浮かべる。


 彼女はスカルロート王国の公爵貴族の一人娘だ。母親が国王の妹に当たるため、王族の正統な血を引いている。


 ラウスとフローティアは、所謂幼馴染という間柄であった。役職上、父であるセシルが国王の側に行くことが多い。


 幼い頃、たまたまラウスがセシルについて行った時に、王城に遊びに来ていたフローティアと出会ったのだ。

 同い年ということもあり、意気投合した二人は、それから度々遊ぶようになった。

 

 ラウスがアミュリッタ学院に入学し、学生寮に入ってからも交流は続いている。


 ただ、アミュリッタ学院は規則が厳しく、ラウスが外に出るには、許可を取らなければならない。そのため、こうしてフローティアが会いに来てくれるのだ。


「ラウス、お勉強はどう?訓練は順調かしら?」


 かわいらしく小首を傾げたフローティアに、ラウスはドンと得意げに胸を張った。


「もちろん、順調ですよ。早く卒業して、すぐに、この国のお役にたってみせます!」

「ラウスが騎士になったら、きっと頼もしいわ。ラウスの騎士服姿、とっても楽しみね」


 ふわりと可憐に歩を染めるフローティアをラウスは綿毛に包まれた心地で眺めた。


 フローティアと話していると、いつも穏やかな気持ちになる。暖かい光に包まれているようで、心がホッと安らぐのだ。


「フローティア様も、女学校はどうですか?花嫁教育が厳しいと聞いていますが」


 ラウスの言葉に、フローティアは重々しくため息をつくと、しょんぼりと肩を落とした。


「お食事のマナーやパーティーでの所作、立ち居振る舞い、もううんざりよ。こればっかりなんですもの」


 本当に懲りた様子のフローティアに、ラウスも苦笑いするしかない。


「もうその教育は、フローティア様には必要ないものですよね…。パーティーなんて日常茶飯事で、すっかり身についているじゃないですか」

「やっぱり、ラウスもそう思うわよね⁉なのに、先生方もお父様も、全然お話を聞いてくださらないの。そう言う油断が隙を作って足元をすくわれるのだ、とかなんとか言って。もう退屈で仕方ないわ」


 はあーと盛大なため息と共にこぼれた愚痴に、普段はおしとやかな少女の素を見た気がして、ラウスはくすっと笑った。


王家直属の貴族の娘でありながら、フローティアは気負ったところがなく、とても親しみやすい少女だ。


 ラウスは王国騎士団騎士長の息子といっても、父親がすごいだけで自分には特にこれといった地位を持たない。


 そんな自分に対しても、フローティアは友好的に接してくれる。こうして他の人の前では決して崩さない澄ました顔が、ラウスの前ではほぐれてくれるのだ。彼女が心を許してくれているのだと感じて、ラウスは胸が弾んでいた。


「そうだわ!今度の週末、外出許可を取れないかしら?とっても素敵なケーキ屋さんを見つけたのよ。ラウス、昔から甘いもの好きでしょう?一緒に行きたいなって思って!どうかしら?」


 不意に思い出したようにパチンと手を合わせ、目をキラキラさせながらフローティアが身を乗り出してきた。それにラウスもパッと表情を明るくして頷く。


「行きたいです!週末ですね、分かりました。寮母さんに頼んで、外出許可を取ってみます」

「本当⁉︎嬉しい!」


 ほわんと頬を染めるフローティアに力強く頷いた時だった。


「誰か!ひったくりよ、捕まえて‼︎」

 

 縋り付くような大声が、辺りに響き渡った。


 ハッとして振り返ると、大きな鞄を抱えた向こう側に走っていく、大柄な男の後ろ姿が見えた。この辺りでは全く見ないほどボロボロの布を体に纏い、ところどころ風に靡いている。布の隙間から見える肌は、随分と黒く汚れていた。


 男が走り去るその後ろには、鞄の持ち主であろう高齢の女性が倒れ込んでいた。ひったくられた時に転んでしまったのだろう。


「ひ…ひったくり……⁉︎」


 フローティアが驚愕したように目を見開き、口元を手で覆った。


「フローティア様はここにいてください!」


 彼女に一声かけると、ラウスは右足で地面を強く踏み締めて前のめりになった。


 男に狙いを定め、地面をへこませる勢いで蹴り上げる。


 百メートルほどの距離を九秒で縮めると、目の前に迫った男の背中に向かって、左足を軸にし、右足を力いっぱい横に振り上げた。男の右わき腹に足がきれいにはまる。男の身体が湾曲し、左に吹き飛んだ。その衝撃で、鞄も宙に浮かんで地面に落ちる。


 地面に這いつくばってもがく男に、ラウスは畳みかけるようにその背中に跳び乗った。


 起き上がろうとする頭を渾身の力で煉瓦の道に叩きつける。男の頭を掴む手に、地面の硬い感触が駆け巡った。


「こら、大人しくしろ!」

「放せ!このクソガキ‼︎」

「なんだとお前⁉︎」


 身体の下で抵抗してくる男の両腕を捻りあげる。バキッと肩の関節が外れる音と共に、男が涙の混じった悲鳴をあげた。


「う……ぐぅあ…⁉︎」

「ひったくりなんかしていいと思ってるのか⁉︎おばあさんに荷物を返せ!」

「う…うるせ…っ‼︎」


 未だラウスの拘束から逃れようともがく男の背中を、膝小僧で圧迫する。ちょうど肺の後ろ側になるため、息苦しいはずだ。


「がはっ……‼」

「このまま死にたくなければ降参しろ。足掻くだけ無駄だ!」

「ぐ…!」


 男が悔し気に顔を歪め、拳を握りしめた。


 勝った!

 男の抵抗が止み、ラウスも力をふっと抜いた。


「グッ⁉」

 

 突然、男が身体を弓なりにしならせ、後頭部でラウスの額を直撃した。


 頭をハンマーで殴られたかのような衝撃に、一瞬目がくらりと回る。


「ラウス!」


 ひったくられた鞄を拾っていたフローティアが悲鳴をあげた。


 いつの間にか、彼女は移動していたらしい。フローティアには、体術も武器もない。完全な丸腰だ。


 そんなフローティア目掛けて、ラウスの拘束を抜け出した男が、彼女に走り迫ったのだ。


 黒く汚れた男の手が、汚れを知らない少女に伸ばされる。


「フローティア様!」


 慌てて駆け出したラウスの目の前から、男が消えた。


 えっ?と思わず足が止まったところで、ふわりと紅い少女が降り立った。少女は両手を広げて、鳥のように軽く優雅に地に足を着ける。


 呆気にとられたラウスはとっさに反応できず、喉から枯れた声が出る。


「な、なんであんたが…」


 手で長い髪を振り払ったエリーナは、呆れたようにラウスを見た。


「油断大敵」

「う…あ、あんたに言われなくても分かってるよ!」

「どうだか」


 肩をすくめたエリーナは悠然とした足取りで、蹴り飛ばした男の元へ歩いて行った。横からエリーナが蹴りを放ち、男を水平に吹き飛ばしたらしい。男はうめき声を上げて地面に伸びきっていた。


 男はエリーナに任せて、ラウスはフローティアの元に駆け寄った。


「フローティア様、大丈夫ですか⁉」

「ら、ラウス…」


 フローティアは突然自身を襲った恐怖と安堵に身体が追い付かず、地面にぺたんと座り込んでいた。


「え、ええ。何とか…」

「君たち大丈夫か⁉」


 近くにいた住民たちがラウスとフローティアの元に集まって来る。


 ひったくりにあった女性もよろよろとやって来て、小さな身体を更に縮めて頭を下げてきた。


「鞄を取り返してくれて、本当にありがとうございます。もうなんとお礼を申し上げたらよいか‥」

「いえ、これくらいなんてことないです。それより、おばあさんこそお怪我は…」

「この通り大丈夫です。お気遣いありがとうございます」


 目尻を下げて笑う女性に、ラウスも大丈夫そうだと息を吐いた。


 女性に鞄を返すと、未だ足が震えているフローティアに手を貸す。ラウスの手を支えに立ち上がったフローティアも、安心したようにため息をついていた。


「おばあさん、こんな大きな荷物、一人で持っていては危ないわ。誰かに手伝ってもらうとか…」

「いいえ、家には男の人しかいないもの。仕事で忙しいのに頼めないわ。息子のお嫁さんも、お腹の中に赤ちゃんがいるから、無理はさせられないしね」


 疲労を隠して朗らかに笑う女性を見て、ラウスもフローティアも何も言えなくなってしまった。



 女性を見送ったラウスとフローティアは、男を紐で縛っているエリーナの元へ向かった。


 男は気絶しているらしく、抵抗せず大人しくしている。


 改めて近くで見ると、男からは腐った卵のような臭いが漂い、髪はちりぢりで、ボロ布を纏った身体もあちこち垢が溜まっている。


 普段目にする人たちと随分違う姿に、こんな人がいるのかとラウスは顔をしかめて鼻をおさえた。


 ずっとこの臭いをかいでいると、鼻がもげてしまいそうだ。


 ラウスの近くまでやって来たフローティアを、さりげなくスッと男から遠ざけてしまう。


 男を縛り終えたエリーナは、手をパンパンと払って立ち上がった。


「ふーん…一応、まだマシな服着てるのね、この人」

「え⁉︎これ、服なのか⁉︎」


 エリーナの言葉にラウスは思わず素っ頓狂な声を上げた。ボロ布を着て変な人だと思っていたが、まさか服のつもりだったのか。


 本気で驚愕しているらしいラウスに、エリーナは冷たい目線を浴びせた。


「………自分の見ている世界が全てと思わないことね、シャルティー学院士」


 その物言いにむっとしていると、エリーナは脱力している男を軽々と肩に担ぎあげた。そしてにっこりと笑みを見せてくる。


「この男の身柄は、窃盗犯として王国騎士団が預かります。現行犯逮捕にご協力、ありがとうございました」

「…ご苦労様です」


 義務的に告げられた言葉に、ラウスも義務的に返す。

 

 そのままどこかに行くかと思ったが、エリーナは思い出したように、騎士団の茜色の常勤服のポケットをいじった。


 何をしているのかと見ていると、ポケットから取り出した右手に、小さな封筒が握られていた。


「忘れてた、はいこれ」

「…何だよこれ」


 エリーナから手紙を渡される義理はない。


 彼女から渡されるというだけで気味が悪くなり、ラウスはゲッと顔をしかめて後ずさりした。エリーナはラウスの反応にハア…とため息をつくと、封筒を裏返し、そこに書かれている名前を見せる。


「よく見なさい。モレラスさんからよ」

「…兄さん?」

「結婚式の概要と招待状」


 ラウスが受け取ったのを確認し、エリーナはニッコリと微笑んだ。


「それじゃあ、邪魔者は退散するわ。貴重な逢瀬の時間に悪かったわね。それでは失礼いたします、フローティアお嬢様」


 エリーナは腰を追って頭を下げると、脱力した成人男性を担いでいるとは思えない、優雅な足取りで立ち去って行った。


 エリーナを唖然として見送ったフローティアは、金縛りが溶けたように大きく息をついた。


「やっぱり、何度会っても何を考えているのか分からない人ね、エリーナさんって…」


 フローティアのぼやきに、ラウスはエリーナの後ろ姿を厳しい眼差しで見つめながら頷いた。


「学院時代も、良いうわさはこれっぽっちも無かったですよ、あいつは」


 吐き捨てるように言ったラウスに、フローティアはパチパチと目を瞬かせた。


 ラウスは基本的に明るく朗らかな性格で、誰とでも仲良くし、困っている人を放っておけない人だ。


 これだけ激しい口調で誰かを罵る姿は、あまり見ることが無い。


 珍しいと思いながらも、ラウスの先ほどの一言が気になった。


「うわさ?」

「学院長とかを誘惑して手玉にとって、特別待遇で入学して早々に卒業したんだろう、とか、試合相手を買収してわざと負けてもらってたんだろう、とか…」


 だが、半月前の王国騎士団副騎士長との手合わせでは、結果は敗北だったものの、ほぼ互角の戦いを見せたらしい。


 さまざまな逸話を持つあの〈ヤマカガシ〉相手に、だ。


 この話は学院内でもあっという間に広がり、もちろんラウスの耳にも入っていた。


 ただでさえ、学院を最年少で入学し、最短期間且つ最年少で首席卒業するという、恐るべき功績を残した少女なのだ。


 アミュリッタ学院では、否応にも注目を浴びる存在だった。


 そのため、彼女が学院を卒業した後でも、エリーナの噂は絶えることが無いのだ。ラウスにとっては大変気に入らないことではあるのだが。


 それに、彼女の実力は自分が身をもって知っている。


 あの時、たくさんの生徒と教師が見ている中、こてんぱんに打ちのめされたときの強さと屈辱は、忘れようにも忘れられない。


 だが、自分が彼女と仲良くしようとどうしても思えないのは、恥をかかされたからではない。


「あの全く感情の見えない顔が、特にむかつくんですよ。人を馬鹿にしているみたいに笑いやがって…」


 尻を着いて見上げた時の、エリーナの顔。


 口元に薄い笑みを浮かべてラウスを見下ろしているにも関わらず、あの紅い瞳には何も映っていなかった。


 あの少女は、目の前の人間を見ていない。


 自分と試合で戦ったことすら、彼女にとってはなんてことないことだったのではないか。


 彼女にとっては何の意味もないことなのではないか。


 自分は自分の力を精一杯出し切って戦ったというのに。


 そう思うと腹が立って、それから彼女とは会話もしたくなくなった。


 エリーナがずっと顔に張り付けている笑みには感情が乗っておらず、本心がまるで見えなかった。


 彼女にとって、周りの人間はどうでも良いのだろう。だから、あんな無関心な笑みを浮かべていられるのだ。


 もうエリーナの姿は視線の先にはない。しかし、ラウスはエリーナの歩いた跡すら許さないと言わんばかりの剣呑さで、その場を睨みつけていた。

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