第2話 婚約者に情事の現場に踏み込まれた
「まずは離れて服を着ろ! そして正座だ!」
婚約者に、情事の現場に踏み込まれた。
清楚で控え目で、大きな声を出したことなどなかった婚約者が、腕を組んで仁王立ちしている。
当事者である自分がとやかく言える立場ではないが、不貞の生々しい現場に踏み込んだ深窓の令嬢の態度は、こんな風じゃない気がする。
昔、故郷の師匠の愛刀の
振り返るのがどれほど怖かったことか。
目の前の婚約者……ルォシーから、あの時の師匠と同等のオーラを感じる。思えば、彼女からこれほど強い感情をぶつけられたのは初めてかも知れない。
「あなたたち、少しは気を使えないのかしら。特にハオラン、今日は私と約束してたでしょう? このあと、どんな顔で私と会うつもりだったの? 欲情したらお構いなしなの? 本能のまま生きるな! ここまで進化して来た人類に謝れ!」
人類に謝るので良いのだろうか。ここは自分の気持ちを考えろ、自分に謝れと言う場面ではないのか?
彼女は初めて抱き合った夜でさえ、どこか作りモノめいた遠い人だった。だが今は、瞳の色さえ違って見える。
「ハオラン……あなたとの結婚話は破談です。異論は受け付けません」
ルォシーが大きく息を整えてから言った。いっそ事務的ですらある。最初の剣幕との落差が逆に怖い。
「ルォシー……すまない……」
「何に対しての謝罪なの? シャオから逃げるために私との縁談を受けたこと? そのくせ、再会してすぐにヨリを戻したこと? それとも私と約束していた日に、情事に耽っていたこと?」
ピシャリと遮るように言われて言葉を失う。全てがその通りなだけに、返事をすることが躊躇われる。もちろん反論や言い逃れも出来ない。
隣に正座しているシャオが小刻みに震えている。
「シャオ……あなた、こんな人で良いの? この人、あなたからも私からも、逃げてばかりじゃない。……苦労するわよ」
「僕は……ハオランの側に居られるなら、何だって良いんだ……。ごめんルォシー。あなたをどんなにか傷つけてしまっても、僕はハオランが欲しい」
シャオは顔色を悪くして、それでもはっきりと言った。
「困った子ねぇ……」
ルォシーが呆れたようにため息をつく。まるで、
「全く……。最初から勝てる戦いじゃないのよ……。何なのよ、この状況……!」
ルォシーは俯いてぶつくさと独り言のようにつぶやき、ゆっくりと顔を上げると言った。
「重大なお知らせがあります」
この状況で何だろう? 婚約破棄よりも重大? 悪い予感しかしない。
「私のお腹には、ハオランの子供がいます」
「「えっ……」」
シャオと俺の声が重なる。
「もちろん産みます」
「「ええっ?」」
呆気に取られる俺とシャオに、ルォシーが眉根を下げる。
「ハオラン……気持ちは分かるけど、そんなこの世の終わりみたいな顔しないで。私はあなたの妻になるのは止めるけど、この子はあなたの子供をやめられないの。今は無理でも、祝福だけはして欲しいわ」
「だ、だが、破談にするとなると……父親のいない子供など、世間でどう言われるか……」
「父親はいるわよ。あなたでしょう? 色ボケして忘れちゃったの?」
コテンと首を
「いや……! 忘れてなんかいない! 俺の子なのはわかっている。だが、未婚の身の上で……」
「なら、私と結婚する? シャオの気持ちはどうなるの?」
言葉が出て来ない。普段の俺ならば、場を支配して会話を誘導することなど造作もないことなのに。
どうしてこんなことになってしまったのか……。決まっている。俺の弱さと優柔不断さが招いたことだ。
「この子はハンデを背負って生まれてくるの。あなたの無責任さと、私の未熟さのせいでね。それは一生かけて愛情で贖うしかないわ。でもそれは私の仕事。あなたに子供に関わる資格はないでしょう?」
ルォシーの目は、完全に俺を見限っている。その目に昨日までの夢見がちな婚約者の面影はない。
「ハオラン、私の両親に破談の説明はあなたがしてね。私はこれでも大事に育てられた箱入り娘だから、きっとめちゃくちゃ殴られるけど仕方ないわよね? だってあなた、それだけのことをしたもの」
田舎の両親の顔が浮かぶ。俺の両親は実質ルォシーの家の代官だ。こんなことになって、お咎めなしはあり得ない。
「あらハオラン、顔色が悪いわよ。まさかあなた、そんなことも考えずにシャオとヨリを戻したの? 私のことも自分の家族のことも将来的なことも、何の展望ナシなの? 破談の慰謝料はどうやって払うの?」
「僕が何とかする。旦那さまにも僕が話す。ハオランは悪くない! 僕が、ハオランを追いかけて来たりしたから……」
「悪くないわけないでしょう? シャオ、あなただって被害者なのよ。未成年に手を出しておいて、ロクな別れの挨拶もなしで逃げたんでしょう? この人……鬼なのかしら?」
ルォシーが『お坊ちゃん育ちの鬼畜攻めってタチが悪いわね』と、若干意味のわからないことを呟き、盛大なため息をつく。
自分は俺に輪をかけた、世間知らずのお嬢さまだった筈なのに。……まるで今はそんな風には見えないけれど。
「シャオ、ごめんなさいね。しばらく席を外してくれるかしら? 二人だけで話さないといけないこともあるの」
「わかった……。ルォシー、僕はあなたのことが、結構好きだ。それなのに、あなたの目を盗んでハオランとこんなことになって、ごめんなさい。もっと早くに、あなたと話し合うべきだった」
「そうね……その通りよ、シャオ。こうなった以上、先のことを考えましょう。あと……私もあなたのことは決して嫌いじゃないのよ」
シャオが振り返りながら出て行くと、部屋の空気が三段階ほど重くなった。人は、空気があっても窒息死するかも知れない。
俺は床に額を擦り付けた。故郷の家族を路頭に迷わせてしまうかも知れないこと、まだ少年の域を脱し切れていないシャオが、俺の代わりに責任を取ろうとしたこと……ルォシーの将来を台無しにしてしまったこと……。
俺の身勝手な行いの結果の全てが、肩に重くのしかかって顔を上げることが出来ない。頭を下げているのに貧血を起こしそうだ。
振り返ってみれば、大人しくて明らかに俺に夢中なルォシーを、俺は舐めていたのだ。例えシャオとのことがバレたとしても、ルォシーは知らない振りをして俺と結婚すると思っていた。
俺は結婚して世間体を整えた上で、シャオとの関係を続けていこうとさえ思っていたのだ。最低だ。ルォシーが口にした『鬼畜』という言葉は間違っていない。
「ねぇハオラン。あなた、左利きよ。明日から、構えを左右逆にしてみると良いと思うの」
ルォシーが唐突に言った。何を言われているのか分からずに、思わず固まる。
「あとね、もっと短かい剣の方が合ってる。斬り下ろすんじゃなくて、下から切り上げる感じ? 逆手で二刀流も良いかも……そうすればあなたも、まだまだ伸びるわ」
剣術……の話なんだろうか? 一瞬、下半身の話かとも思ったが、そんな指南をする場面ではない。ましてや婚約者を寝取られた女性が、その直後にする話ではないだろう。
「左利きは不吉だと、幼い頃に矯正させられたんだ。だが……君はいったい何の話をしているんだ?」
慰謝料や、俺の今後の身の振り方を話し合うんじゃないのか?
「斬り込むより、受けて流すの。敵の油断を誘って次の攻撃を読むのよ。あなたは良い目を持っているんだから、シャオが斬り込む隙を作ることに専念してみて」
剣術の師範よりも、具体的で理に適った戦法に思える。ルォシーはいつ、どこで俺やシャオの剣筋を見たのだろう。
「だいたいあなた……まだ死ぬ気で努力してないでしょう? 自分の才能を見限るのも、シャオの才能に理不尽な嫉妬心を向けるのも早いのよ。毎日十二時間くらい修行する生活を三ヶ月くらい続けてみなさいよ。それでも何ひとつ掴めなかったら、そのあと身の振り方を考えればいいわ」
ルォシーは俺が剣の道を志していたことさえ、知らないと思っていた。
俺のコンプレックスにも気づいていたのか……。俺はシャオの才能の眩しさに目が眩み、どんどん深くなる自分の闇に呑まれそうになった。だから逃げた。
「シャオは本物の天才なの。これからも息をするごとに強くなるわ。でもあの子は自分の才能に、それほど興味がないし執着もしない。それがあなたを追い詰めたのよね。でもね……シャオはあなたの側にいないとダメになる。それはあなたも同じよ」
ルォシーは……ルォシーは平気なのか? 俺がいなくてもダメにならないのか?
そんなことは、言える筈がない。
ルォシーは『だから……苦しくても、もう逃げるのはやめなさい』と言って、目尻をほんの少しだけ赤くした。
故郷から……シャオから逃げて、ルォシーとの縁談に縋った。ルォシーと結婚して文官になって、剣術から逃げたつもりだった。
「ハオランは文官には向いてないわ。あなた、悪巧み……いえ、敵の嫌がる戦略を考えたり、
慰められているのか、性格の悪さを
「だから、二人で軍に入りなさい。お父様に、推薦状を書いてもらってあげるから」
「大切なひとり娘を裏切って、男と情事に耽っていたロクデナシに、そんな温情を見せる父親がいるのか?」
ポロリと軽口にも似た本音を溢してしまった。するとルォシーは、あははと声を上げて笑い、大丈夫よお父様は私に弱いからと言って、目尻を拭った。
泣いているのかと一瞬ドキリとしたが、彼女の浮かべている笑みがあまりに綺麗なので、もう取り返しがつかないことと、俺たちの縁がはっきりと切れたことを思い知った。
「私に悪いと思うなら、国を救った英雄にでもなった時に自伝に書いてよ。『俺とシャオの最大の恩人だ』ってね!」
ルォシーはもう、俺のために泣いたりしない。
「でも、お父様に殴られるのは止めてあげないわよ? あと、軍で稼いで慰謝料と養育費は払ってね」
余りにも……未練の『み』の字も感じられないきっぱりとした対応に、理不尽な想いが湧いて来る。
俺は、子供を身籠もっている相手にさえ、引き止めてもらえないのだ。
じゃあどうして欲しいのか?
子供を盾にして、俺のことを取り戻そうと泣いて縋って欲しかったのか? シャオを『泥棒猫』とでも呼んで、見苦しく取り乱して欲しかったのか?
全部呑み込んで、許そうと歯を食いしばっているルォシーに、捨てないでくれと言いそうになる。
それは、口が裂けても言うべきではない。
俺は彼女がこんなにも魅力的だということを、知ろうともしなかったのだから。
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