第8話

 激しく唸る風が廃墟に生い茂る草の間を吹き抜け、サンザシの茂みとイラクサがざわざわと音を立てた。雲が月の表面を通り過ぎ、束の間大きな城跡を照らすと、影に揺れる淡い光の中に、濠とわずかに残る城壁と骸骨の山が浮かび上がった。骸骨はぼろぼろの歯を剥き出し、ぽっかり開いた黒い眼窩から虚空を見つめている。ディアは小さく叫び、ロベルトのマントの中に顔を隠した。

 ロベルトの踵でつつかれた雌馬は慎重にレンガの山を踏み越え、壊れた屋根付き回廊を進んだ。敷石に当たる蹄鉄の響きが壁にはね返って不気味にこだまし、吹きつける強風の音にかき消された。ディアは身震いし、馬のたてがみに両手を突っ込んで呟いた。

「怖い」

「怖いことは何もない」ロベルトは片手をディアの肩に置いた。「世界中でここより安全な場所はない。ここはネィワ・シュテン ー 魔法剣士の砦だ。ここにはかつて美しい城があった。はるか昔だ」

 ディアが無言でうつむくと、雌馬のノースがディアを安心させるかのように静かに嘶いた。

 馬に乗ったふたりは、ところどころに柱と屋根付き回廊が残る暗くて長い黒いトンネルに入った。ノースは漆黒の闇をものともせず、確固とした足取りでぐんぐん歩んでゆく。蹄鉄が床に当たって、澄んだ音を立てる。

 目の前にトンネルの出口が見えた。一本の縦線が赤く閃き、次第に高く広くなって扉になった。扉の奥では、松明が壁にかかる鉄の燭台で燃え、ちらちらと淡い光を放っている。明かりを背に、扉の前に立つ人影が黒くぼんやりと浮かび上がった。

「誰だ?」威嚇するような、金属質の声。イヌが吠えたかのようだ。「ロベルトか?」

「そうだ、ゼンベル。おれだ」

「入れ」

 ロベルトは馬を降り、ディアを鞍から下ろして立たせ、小さな手に荷物の包みを押しつけた。ディアは包みを握りしめたが、身を隠すには小さすぎた。 

「ここでゼンベルと待ってろ」と、ロベルト。「ノースを馬小屋に置いてくる」

「明るい方に来い、ぼうず」ゼンベルと呼ばれた男が轟くような声で言った。「暗いところで動くと危ないぞ」

 ディアは男の顔を見上げ、恐怖の叫びを呑み込んだ。人間じゃない。二本脚で立ち、汗と煙のにおいがして、人間の服を着てるけど、人間じゃない。あんな顔の人間がいるはずがない。

「どうした、何をしてる?」と、ゼンベル。

 ディアは動かなかった。闇の奥にノースの蹄鉄の響きが遠ざかってゆく。そのとおき、柔らかくてキーキーと鳴くものが足の上を駆け抜け、ディアはビクッと飛び上がった。

「暗いところでじっとしてると、ネズミにブーツを食われるぞ」

 包みを握りしめたまま、素早くディアは明るい方に大股で移動した。ネズミがディアの足の下でキーッと鳴いて走り去った。ゼンベルは身をかがめて包みを受け取り、ディアのフードを後ろにずらして呟いた。

「なんてこった………女の子か。こいつは驚いた」

 ディアはおそるおそるゼンベルを盗み見た。笑っている。よく見ると人間だ。口の端から頬を通って耳までいたる、長くて醜い半円状の傷で歪んではいるが、間違いなく人間の顔だ。

「よく来た。ネィワ・シュテンにようこそ。名前は?」

「ディアだ」暗闇から現れたロベルトが代わりに答えた。ゼンベルが振り向き、次の瞬間、ふたりの魔法剣士は無言で抱擁し、がっちりと肩を抱き合って、すぐに離れた。

「《白獅子》よ、生きてたか」

「ああ」

「よかった」ゼンベルは腕木から松明を取った。「来い。熱が逃げないように内門を閉めておこう」

 三人は通路を進んだ。ここもネズミだらけだ。壁の下を駆けまわり、暗い闇の底や枝分かれする通路から鳴き声を上げ、松明が描く光の円から逃げまわっている。ディアはロベルトとゼンベルに遅れないよう、早足で歩いた。

「誰が冬越しをしている? ヴェッセルの他には?」

「ベルナートとリリエンだ」

 滑りやすい急な階段を下りると、階下にかすかな光が見えた。話し声がして、煙のにおいがする。

 広間は大きく、大きな暖炉が放つ光で明るかった。轟々と燃える炎が煙突の底に吸い込まれている。広間の中央には、十人は座れそうな大きくて重い木のテーブルが置いてあり、三人が座っていた。三人の人間。いや、三人の魔法剣士 ー ディアは心の中で言い直した。暖炉の火が眩しくて、影しか見えない。

「よく来たな、《白獅子》。待っていたぞ」

「やあ、ヴェッセル。やあ、みんな。やはり家はいいものだな」

「誰を連れてきたんだ?」

 ロベルトは一瞬、黙り込んだあと、ディアの肩に手を置き、軽く前に押し出した。ディアはおずおずと前に進み、背中を丸め、うなだれた。怖い ー 怖くてたまらない。ロベルトに見つけられ、助けられたとき、もう怖いことはないと思った。もう過去のことだと思った………。でも、今あたしはネズミと不気味なこだまに満ちた、暗くて今にも崩れそうな見知らぬ古城の中で、またしても炎の赤い壁の前に立っている。不吉な黒い人影が見える。敵意に満ちた、恐ろしげに光る目があたしを見つめている ー 

「この子は、《白獅子》? この子は誰だ?」

「この子は、おれの………」急にロベルトが口ごもった。ディアは肩にロベルトの硬くて力強い手を感じた。その途端、恐怖は跡形もなく消え、燃え盛る赤い炎はぬくもりになった。感んじるのはぬくもりだけだ。そして黒い人影は友人たちの影になった。あたしを守ってくれる人たち。その光る目に浮かぶのは好奇心。思いやり。そして、不安…………。

 ロベルトがディアの肩をギュッとつかんだ。

「この子はおれたちの運命だ」

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マギアと呼ばれた男 寝改 @nearata

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