第7話

「それで全部?」パトリツィアはグラスをテーブルに置き、チキンの串焼きに手を伸ばした。「何か隠してることはない? 言い忘れたことは?」

「ないよ。”ありがとう“以外はね。ありがとう、パトリツィア」

 パトリツィアはマクシミリアンの目を見つめて軽く頷き、つやのある黒い巻き毛をひねって肩に垂らすと、チキンを木皿に載せ、ナイフとフォークを使って器用に切り分けはじめた。このときまでマクシミリアンは、ナイフとフォークでチキンの串焼きを食べる人間をひとりしか知らなかった。ロベルトがどうやってナイフとフォークの使い方を覚えたのか………誰から教わったのかがようやく分かった。不思議はない ー ロベルトはジェレードーラで一年間、パトリツィアと暮らした。パトリツィアのもとを去るまで、奇妙なことをたくさん教えこまれたに違いない。それでいろいろと礼儀も知ってたわけだ。マクシミリアンは串からチキンをはずすと、いきなり腿肉を引きちぎり、これみよがしに両手で貪り始めた。

「どうしてわかった? 危ないところをよく助けてくれたな?」

「あなたの演奏中、わたしもブレオブへリスの下にいたの」

「気付かなかった」

「気付かれないようにしてたのよ。それからあとをつけて街に来て、この居酒屋で待っていた。まさかあなたを追って、あのいかがわしい快楽と淋病の館に入るわけにもいかなかったし。結局、待ちきれなくなって店の庭をぶらぶらしてたら、豚小屋の方から声が聞こえた気がしたの。最初は男色者か何かかと思ったけど、耳を澄ましたら、あなたの声だった。ちょっと、亭主! ワインを追加して!」

「かしこまりました、貴婦人どの! ただいますぐに!」

「さっきと同じものをお願い。でも、今度のは水なしでね。浴槽に入った水はいいけど、ワインに入った水は我慢できないわ」

「はいはい、仰せのままに!」

 パトリツィアは木皿を脇に押しやった。居酒屋の亭主一家の朝食になりそうなくらいは、まだ肉がたっぷり残っている。ナイフとフォークはたしかに優雅で上品だが、あまりにも効率的ではない。

「本当に助かったよ」マクシミリアンは重ねて礼を言った。「もう少しであのリエンヌとかいう男に殺されるところだった。全部白状させられて、今頃ヒツジのように切り刻まれていたかもしれない」

「そうね、危なかったわ。」パトリツィアは自分とマクシミリアンのグラスにワインを注ぎ、グラスをかかげた。「あなたの無事の救出と健康を祝って乾杯。」

「そしてきみにも、パトリツィア」マクシミリアンもグラスをかかげた。「今日から、機会があるたびにきみの健康を祈るよ。きみには借りができた。大きな借りだ。ぼくはその借りを歌で返すとするよ。“魔法使いは他人の痛みには無関心で、哀れで不幸な見知らぬ人間を助けることはめったにない”という通説は間違いであったと、ぼくの歌でみんなに聞かせる」

「どうかしら」パトリツィアは美しい紫色の目を半開きにして微笑んだ。「その通説にも一理あるわ。まったく根拠がないわけじゃない。でも、あなたは見知らぬ人間じゃないわ、マクシミリアン。わたしはあなたを知ってるし、あなたのことは好きよ」

「本当か?」マクシミリアンも微笑んだ。「今まで隠してたな。ぼくのことは“疫病よりも我慢ならないやつ”じゃなかったのか?」

「そんなときもあった」パトリツィアは急にまじめな顔になった。「でも、考えが変わったのよ。あなたには感謝してる」

「感謝って、何に?」

「気にしないで」パトリツィアは空のグラスをもてあそんだ。「もっと大事な質問に戻りましょう。豚小屋で関節が外れそうになるほど腕をひねられて訊かれた質問のことよ。本当は何があったの、マクシミリアン? ヤダニル川の河岸を去ってから、本当にロベルトと会ってないの? 戦争のあと、ロベルトが南に戻ったことを知らなかったの? ひどいケガをして ー 死んだという噂まで流れてたわ。本当に何も知らなかったの?」

「知らなかった。ぼくは、ポンド・ヴァイアのエルドリエ・ヒッセンの宮廷にいた。それからアルフォンスのニーダミアの宮廷に行って ー 」

「知らなかったのね」パトリツィアは頷き、チュニックの前を開けた。黒いビロードのリボンを巻いた首から、ダイヤモンドをはめ込んだ黒曜石がぶら下がっている。「傷が治ったあと、ロベルトがヴェルデラに行ったことも知らなかった? だったら、彼が誰を捜していたかも知らないわね?」

「それは分かるよ。でも、その子を見つけたかどうかは知らない」

「そう、知らないの………。いつもは、なんでも知ってて、なんでも歌にするのに ー 他人の心の内のような、とても個人的なことまで。バラッドをブレオブへリスの下で聴いたわ、マクシミリアン。あなたは素敵な詩を歌ってくれた」

「詩には正義がある」マクシミリアンはチキンを見つめながら呟いた。「それを聞いた人が不快に思ってはならない ー 」

「“カラスの羽を思わせる黒髪は夜半の嵐のごとく………”」パトリツィアが大げさな口調で引用し始めた。「“………紫色の瞳には稲妻が眠り………”。こんなふうだったかしら?」

「それが、ぼくの記憶の中のきみだ。」マクシミリアンはかすかに笑った。「これが嘘だと言うやつがいたら、ただじゃおかない」

「ひとつ分からないのは、いったい誰の許しを得て、わたしの内面を歌ったのかってことよ」パトリツィアは唇を尖らせた。「どんな言葉だったかしら? “彼女の心は、首元を飾る宝石。ダイヤモンドのように硬く、ダイヤモンドのように冷ややかで、黒曜石のように鋭く ー ”。これもあなたの創作? それとも……?」

 パトリツィアは唇を震わせながら歪めた。

「……それとも、誰かの告白と嘆きを聞いたの?」

「それは、ええと………」話がまずい方に行きそうだ。マクシミリアンは咳払いをして話題を変えた。「それで、パトリツィア、最期にロベルトに会ったのはいつだ?」

「ずっと前よ」

「戦争のあと?」

「戦争のあと……」口調がかすかに変わった。「いいえ、戦争のあとは一度も会っていないわ。長い間………誰とも会わなかった。本題に戻りましょう。何も知らず、何も聞いていないあなたが密偵につけられ、天井の梁から吊るし上げられたとは意外ね。ねえ、何か嫌な予感がしない?」

「する」

「いい、マクシミリアン?」パトリツィアはグラスをドンとテーブルに置き、鋭い口調で言った。「よく聞いて。あのバラッドをレパートリーから外しなさい。二度と歌っちゃだめよ」

「それは、つまり ー 」

「わかるでしょう? プウォジューフとの戦いを歌ってもいい。ロベルトとわたしのことを歌ってもいいわ。それで誰かが助かったり、傷ついたりするわけじゃないし、何かが良くなったり、悪くなったりするわけでもない。でも“シェロナの仔狼”のことだけは歌っちゃだめ」

 客が少ない時間にもかかわらず、パトリツィアは盗み聞きを警戒してあたりを見まわし、テーブルを片付けに来た女給仕が厨房に戻るのを待ってから小声で続けた。

「それから知らない人と一対一で会わないこと。共通の知り合いからの言いづてを伝える前に名乗るのを忘れるような人物にはとくに注意しなさい。わかった?」

 マクシミリアンが驚いて見返すと、パトリツィアはニッコリ笑った。

「フォルテニアからの伝言よ、マクシミリアン」

 マクシミリアンはおどおどとあたりを見まわした。あまりの慌てっぷりにパトリツィアはからかうような笑みを浮かべた。

「そのことだけど」パトリツィアはテーブルの向こうから身を乗り出して囁いた。

「フォルテニアが報告書を欲しがってるわ。エルヴェット王の宮廷でどんな噂が流れていたのか、ウォーデンから戻ってきたばかりのあなたから聞きたがっている。こう伝えるように言われたわ ー “今回の報告書は的確で詳細なものであること。どんな状況でも詩による報告は認めない”。つまり、散文で書けということよ、マクシミリアン、散文で」

 マクシミリアンはごくりと唾をのんで頷き、無言のまま質問を考えた。

 パトリツィアが先まわりして言った。

「困難な時代が近づいているわ」静かな口調だ。「困難で、危険な時代よ。変化のときが近づいているのに、それは良い方に向けようともしないまま歳を取るのは悔しいわ。そう思わない?」

 マクシミリアンは頷き、咳払いした。

「パトリツィア?」

「何?」

「さっきの豚小屋の男たち……やつらが誰なのか、何が目的なのか、誰が送り込んだのか、いろいろ知りたい。きみはふたりとも殺したけど、噂によると、きみは死者からも情報を引き出せるんだろう?」

「降霊術は魔法院の命令で禁止されているという噂も一緒に聞いたことなかった? そんな考えは忘れなさい、マクシミリアン。いずれにせよ、あのごろつきたちは大したことは知らないでしょう。でも、逃げた方の男は………ふん………あれはまた別かもしれないけど」

「たしか、リエンヌと名乗ってた。やつは魔法使いなんだろう?」

「そうね。でも、それほどの腕じゃないわ」

「それでも、やつはきみから逃げ切ってみせた。逃げるところを見たよ ー あれは、瞬間移動してたんだろう?このことから何が分かる?」

「リエンヌを助けた人物がいるってこと。リエンヌには空中に楕円の《門》を開けて保っておける時間も力もなかった。あのような《門》は簡単にできるものじゃない。他の誰かの魔法によるものなのは間違いないわ。リエンヌよりも遥かに力のある人物。だから追わなかったの ー あの《門》がどこに通じているかも分からないし。でも、かなり高熱の贈り物を投げてやったから、おそらく大量の魔法と火傷によく効く魔薬が必要ね。しばらくは火傷が残るはず」

「やつはきっとプウォジューフ人だ」

「そうかしら?」パトリツィアは背を伸ばし、ポケットからすばやくリエンヌの小剣を取り出し、手の中でのくるくるとまわした。「最近は誰でもプウォジューフ製の小剣を持ってるわ。持ちやすくて、使いやすい ー 胸の谷間にだって隠せるし ー 」

「剣のことじゃない。ぼくに質問したとき、やつは“シェロナの戦い”とか“街が包囲されたとき”とか、そんな言葉を使ってた。あの出来事をそんなふうに言うやつはいない。我々にとって、あれは大虐殺以外の何物でもない。《シェロナの大虐殺》。他の呼び方をするやつはプウォジューフ人だけだ」

「さすがね、マクシミリアン。相変わらずいい耳を持ってるわ」パトリツィアは片手をかざし、爪を見つめながら言った。

「ただの職業病さ」

「どの職業のことかしら?」パトリツィアはなまめかしい笑みを浮かべた。「でも、教えてくれてありがとう。貴重な情報だわ」

「これでぼくも、変化を良い方に向けるのに貢献できたわけだ」マクシミリアンはニッコリ笑った。「それにしても、どうしてプウォジューフのやつがロベルトとシェロナの娘にこれほど執着してるんだろう?」

「その件には首を突っ込まない方がいいわ」パトリツィアは急に真顔になった。「言ったでしょう ー ヨアンナ女王の孫娘の話は忘れなさい」

「たしかにきみはそう言った。でも、ぼくはバラッドの題材を探してるわけじゃない」

「だったら何を探してるの? 災難?」

「仮に ー 」マクシミリアンは組み合わせた手の上に顎をのせ、パトリツィアの目を見て囁いた。「仮にロベルトが本当にその娘を見つけ、助けたとしよう。ついに運命の力を信じ、その子を引き取ったとすると、どこに連れてゆくと思う? リエンヌはぼくを痛めつけ、聞きだそうとした。でもきみなら知ってるはずだ ー ロベルトがどこに隠れているのか」

「ええ」

「そして、そこへ行く方法も知っているはずだ」

「ええ」

「警告すべきじゃないか? “プウォジューフのやつらがおまえとシェロナの娘を捜している”と。ぼくがそこまで行ってもいいが、本当に知らないんだ ー それがどこにあるか………場所の名前は言わない方が………」

「ええ、絶対に口に出しちゃだめよ、マクシミリアン」

「ロベルトの居場所を知ってるなら、行って警告すべきだ。きみはロベルトに借りがあるだろう。なんといっても、きみたちの間には何かがあったわけだし………」

「ええ」淡々とした口調だ。「たしかにわたしたちの間には何かがあった。だから、わたしはロベルトのことを少しは知ってる。あの人はおせっかいが嫌いよ。それに、本当に困っているなら、そのときは信用できる相手に助け求めるわ。あれからもう一年くらい過ぎたけど………なんの便りもない。それに、借りという点では、あの人だってわたしに借りがある。お互いさまよ」

「だったらぼくが行く」マクシミリアンが頭を上げた。「場所を教えてくれたら ー 」

「だめよ。あなたは正体が既にばれてる。またやつらが追ってくるかもしれない。知らないにこしたことはないわ。ここから消えて。レダニツァ国のフォルテニアとフィルマ・ザネラウスのところへ行って、ヴォスミル王の宮廷でじっとしているのよ。もう一度言うわ ー シェロナの仔狼のことはきれいさっぱり忘れなさい。そんな名前は聞いたこともないというふりをするの。言うとおりにして。あなたには不幸な目にあってほしくないの。あなたのことは好きだし、あなたには大いに借りがある ー 」

「さっきもきみはそう言った。いったいぼくにどんな借りがあるっていうんだ?」

 パトリツィアは顔を背け、しばらくしてから言った。

「あなたはロベルトと一緒に旅をした。おかげで彼はひとりぼっちにならずに済んだ。あなたは彼の友人で、彼のそばにいてくれたわ」

 マクシミリアンは目を伏せ、呟いた。

「結局ロベルトにはなんの得にもならなかった。ぼくとの友情から得たものなんて、たかが知れてる。ぼくのせいでいつも迷惑ばかりかけた。いつもぼくを窮地から救い出し………手助けし………」

 パトリツィアはテーブルごしに顔を近づけると、無言でマクシミリアンの手に自分の手を重ね、ギュッと握りしめた。目に悲しみが浮かんでいる。

「レダニツァに行って」しばらくしてパトリツィアは繰り返した。「首都ソレスディーニャに行って、フォルテニアとフィルマに匿ってもらいなさい。英雄ぶっちゃだめ。あなたは危険な目にあって頭が混乱してるのよ」

「分かってる」マクシミリアンは顔を歪め、痛む肩をさすった。「だからこそロベルトに知らせたい。やつの居場所を知ってるのはきみだけだ。そこへの行き道も知ってる。たしかきみは以前………あそこに招かれて………?」

 パトリツィアは顔を背け、唇をぐっと引き結んだ。頬の筋肉が震えている。

「ええ、昔はね。」パトリツィアの声にはなんともいいがたい、奇妙な響きがあった。「以前はときどき招待された。でも、押しかけたことは一度もないわ………」

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