第6話
マクシミリアンは手首と肩の関節が外れそうな痛みで目を覚ました。叫びたくても声が出ない。口の中に粘土を詰め込まれたかのようだ。気がつくと背中で手首を縛られ、汚れた床に跪いていた。手首を縛るロープが背後から引き上げられるたびに、きしみを上げた。立ち上がって肩の痛みを和らげたいが、両脚も縛られていて立ち上がれない。マクシミリアンはあえぎ、むせながら、ぎりぎりと手首を引っ張るロープの力を利用して、ようやく立ち上がった。
目の前にリエンヌが立っていた。邪悪な目が、二メートル近くありそうなひげ面の男がかかげるランタンの光を受けて光った。もうひとり、同じくらいの背丈の男がリエンヌの後ろに立っていた。男の呼吸が聞こえ、すえた汗の匂いがする。屋根の梁を通ってマクシミリアンの手首につながるロープを引くのは、このくさい男らしい。
マクシミリアンの足が床から浮き上がった。なすすべもなく、マクシミリアンは苦し紛れに鼻からシューッと息を吐いた。
「やめ」リエンヌが命じた。短い時間だったが、マクシミリアンは永遠に思えた。足が床に着いた。膝をつきたいが、張りつめたロープが、なおも弦のようにマクシミリアンの身体を引っ張っている。
リエンヌが近づいてきた。なんの感情も読み取れない。潤んだ目の表情もまったく変わらない。声も淡々として、静かで、どこか退屈そうだ。
「おい、へぼ詩人。チビ。クズ野郎。自惚れ屋のカス。俺から逃げようとは、大した度胸だ。いままで俺から逃げおおせたやつはひとりもいない。話は終わってないぞ、こに道化め。あれほど丁寧に質問してやったのに、おまえは答えなかった。だから、これからおまえは、はるかにひどい状況で俺の質問の全てに答える ー そうだな?」
マクシミリアンは必死に頷いた。リエンヌが笑みを浮かべて合図を送ると、ロープと両腕が後ろに引き上げられた。関節がねじれてボキボキ音を立て、マクシミリアンは声にならない声を上げた。
「おまえ喋れない」リエンヌは、ぞっとするような笑みを浮かべた。「それに痛い、だろう? 言っておくが、おまえをこうやって吊り上げるのは趣味だ ー 俺は人が苦しむのを見るのが好きでね。さあ、もう少し引き上げてみるか」
マクシミリアンは息が止まりそうなほどあえいだ。
「やめ」リエンヌはマクシミリアンに近づき、シャツのひだ飾りをつかんだ。「よく聞け、チビ野郎。これから魔法を解いて喋れるようにしてやる。だが、必要以上にその美声を張り上げたら後悔することになるぞ」
リエンヌが片手で合図し、指輪でマクシミリアンの頬に触れると、顎と舌と口蓋に感覚が戻ってきた。
「これからいくつか質問する」リエンヌが淡々と続けた。「即座に、淀みなく、分かりやすく答えろ。一瞬でも口ごもったり、躊躇ったり、少しでも嘘の匂いがしたりしたら………下を見てみろ」
マクシミリアンは言われるままに下を見て、ぞっとした。足首を縛っているロープの結び目に短いもうひとつのロープがつながれていて、その先に石炭がたっぷり入ったバケツが結ばれてある。
「これ以上おまえを高く吊り上げようものなら」リエンヌは冷酷な笑みを浮かべた。「このバケツも一緒に持ち上がる。すると重みが加わり、お前の手には二度と感覚が戻らなくなる。そうなったらどうなる? 多分二度とリュートを弾けなくなるだろうな。だから、おまえは正直に俺が知りたいことを話す ー そうだな?」
マクシミリアンは答えられなかった。あまりの恐怖に首も動かせず、声も出ない。リエンヌは構わず続けた。
「念のために言っておいてやるが、おまえが本当のことを言っているかどうかはすぐ分かるからな。おれを騙そうとしたって無駄だ。俺に気取った言いまわしや、ごまかしは通用しないぞ。それを見破るのは、俺にとっては ー 階段でおまえを麻痺させることくらい ー 朝飯前のことだ。だから、言葉づかいにはくれぐれも気をつけろ、クズ男。よし、時間の無駄づかいはもうやめて本題に入ろうか。さっきも言ったとおりだが、おまえの美しいバラッドに出てくるヒロインのことを知りたい。シェロナ国のヨアンナ女王の孫娘のディア王女 ー 《驚きの子》と、そう呼ばれている娘だ。目撃者の話によれば、ディアは二年前、
「知らない………」マクシミリアンはうめいた。「神に誓って、ぼくはただの詩人だ。いろいろ話を聞いて、あとは………」
「あとは、なんだ?」
「あとはぼくが創った。創作だ! ぼくは何も知らない!」リエンヌがロープ男に片手で合図を送ると、ロープが締まり、マクシミリアンが叫んだ。「嘘じゃない!」
「なるほど」リエンヌは頷いた。「たしかに嘘じゃなさそうだな。嘘を言えば分かる。だが、おまえは何かをはぐらかしている。何の根拠もなく、あのようなバラッドを思いつくはずがない。何よりおまえは、その魔法剣士の知り合いだ。一緒にいるところをしょっちゅう誰かに見られている。さあ、マクシミリアン、関節が大事なら全て話せ。知っていることを全てだ」
「ディアは」マクシミリアンはあえぎながら言った。「魔法剣士ロベルトに運命づけられた子だ。《驚きの子》と呼ばれているのは有名な話だ。ディアの両親はロベルトに娘を渡すと誓い ー 」
「親が突然変異した狂人に大事な娘を渡すと思うか? 人殺し専門の傭兵のような男に? 嘘だな、へぼ詩人。そんな話は女どもにとっておくんだな」
「本当だ ー 母親の魂に誓って。」マクシミリアンはすすり泣いた。「信用できる筋から聞いた………魔法剣士のロベルトは ー 」
「娘のことを話せ。その魔法剣士の方には興味ない」
「娘のことは何も知らない! 知っているのは、戦争が始まったとき、ロベルトがシェロナから娘を救い出そうとしたってことだけだ。ちょうどその頃、ロベルトと再会した。ロベルトはぼくから
「続けろ。飾り文句はいらない。事実だけ話せ!」
「
リエンヌはマクシミリアンを見据えた。
「その魔法剣士は今どこにいる? 雇われモンスタースレイヤー ー 運命を語るのが好きな詩的な殺し屋はどこだ?」
「言ったとおり ー 最期に会ったのは ー 」
「それは聞いた。おまえの話はよく聞かせてもらった。今度はおまえが俺の話をよく聞け。俺の質問に正確に答えろ。そのロベルトだかロベルトだかを誰も見ていないとすると、どこに隠れているんだ? そいつの隠れ家はどこだ?」
「どこにあるかは知らない」マクシミリアンはとっさに答えた。「嘘じゃないぞ。本当だ ー 」
「まあ慌てるな、マクシミリアン、そう慌てるなって」リエンヌがニヤリと笑った。「口が滑ったな。おまえはずる賢い、その狡猾さで今まで生き抜いて来たんだな。だが、うっかり屋でもある。
マクシミリアンは怒りと悔しさに歯ぎしりした。
「さあ」リエンヌが後ろの男に合図した。「魔法剣士はどこに隠れているんだ? なんという場所だ?」
マクシミリアンは答えなかった。いや、答えられなかった。ロープが締まり、両手がギリギリとねじれ、足が床から浮き上がった。マクシミリアンの悲鳴は、すぐに途切れた。リエンヌが魔法でマクシミリアンの喉をふさいだからだ。
「もっと上げろ」リエンヌは腰に手を当てながら言った。「いいか、マクシミリアン、俺は魔法でおまえの頭の中を探ることもできる。疲れるからやらないだけだ。それに、痛みで目玉が飛び出るところを見るのはおもしろい。まあいい、いずれおまえは全てを話すことになる」
そうなりそうだ ー 足首にくくりつけられたロープがピンと張り、石炭入りのバケツが床に擦れて音を立てた途端、マクシミリアンは観念した。と、そのとき ー
「親方」ランタンを持った男が灯りをマントで覆い、豚小屋の扉の隙間から外をうかがった。「誰か来ます。女のようです」
「言われたとおりにやれ」リエンヌが囁いた。「灯りを消せ」
男がロープを放した途端、マクシミリアンはドサリと床に落ちた。倒れた角度から、ランタン男が扉の脇に立ち、刃の長い刀を持った男が反対側で待ち構えるのが見えた。板の隙間から宿の明かりが差し込み、歌声や騒ぎ声が聞こえる。
豚小屋の扉がキーッと開き、小柄な人影が現れた。マントを羽織り、ぴったりした円い縁なし帽子をかぶっている。人影は一瞬躊躇い、足を踏み入れた。ロープ男が飛びかかり、影の喉元を狙って思い切り刀を振りおろした。だが、刃は空を切り、男はガクンと膝をついた。まるで煙を切りつけたかのように。事実、人影は煙の塊で、すでに消えていた。影が完全に消える寸前、別の人影が豚小屋に飛び込んだ。暗闇に紛れてよく見えないが、イタチのようにすばしこい。人影がランタン男にマントを投げつけ、ロープ男に飛びかかった。手に光るものを握っている。次の瞬間、ロープ男のあえぎと、グッと喉が詰まった声が聞こえた。ランタン男がマントをかなぐり捨て、飛び上がっ刀を振りおろした途端、黒い人影から稲妻がシュッと飛び出し、ランタン男の顔と胸を直撃したかと思うと、火のついた油のように身体中に燃え広がった。耳をつんざくような悲鳴が上がり、肉の焼ける、いや、焦げるいやなにおいが豚小屋にたちこめた
リエンヌが反撃に出た。リエンヌの投げた魔法が青く光って暗闇を照らし、男装した細身の女の姿がはっきり見えた。女が両手で奇妙な形を作ると、青い光はパンという音と目を眩むような閃光とともに消えた。リエンヌは押し倒され、豚小屋の木の壁に激しく倒れ込んだ。壁がバキッと割れ、リエンヌは怒りのうめきを上げた。男装の女が小剣をひらめかせ、リエンヌに飛びかかった瞬間、空中に眩しく光る楕円の《
「助けて! 助けてくれ!」
「わめかないで、マクシミリアン」女はかたわらに膝をつき、小剣でロープの結び目を切った。
「パトリツィア? きみなのか?」
「わたしの顔を忘れたとは言わせないわよ。それに、音楽家の耳が私の声を忘れるはずないでしょう。 立てる? 折れてないわよね?」
マクシミリアンはよろよろと立ち上がり、痛む肩を伸ばしてうめくと、床に転がったふたりの男を指さした。
「どうする?」
「調べてみるわ」パトリツィアはカチッと小剣をしまった。「ひとりはまだ生きているはずよ。ニ、三、聞きたいことがあるわ」
「こっちはまだ生きてるかもしれないな」マクシミリアンはロープ男を見おろした。
「どうかしら」そっけない口調だ。「気管と頸動脈を切断したから、呟くくらいはできるかもしれないけど、もう長くはないはずよ」
マクシミリアンは身震いした。
「喉を、掻き切ったのか?」
「虫の知らせがしたの。最初に幻影を送りこんでいなかったら、今頃そこに転がってるのはわたしの方だったかもしれない。もうひとりの方は………おやまあ ー 立派な体格のくせに、あのくらいも耐えられないなんて。残念だわ ー 」
「こっちも死んでるのか?」
「ショックに耐えられなかったみたいね。殺さないくらいに調整したはずなんだけど、やっぱり難しいわね。いや、こいつらが弱すぎるのよ。見て、歯まで焦げてる ー どうしたの、マクシミリアン? 気分でも悪い?」
「ああ」マクシミリアンはもごもごと呟き、身体を折り曲げて豚小屋の壁に額を押しつけた。
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