第5話

「ちょいと、吟遊詩人の旦那」女将のラントリエがヒヤシンスと汗とビールと燻製豚肉のにおいを漂わせながらノックもせずに部屋に入ってきた。「お客さんよ。どうぞ、ご貴族様」

 マクシミリアンが髪を撫で付け、彫り物のある大きな肘掛け椅子の上で姿勢を正すと、膝に座っていたふたりの少女が飛び上がって身体を隠し、乱れた服を引き下ろした。『娼婦のつつしみ』か………ふむ、バラッドの題材としては悪くない。マクシミリアンは立ち上がって腰帯を締め、胴着を引っ張りながら戸口に立つ男を見つめた。

「やれやれ、よくここがわかったな。幸運な人だ。もう少しでぼくはふたりのどちらかを選ぶところだった。さすがにふたりぶんは払えないからね、ラントリエ」

 ラントリエが気の毒そうに微笑んで両手を打ち鳴らすと、ふたりの娘 ー 色白でそばかすのある内陸人と黒髪のハーフエルフ ー は素早く部屋を出ていった。戸口の男はマントを脱ぎ、小ぶりだが、良く膨らんだ財布と一緒に女将に渡した。

「お許しください、親方」男はテーブルに近づき、くつろいだ態度で呼びかけた。「お邪魔だとは思ったのですが、気がついたら樫の木の下からいなくなってしまわれたので…本街道を追っても見つからず、この小さな街で足取りが絶えるとすれば、おそらくここではないかと……。決してお時間は取らせません ー 」

「皆そう言うが、本当だったためしはない」言いながらマクシミリアンは腰を下ろした。「ふたりにしてくれ、ラントリエ。しばらく誰も通さないでくれ。さて、ご用件は?」

 マクシミリアンは男をじっと見つめた。涙を溜めているかのように潤んだ黒い目。尖った鼻。薄い、醜い唇。 

「単刀直入に申し上げます」女将が扉を閉めるのを待って男が言った。「あなたのバラッドに興味を引かれました。正確には、歌の中に登場した人物に。バラッドに出てきた英雄たちの本当の運命が知りたいのです。私の勘違いでなければ、樫の木の下で聴いた美しい作品は、実在する人物が元になっているんでしょう? 私が知りたいのは………シェロナ国の少女ディアのことです。 ヨアンナ女王の孫娘の」

 マクシミリアンはテーブルに指を打ちつけ、天井を見つめた。

「ご貴族殿」マクシミリアンが淡々と言った。「奇妙なことに興味をお持ちだな。実に奇妙な質問だ。どうやらあなたは、ぼくが思ったような人物ではないらしい」

「どんな人物だと思われたのです?」

「さあね。あなたがぼくたち共通の友人からの言いづてを伝えるつもりなら話は別だが……… 最初にそうすべきだったのに、なぜかお忘れになったようだ」

「忘れたわけではありません」男はセピア色のビロード地のチュニックの胸ポケットに手を入れ、さっき女将に渡したものよりひと回り大きい、同じように膨らんだ財布を取り出すと、ガチャリとテーブルに置いた。「我々に共通の友人はいません、マクシミリアン親方。でも、そこはこの財布が埋め合わせできるはずです」

「しけた財布で何を買うつもりだ?」マクシミリアンは不満気に口を尖らせた。「ラントリエの売春宿と敷地全部か?」

「芸術を ー 芸術家を ー 援助したいのです。その作品について語り合うために」

「それほど芸術を愛しているのか? 芸術家と話すことがそんなに重要か? 基本的な礼儀も忘れ、自己紹介もせずにカネを押しつけるほど?」

「会話を始めたときは」 ー 男は黒い目をかすかに細め ー 「私が誰か、気にもしなかったではありませんか?」

「今気になってきた」

「隠すほどの者ではありません」男は薄い唇に微笑みを浮かべた。「リエンヌと呼ばれている者です。ご存じないのも当然です、マクシミリアン親方。あなたはとても有名な方だ。崇拝者のひとりひとりを知っているはずがない。でも、あなたの崇拝者は皆、あなたを友人のように感じ、ある程度の気安さは許されると思い込むのです。私も例外ではありません。誤解だとは分かっています。どうか寛容なる心でお許しください」

「寛容なる心で許すとしよう」

「では、質問に答えて ー 」

「いや! 断る」マクシミリアンは気取ったような口調で相手の言葉をさえぎった。「今度はあなた・・・の寛容なる心でぼく・・を許してもらいたい。ぼくは作品について ー インスピレーションの出所、登場人物、架空か真実かについて ー は語らない主義だ。それを話すと、作品の詩的な雰囲気が消え、陳腐なものになってしまう」

「そうでしょうか?」

「そうだよ。例えば、粉屋の陽気な妻のバラッドを歌うとしよう。もし、“これは実は粉屋のレータの妻キャヴィンテのことで、キャヴィンテは夫が市場へ行く木曜日には誰とでも寝る”と言ったら、それはもう詩ではない。ただの下劣な中傷だ」

「ああ、なるほど」すかさずリエンヌが相づちを打った。「でも、それは極端な例でしょう。私は他人の過ちや罪に興味はない。私の質問に答えても、誰かを中傷することにはなりません。知りたいのは小さな事実です。シェロナ国女王の孫娘ディアが本当はどうなったのか。街が包囲されたときに殺されたというのが、専らの噂です。目撃者の証言もある。でも、バラッドを聴くと、どうやら娘は生きているらしい。これがあなたの想像の産物なのか、それとも真実なのか、知りたいのはそこです。真実か、それとも嘘か?」

「そこまで興味を持っていただけるとは感激だ」マクシミリアンはニッコリ笑った。「笑うかもしれないが、それこそ、ぼくがバラッドを作る目的だよ、見知らぬご貴族殿。聴き手を興奮させ、好奇心をかきたてることが、ぼくの望みだ」

「本当か、嘘か?」リエンヌが冷ややかな声で繰り返した。

「それを言ったら作品の衝撃がなくなってしまう。ごきげんよう、友よ。これ以上はお相手できない。ぼくにインスピレーションを与えてくれるふたりの娘が外で待っている ー ぼくがどっちを選ぶだろうとそわしわしながらね」

 リエンヌは黙り込み、なかなか去ろうとしなかった。冷たい、潤んだ目で見つめられ、マクシミリアンは急に不安になった。売春宿の大部屋から楽しげな声が聞こえ、時折女の甲高い笑い声が響く。マクシミリアンは顔を背け、相手を見下すような、傲慢な態度を装いながら、部屋の隅までの距離を目測した。部屋の奥の壁には、水差しの水を胸に浴びるニンフを描いたタペストリーがかかっている。

「親方」リエンヌが片手をセピア色のチュニックのポケットに忍ばせた。「教えてほしい。お願いです。どうしても答えが知りたい。とても重要なことだ。おそらく、あなたに

とっても。あなたが自分から答えたら ー 」

「答えたら?」

 リエンヌの薄い唇に恐ろしげな笑みが広がった。

「無理に口を割らせる手間が省ける」

「いいか、よく聞け、この悪党め」マクシミリアンは立ち上がり、すごんでみせた。「暴力や力づくは嫌いだが、今すぐラントリエを呼んで、グラジオを連れてくることもできる。売春宿の用心棒という、誇り高く責任ある任務を果たす男で、その道の達人だ。グラジオに尻を蹴られたら、屋根を越えて吹き飛ばされると思え。その時間に空を見上げた人々は、白鳥座と見間違うかもしれないな」

 リエンヌが素早く動き、手の中で何かが光った。

「女将を呼ぶ時間があると思うか?」

 マクシミリアンは確かめるつもりもなければ、待つつもりもなかった。リエンヌが小剣を握る寸前、彼は部屋の済にかかるニンフのタペストリーの裏に飛び込むと、隠し扉を蹴り開け、古びた手すりを掴んで巧みに向きを変えながら、螺旋階段を猛スピードで滑るように降り始めた。リエンヌが追ってきたが、詩人は高を括っていた ー 秘密の抜け道のことなら隅から隅まで知っている。金貸し、嫉妬深い夫、韻や旋律を盗まれて劣化のごとく起こったライバ吟遊詩人たちから逃げるため、これまで数え切れないほど利用してきた。階段を三周まわると回転扉に手が届く。そこを開けると、地下室に通じる梯子がある。それを知らない追っ手は途中で止まれず、そのまま階段を降りて落とし戸を踏み、豚小屋に落ちる。追っ手は痣だらけになり、フンにまみれ、豚につつかれ、追跡を諦めるという寸法だ。 

 だが、予想は見事に外れた。突然、背後で青いものが光り、両手両脚が痺れた。感覚が麻痺して動けない。脚が言うことをきかず、回転扉に近づいても速度を落とせない。マクシミリアンは叫びながら階段をゴロゴロと転がり落ち、狭い通路の壁にぶつかった。そのとたん、足元の落とし戸が乾いた音を立てて開き、マクシミリアンは暗闇と悪臭の中に転げ落ちた。そして汚れた床に頭をぶつけ、意識を失う前に、ふと思い出した。そういえば女将のラントリエが言っていた ー “今豚小屋を改修中なのよ”。

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