第七章 鬼と猿の戦い・序章
長浜城に到着した秀吉は、これから行く清州城での会議について、官兵衛から進言を受けていた。
「殿。清州城で行われる会議では、殿には発言権がそうでございますな・・・柴田殿同等にありまするぞ」
「真か!」
「主君の仇を討ったのです。家臣の鑑ではありませぬか」
「なるほどの」
官兵衛は少し間を置くと、秀吉の耳元で囁いた。
「三法師様を擁立するのです」
「何じゃと!?三法師様は儂が養育係を任されておる。そのようなことをしてはあの鬼柴田から織田家を乗っ取ろうとしていると謀反の疑いをかけられてもおかしくはない。どういうつもりなのじゃ官兵衛」
「養育係を殿が任せられていることと三法師様が家督を継ぐことは繋がりまするが、殿が織田家を乗っ取ろうとしていると思われることはないでしょう」
「何故じゃ?」
「おそらく柴田勝家は家臣の筆頭であるという立場を利用して、かの藤原氏の摂関政治のようなことをなさる気でいましょう。そうすれば、あの柴田勝家ならそのことだけに集中し、殿のことなど気にも止めますまい」
「何じゃと!?」
「それを阻止するという名目で、柴田勝家の知らない所で動く分には何一つとして不具合はないと思いまするが。第一、仮に殿が信長様の跡を無理矢理継いだところで、志半ばでこの世を去ってしまわれた信長様の仇を討ったのは殿でございます。これはどうなろうと変わらぬ事実。柴田勝家は、上杉に足止めを食らったとほざいておりましたが、殿だって中国方面軍として毛利戦に使われていた筈。その殿が光秀めを討ったのです。柴田勝家も北陸方面軍司令官として上杉と戦っていた、という言い訳などは成り立ちませぬ」
官兵衛の目には光が無いわけではなかったが、物凄く少なかった。秀吉は、その暗い闇を纏ったような目に、恐怖を覚えた。
秀吉は我に返り、考えた。今の官兵衛の目は、官兵衛が秀吉の与力として織田家に従い始めた頃から秀吉が見てきた、軍略を考えているときの官兵衛の目であった。
「今の殿は、織田家の中で最も位が高いと言っても良いのです」
「では、どうすればよいのじゃ、官兵衛」
「先程申したばかりではありませぬか。三法師様を擁立なされませ、と」
「三法師様を!?正気で言っておったのか!?」
「とはいえ、他に継げる者は居りますまい。何故なら、織田家の家督は既に信忠様に譲られておりました。武家は嫡流が継ぐのが筋。つまり、織田家の家督を継ぐべきなのは、三法師様でございます」
「とはいっても、三法師様はまだ子供であるぞ」
「子供であっても、子供でなくとも、織田家臣団の筆頭が生きていれば問題は無いと思いまするが」
「なるほど、あの鬼柴田が居れば三法師様が子供であってもなんら支障はないな。だが、あの鬼柴田に摂関政治のようなことをさせないのがお主の狙いではなかったか?」
「殿は三法師様の養育を信長様から任されておりました。三法師様が当主になるのに、殿が政治の助言も出来ぬとあらば、それ以上に八徳のない話はございませぬ」
「なるほどの」
「丹羽長秀様、柴田勝家と並び、三法師様をお支えくだされ」
「なるほど。よく分かった。では、清州城に参るとしよう」
「ご無事で」
「何、跡継ぎを決める会議だけで死んだとあらばそれは羽柴の恥晒しと後の世まで言うが良いわ」
官兵衛は秀吉に対して何も言うことが出来なかった。
秀吉が清州城に着くと、秀吉が思っていたよりも信長が死んだことによる騒がしさはなかった。
「羽柴筑前守秀吉にござる」
秀吉がそう言うと、門兵が入っていった。
門兵が出てくると、秀吉は清州城内に入っていった。
「これで、皆揃いましたかな」
「柴田殿。滝川殿はどうされたのですか。お姿が見えませぬが」
信長の乳兄弟である池田恒興が尋ねた。
「ああ、滝川殿は真田昌幸らを従えて北条攻めにかかっていたのだが、まんまと返り討ちにあってな。粛清しておる。では、気を取り直して、始めまするぞ」
まるで、これからの織田家は自分が仕切るというように柴田勝家が最初に口を開いた。
「さて。織田家の家督をどうされるかだが、年功序列で行くのであれば信雄様がよろしかろう、と」
「皆がそう申すのであれば、この不肖信雄、父の成し得なかった・・・・・・」
織田信雄が身を乗り出して言った。
「ですが、信雄様は凡庸が過ぎまする。例え年長者と言っても、信長様から一度縁を切られかけてございます。そのような者に家督を継がれても、草葉の陰にいる信長様は喜ぶことはございますまい」
「これ、勝家!無礼であるぞ!」
織田信雄が激昂した。
「まあまあ、信雄殿。まだそうと決まったわけではございませぬ。どうか、収まってくだされ」
「う、ううむ」
流石に信長の乳兄弟である池田恒興を敵に回してはまずいと考えた織田信雄が、渋々自分の席に戻った。
「それ故、その弟である信孝様が宜しいかと。どうかの、丹羽殿、池田殿」
「儂もそう思いまする」
丹羽長秀が言った。
「私は織田家の血筋の者であれば誰でも」
池田恒興が外方を向きながら、柴田勝家の言うことなど軽くあしらうように言った。
「お待ちを!」
その流れを止めたのは秀吉であった。
「お主はこの中では新参者に近い。黙っておれ」
柴田勝家が苛烈な判断を下した。
「柴田殿。それはあまりに酷いのではございませぬか?羽柴殿は我が主君、信長様と信忠様の仇を討ってくださったのじゃぞ」
丹羽長秀が秀吉を援護した。
「それは家臣として当然のこと」
柴田勝家が丹羽長秀の意見に反論し、虚勢を張った。
「当然か。確かにそうですな。ならば、仇討ちは柴田殿、家臣団筆頭である貴殿の役目ではないのかな」
「うっ」
「上杉に苦戦していたというのは理由になりませぬぞ」
「ちっ。良い、筑前。申せ」
柴田勝家が苦い顔をしながら舌打ちをして、秀吉の意見を聞いた。
「皆様方、この会議は織田家の跡継ぎを決める会議だった筈ですよね?」
「何を知れた事を」
柴田勝家が、秀吉の話に食いついた。
「ならば、信長様の跡ではなく、信忠様の跡ではないのですか?」
「おお」
「そういえば」
「何じゃと!?」
秀吉の言葉に織田家の重臣連が目を見開いた。
「故、信忠様の遺児である三法師様が当主には適任かと」
「成程。儂は賛成じゃ」
「いやあ、三法師様のことを忘れておったとは、この恒興、迂闊であった」
丹羽長秀と池田恒興が、秀吉の意見に同調した。
だが、柴田勝家のみ、秀吉の提案を良しとしなかった。
「ば、馬鹿な!斯様な子供に一体何ができると」
「柴田殿、柴田殿。三法師様が当主になったとしても、家臣団筆頭である貴殿が三法師様に助言されればよろしいのでは?」
「うっ」
こうして、会議は秀吉の、いや、官兵衛の思惑通りに進んだ。
「では、跡継ぎの件はこれで終いですな。して、次は領地分配に入りまするぞ」
秀吉が重臣連に向かって文句は無いな、という目で言った。
「信雄様には、信忠様の旧領から尾張国を、信孝様には同じく信忠様の旧領から美濃国を与える」
「尾張をまるまるか!」
当主になれなかった不満を、信雄はこの一言で忘れた。
「して、山崎の合戦にて・・・・・・」
「待たれよ、筑前殿」
丹羽長秀が話題を変えようとする秀吉を止めた。
「そなたは信長様の四男である秀勝様を養子としておられる。何故に秀勝様に領地分配をしないのでござろうか。他家の姓を継いでいるからという理由であるのであれば、北畠家の姓を継いでいる信雄様や神戸家の姓を継いでいる信孝様もご遠慮なさるべきと存ずるが」
「かたじけなし。では、我が養子、秀勝に光秀の旧領、丹波一国を頂戴したい。では、丹羽長秀殿には本領安堵の上、近江二群を加え、池田恒興殿には本領安堵に摂津三群を」
「ありがたし」
「何と」
丹羽長秀と池田恒興は秀吉による思い切った加増に歓喜した。
「柴田勝家殿は、本領安堵」
柴田勝家は、己は微塵も領地を増やされなかったことに驚愕した。
「滝川一益殿は甲斐信濃を召し上げ、北伊勢のみといたす」
今回の会議に出席すら許されなかった滝川一益は、信長から与えられた秀吉に匹敵する領地のその殆どを奪われた。
「最後に私めは、山城一国を新たに加増して頂くことと致します」
「如何に山城国が政治の要衝とはいえ、過小ではないか」
池田恒興が口を挟んだ。
山城は都を含む中央であるが、国土面積はかなり小さい。更に公家連中や寺社仏閣の所領が数多く存在し、実質の加増は摂津半国にも及ばなかった。
主君の仇討ちの功労者の加増にしては、あまりにも少なすぎた。
「いえいえ。これだけの条件は譲れませぬ。私は、我が養子である秀勝の分に丹波一国も加増していただいております。これ以上望んでは、釣合に欠けましょうほどに」
頑として秀吉は、これ以上の条件を望まなかった。
丹羽長秀、池田恒興が不思議そうに顔を見合い、ため息をついた。
「領地分配については、それで良い」
柴田勝家が苦い顔をして言った。
「確かに、儂は光秀討伐には関わっていないのだからの」
秀吉を睨みつけながら、柴田勝家が言った。
「ただ一つ、安土におられる三法師様のお世話をするには北ノ庄城では遠すぎる。織田家臣の筆頭として、上杉の抑えは当然のこと、三法師様の傅育も重要な任務。それ故、北国から近江への出口である長浜を頂きたい」
柴田勝家が秀吉の居城を所望した。勿論、城のみを欲しがったのではない。秀吉の本領である長浜十二万石をよこせといったのだ。
「権六、それは出来ぬ相談ぞ」
あまりの驚きに、丹羽長秀が柴田勝家を幼名で呼んだ。
「良いな、筑前」
柴田勝家が丹羽長秀を無視して言った。
今の秀吉は、腸が煮えくり返っていた。だが、はいと言うしかなかった。そう言わなければ、これまでのいい流れが台無しになってしまうからである。
「・・・・・・わかりました」
だが、流石に一方的にやられるような秀吉ではない。秀吉は、柴田勝家の長浜ぶんどりに条件をつけた。
「勝家殿の織田家への忠節、感じ入った。ただし、長浜城主を柴田勝豊殿にお願いしたい」
秀吉は柴田勝家本人ではなく、その養子の勝豊を命じた。
「何故に勝豊なのだ」
柴田勝家が不思議がった。それに対して秀吉が説明した。
「明智光秀謀反の知らせが届いた時、勝豊殿は長浜まで来ていたという。戦は一番乗りが功。長浜を領する資格はあると」
だが、柴田勝家は秀吉の条件を飲まなかった。
「勝豊に一城を治められる力量はない。勝政にさせる」
「権六!これ以上は儂が許さぬ!何の功も上げていないお主には、長浜は大きすぎよう」
丹羽長秀が柴田勝家を責めた。
「良いな、筑前」
柴田勝家が丹羽長秀を無視して言った。
「はっ」
秀吉のものすごく短い一言で、この会議は終わった。
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