第六章 大出世

「殿、ご運の開け給うときでござる」

「何じゃと、官兵衛」

 秀吉は呆気にとられたように官兵衛を見つめる。

「か、官兵衛、お主、何と申した」

「今こそ、ご運の開け給うときでござる」

「ご運の開け給うとき、か」

 秀吉は覚醒めたように立ち上がり、陣営に戻っていった。

「今こそ、逆賊、明智日向守光秀を討ち果たし、信長様の仇を取る。皆の者、大義というものがあるのなら、心して儂について参れ」

 家臣、兵士たち共に勝鬨をあげ、仇討ちの戦のための準備に取り掛かった。

「新右衛門、居るか」

「はっ、只今」

「変の事を絶対に毛利方に知らせるでないぞ」

「はっ」

 そう言うと、官兵衛は歩き出した。

「殿、どこへ行かれるのです」

 竹森新右衛門が尋ねた。

「安国寺恵瓊殿の元へ行くのじゃ」

「げえっ」

 安国寺恵瓊は毛利家お抱えの僧侶である。驚くのも当然であった。

「毛利方に知らせないのではなかったのですか」

「毛利には知られても良いのだ。だが、毛利方に知られたとあらば、毛利方には小領主共も含まれる。それを考えると」

「なるほど。今まで信長様ありきで織田家に従っていた者たちが次々と毛利方に寝返るか」

「そうじゃ。そうなっては、羽柴軍どころか織田家全体が危うくなる。それは避けたいことじゃ」

「はっ。行ってらっしゃいませ」

「ん。秀吉様への連絡は頼んだぞ」

「はっ」

 官兵衛は安国寺恵瓊のいる寺に向かって歩き出した。

「恵瓊殿、安国寺恵瓊殿よ。居られるか」

 野太い声がし、奥から橙と赤い布でできた袈裟を纏った僧侶が速歩きで出てきた。

「どこの御仁かの」

「はっ。羽柴秀吉が家臣、黒田勘解由次官官兵衛孝高にござる」

「『かげゆのすけ』ということは、従五位の位を朝廷から授かっておるのか」

「いえ、先祖代々、勘解由次官を名乗っておるのです」

「なるほど。して、その黒田官兵衛殿が何用かな」

「はっ。織田信長様が、山城国本能寺にてお討死されたと」

「なんと。もしや、羽柴殿はその仇を討つため、この備中高松城から撤退したいということかな」

「如何にも」

「しかし、本能寺で討たれるとはの。謀反か襲撃か」

「はっ。明智日向守光秀の謀反と聞いておりまする」

「なんと。明智光秀とな」

 安国寺恵瓊は驚いたように飯を食べていた口が止まり、茶碗を一旦置いた。

「明智殿といえば、信長殿から重きを置かれ、途中から仕え始めたにしては織田四天王という家臣の頂点に立っていた。何故謀反などと。時代の読めぬ輩じゃ」

「誠にそうですな」

 安国寺恵瓊は明智光秀への不満を言い始めた。

「今、天下が信長殿のもとに集まろうとしている今、その家臣である己が謀反を起こしてその天下人となろうとしている者を殺すとは。しかも城に籠もるなどして抵抗する意志を見せ、戦で討ち取るのならまだ良いが、いかに下剋上の世といえど主君が宿に泊まっているところを襲撃して討ち取るなどとんでもない」

「あの者の天下は長くは続かないでしょうな」

「して、信長殿が討ち取られたから、秀吉殿は撤退したい。それに、毛利家は何をすれば良いのかな」

 安国寺恵瓊が尋ねた。

「備中国、備後国、美作国、伯耆国、出雲国はお譲りいたします故、せめて清水宗治殿だけは助命をお願いしたい」

「いや、我が主君、羽柴秀吉は清水宗治の切腹を望んでおられる」

「なんと」

「できれば五カ国も割譲した上で」

「撤退いたしたいのであろう」

「そうですな」

「清水殿にお話して参る。少々のお待ちを」

「かたじけなき」

 安国寺恵瓊は備中高松城に入ると、清水宗治と会見した。

「清水宗治殿。この備中高松城を囲んでおる羽柴秀吉殿は貴殿の切腹を条件に和睦、撤退いたしたいとのお考えと黒田官兵衛殿からお聞きした」

 清水宗治は命乞いなどしようともせず、安国寺恵瓊に尋ねた。

「城兵の命はお救いくださるのであろうな」

「それくらいはいたしますでしょう。鳥取城の城兵も吉川経家殿の切腹を条件に助命したほどでござる。それで備中高松城の城兵のみ助けないことはございますまい」

「そうか。和睦ということは毛利家は攻撃されないのだな」

「多分、としか言いようがありませぬがな」

「主家である毛利家と城兵の命が助かるのなら某の首など容易きこと」

 清水宗治は翌日、小舟に乗り、切腹した。

 それを見届けた秀吉らは、明智光秀のいる山城国へと急いだ。

「よし、官兵衛よ。明智光秀は山崎で討つ。もし光秀に負けたら、上様の後を追って自刃する。心して儂について参れ」

「はっ」

「儂はな、光秀を討つ。そのためには、お主の鬼神の如し策を教えてほしい」

「はっ。天王山を陣取るのがよろしいかと」

「天王山、確かにこの戦の要じゃな」

「いえ、戦の要は天王山ではございませぬ」

「何っ」

「光秀は今までの固定概念に囚われておりまする。おそらく、光秀も天王山がこの戦の要だと読んでおりましょう」

「そうであろうな」

「我らが本気で天王山を取ろうとしていると思わせるためには、天王山に中川清秀殿を置くがよろしいかと」

「なるほど。中川殿は勇猛な武将じゃからな。勇猛な武将を置くことで、取られたくないと思っているように見せるということか」

「そのとおりでございます」

「しかし、中川殿を配置したところで、その後はどうするのだ」

「はっ。明智の者共が天王山に攻めかかったところで中川殿には天王山を下山していただきます」

「ほう」

「そして、光秀の軍が呆気にとられているところで下から堀殿に麓から攻めていただきます。これは中川殿と合流してからですな」

「なぜ麓からの方が良いのだ」

「山に陣取った敵は敵を殺すことより己が山から落ちないかどうかを心配いたすもの。それ故、自然と攻撃をする力が弱まるのです。それに比べ、下から攻撃する方は己は大地に支えられており、足場が不安定ではございませぬ。全力で攻撃することができるのです」

「なるほどの」

「いかがでしょうか」

「よし、かかれ」

「はっ」

 中川清秀は天王山に陣取り、明智軍を精一杯挑発した。

「小癪な。かかれぇ!」

「来おった来おった」

 中川清秀は明智軍をできる限り引きつけた。

 明智軍で天王山を奪いに来た藤田行政は、中川清秀が天王山から下山していくのを見て、そこを追撃し壊滅させた上で天王山を奪取しようと考えた。

 だが、下山した中川清秀の軍勢は、すぐに麓にいた堀秀政の軍と合流した。

「中川殿を死なせるな」

 堀秀政が大声で叫び、中川清秀の軍を迎え入れた。

 山頂でどっしりと構えていた藤田行政は、堀軍の動きを不審に思った。

 そして、堀軍の中に中川軍の軍旗があるのを見ると、目を丸くして驚いた。また、攻撃命令を出した。

 藤田行政は官兵衛の策にまんまと嵌った。

 藤田行政は追い詰められ、やむなく下山、野戦となった。

 だが、麓からの追撃で藤田行政は多くの兵を失っている。今更、野戦に戦い方を変えたところで、堀、中川両軍に適う筈がなかった。

 藤田行政の軍は壊滅、藤田行政は明智軍の本陣に向かって逃げていったのである。明智光秀は目を丸くし、藤田行政に激怒した。

 この頃、秀吉は明智軍の本陣に向かって軍を進めていた。

「光秀を奇襲する。決して首を取ろうとするな。ここは生き残ることこそ武功ぞ。光秀は城の籠もったところを、城を落とし捕らえ、首を打てば良い。良いか、死ぬなよ」

 そして、秀吉は軍資金を取り出すと、兵たちに見せた。

「今からこの金をお前たちに配る。良いか、二度とるなよ」

「秀吉様、そのようなことをしては」

 官兵衛が止めに入ると、秀吉が制した。

「良いか、官兵衛。金は生きていればこそ使えるもの。死ねば六文で足りるのじゃ。しかもな、この者たちは決して金で雇われた者たちではない」

「そうなのですか」

「ああ、兵農分離によって兵士に選ばれた者たちじゃ。そのため、戦も上手い。下手に今配ったような金を使わずに戦に勝つことができる。じゃがな、戦で生活をしているかというと、そうではない。この者たちにはこの者たちの暮らしがある。つまりこれは生活費じゃ。侍ほどではないにしても、百姓も生活費が今のままでは足りん。年貢によって米などを少しばかり刈り取られるため、食生活も困る。食い物を商人から買おうとしても商人は利益が欲しいものじゃから高値で売る。高値で買うには金がいる。その金は今配っておる軍資金から払う。そして、商人の利益から少しばかりの税を取ってそれがまた我らの軍資金になる。金は天下の回り物じゃ。止めないでくれ」

「はっ!」

「まあ、これも信長様が考えたことじゃ。儂は殆ど信長様の受け売りに近いの」

「はあ」

「さ、光秀の軍も近いぞ。よしきた、かかれぇ!」

「おおおっ!」

 本陣にいた明智光秀は、羽柴軍の存在に気づいていなかった。

「光秀様、羽柴軍の追撃です」

「何っ。どこからじゃ」

「光秀様、後ろでございます」

「ん。真じゃ。守りを固めい!」

 光秀は焦っていた。

「できる限り打ち払え!鉄砲を射掛けよ!」

 そういった瞬間、今まで小雨であったのが急激に降り始めた。

「秀吉め。天まで味方につけおった。じゃがな、儂は今川義元のようにはいかぬぞ!藤田行政!」

「はっ」

「天王山を奪取できなかった罰じゃ。殿を任せる」

「は、はっ」

「撤退じゃ!」

 光秀は姻戚関係を結んでいる勝竜寺城の細川藤孝を頼り、撤退した。

「細川殿!入れてくれ!秀吉めに追撃されておるのじゃ」

 そう言うと、細川藤孝が出てきた。

「そこまで申すのであれば、光秀殿。貴殿にこの勝竜寺城は差し上げる。某は二条城にでも撤退いたす」

「何じゃと」

「貴殿のためだけに命は捨てとうない」

 細川藤孝はそう言うと、細川家の軍を引き連れ、撤退していった。

 そこに秀吉の軍が目前に迫ってきた。光秀は勝竜寺城に籠もった。

 秀吉は厳重に取り囲めと命令した。

「殿、お待ち下さい」

「厳重に取り囲まねば逃げられるぞ」

「それで良いのです。その代わりに、落ち武者狩りの者に光秀を見かけたら討ち取れ。討ち取って、羽柴陣まで首を持参いたした暁には、その者に金子を千枚ほどくれてやるとな」

「金子を千枚か。確かに、それなら死物狂いで光秀を討ち取ってくれるやもしれぬな。よし、では、南を開けよ!光秀は逃して構わぬ」

 秀吉は勝竜寺城を包囲した軍勢に南側の方位の緩和を命じた。

 そして、官兵衛の進言どおりに金子を千枚を褒美に光秀を討ち取ることを命じた。

 これに物凄く早く反応したのは小栗栖の落ち武者狩りの集団であった。

「金子が千枚あれば、落ち武者狩りに使える新しい武器も買えるぞ!今使っている竹槍よりももっと良い武器が手に入るかもしれない」

 小栗栖の落ち武者狩りの集団は興奮した。

 その頃、勝竜寺城では南側の包囲が薄いことに関して、軍議が開かれていた。

「光秀様、只今羽柴軍のこの城に対しての包囲が、南側が緩和されておりまする」

「何っ。くそお秀吉め、情けをかけてやるということか!儂に対する精一杯の侮蔑じゃ!」

「しかし、今死んでしまっては光秀様は天下を取れませぬぞ!」

「もうこうなってしまっては天下は取れまい。儂は潔く散るといたす」

「そんな」

「さらばじゃ」

「ですが、秀吉殿にも義というものはある筈。必ず我らをお救いくださると思うのですが」

「一縷の望みにかけてみるか」

「はっ」

 この夜、光秀は勝竜寺城を抜け出し、夜の森を駆け抜けた。

「明智光秀だな」

 明智光秀が振り向くと、そこには竹槍を持った落ち武者狩りの集団が明智光秀を取り囲んでいた。

「謀反人、明智光秀。羽柴秀吉殿の命により、御命頂戴!」

 明智光秀は家臣である溝尾茂朝と共に落ち武者狩りの集団に徹底抗戦したが、ついには力尽き、首を取られた。

 天下人と謳われた織田信長を討った武将も、小栗栖にて終わった。

「秀吉様、我が軍の戦死者の数を申し上げまする」

「申せ」

「三千三百人だそうです」

「多すぎる。また誰かと戦うこととなろう。その時にはなるべく戦わずして勝つぞ!」

「はっ!」

 秀吉は柴田勝家に召集され、居城である長浜城から柴田勝家らがいる清洲城に行く計画で、兵を進めた。

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