第五章 ご運の開け給うとき

 有岡の城を落とされた荒木村重は、尼崎城に撤退したが、そこからもすぐに逃亡、花隈城に逃亡した。

 一方、有岡の城を落とした秀吉は、松寿丸の件を詫びるため、信長のいる安土城に向かった。

「信長様、此度の松寿丸の件なのですが・・・」

「おお、秀吉。ちょうどよい。儂も今その話をしようとしていたところだ」

「すみませぬ。上様の命にも従わず、官兵衛の真実も確かめずに松寿丸を匿ったのは全てこの私の責任でございます。どのような罰でも構いませぬ故、どうか官兵衛のことはお許し願いたく」

「余も不明であった。よって、此度のことは不問とする」

 信長の判断に秀吉は胸をなでおろした。

「さて、秀吉とは別で儂からも官兵衛に褒美をやらねばならぬな」

 少し考えた秀吉は信長に一つ提案した。

「年頭の挨拶をお許しになられては」

 年頭の挨拶に来ることは直臣しか許されていない。官兵衛に年頭の挨拶を許すとは、官兵衛を織田家直属の家臣とすることであった。

「直臣の格を許すか。それが良かろう」

 信長は秀吉の提案を受理し、官兵衛に年頭の挨拶に来るよう命じた。

 播磨国の有馬から安土に戻った官兵衛は、年頭の挨拶に参加した。

 安土城を見た官兵衛は、その豪華絢爛さに驚いていた。

 信長が向く方には仏が説法をする図が、信長の背から廊下へと向かっていく壁と床には地獄絵図が描かれていた。

 信長に従う者には永久の安寧を、逆らう者には地獄を、との意味であった。

 柴田勝家、滝川一益、明智光秀、羽柴秀吉らきら星の如き武将を従わせている信長は、まさに神であった。

 官兵衛が座ると、その状態に秀吉、少し肥満気味の男、仏頂面の男以外が笑った。

 その将たちの態度に、信長は激怒した。

「皆、笑うでない。儂への忠義によって負った傷ぞ。笑うより先に官兵衛の忠義を見習え」

 官兵衛は、信長が庇ってくれたことに対して頭を下げた。

「家康、此度の戦の褒賞なのだが・・・」

 先程官兵衛を笑わなかった少し肥満気味の男が信長の前に行き、頭を下げた。

「此度の有岡攻めの褒賞、官兵衛じゃとは思わぬか」

「ははっ」

「お主も官兵衛と一度話してみるが良い」

 官兵衛の方を向いたその男は、官兵衛を見て挨拶した。

「徳川三河守家康でござる。武勇の話、暇があったら聞かせてほしい」

 そう言うと、信長の前から去り、廊下へと向かっていった。

「官兵衛、息子の松寿丸のこと、すまなかった。許せ」

「ははっ」

「して、松寿丸はいくつになった」

「はっ。十三にございます」

 意図のわからない質問に官兵衛は次々と答えていった。

「遅くはないの」

「はっ?」

「初陣を許す。播磨での戦いを見せてやれ」

「ありがたき幸せにございます」

 初陣を許されるということは、主君からの信頼を得たということである。途中から従い始めた武将にとって何よりの褒美であった。

「その代わり三木を落とせ」

「はっ」

 官兵衛はその場から去った。

「官兵衛殿」

「お初にお目にかかりまする。そなた様は?」

「ああ、申し遅れたの。明智日向守光秀じゃ」

「貴方様が」

 明智光秀はすぐに本題へと移った。

「有岡の城に囚われていた際、寝返りの誘いは来なかったのでございますか」

「ええ、毎日荒木摂津守殿が自ら誘いに来ましてございまする」

「ならば、なぜその誘いに乗らなかったのだ。いや、裏切れと申しているのではない。摂津守に従うふりをして、牢から出ていれば、そのような傷を負わずともすんだであろうに」

 言い訳は許さぬぞという目で明智光秀が問うた。

「うわべでも摂津守に頭を下げるのは我慢ならなかったのでございます。そう、いわば意地とでもいいましょうか」

「なんと、意地と申されるか」

「儂が参ったのを、それも降伏の軍使として参ったのを、このような身分なきものと同じ扱いをされたことには怒りしか感じませんでした」

「そうか、いや、足止めしてすまなかった」

 明智光秀に軽く礼をして、官兵衛は杖を突きながら体を傾けて去っていった。

「秀吉様、これでも落ちぬのであれば、鼠の出る隙間も無いよう、厳重に取り囲むことが肝要かと思われまする」  

 官兵衛の進言から、三木城は秀吉によって厳重に取り囲まれた。このことで、一気に三木城の士気は落ちた。この状態で何ヶ月かが経った。

 秀吉と官兵衛は、覚悟を決めよ、と米と酒樽に手紙を添えて三木城に差し入れた。

 別所長治は、親族や重臣を呼び寄せて、最後の盃を交わした。

「どれくらいぶりの飯であろうな」

 骨が浮き出たその顔、元々がっちりとしていたがほっそりとしてしまった体からは、生きている気配が感じられなかった。

「皆、食べたか」

 妻や子供たちが満足するまで酒を浴びるように飲んでいた別所長治が問うた。

「はい、父上」

 長男の千松丸が返事をした。

「では、参ろう。黄泉国には父上が待っておるぞ。のお、照子」

「はい」

 別所長治の正室の照子は、丹波の豪族の波多野秀治の娘である。波多野秀治は既に明智光秀率いる丹波征伐軍に滅ぼされ、一族は跡形も残らず処刑されていた。

「千松丸を叔父上の元へ頼む」

「長治様、裏切り者は根絶やしにするのが決まりではないのですか」

 妻の照子が問うた。

「ここで死ぬも、外で殺されるも死ぬことは一緒ではないか。ならば、一縷の望みに賭けてみようではないか」

 こう言って、別所長治は娘と竹松丸、照子を刺し殺し、己も自害して果てた。

 千松丸は、秀吉のはからいで別所重棟の元に引き取られた。

 三木城、有岡城が落ちたところに持ってきて、官兵衛に悪報が届いた。

 官兵衛の主君である小寺政職がまた寝返ったというのだ。だが、寝返った情報を即座に得た、書写山円教寺に陣を敷いていた信長の嫡男、織田信忠は、御着城を包囲し、小寺政職は孤立した。

「しまった」

 小寺政職は信長に臣従するとの書状を送ったが、相手にされなかった。

「そうじゃ、官兵衛から筑前守殿にとりなしてもらえば・・・」

 だが、官兵衛は小寺家からの使者を会おうともせず、追い返した。

「官兵衛め、放浪しておった黒田の家を拾ってやった恩を忘れおって」

 だが、ぼやいても時は待ってくれなかった。次の瞬間、包囲軍の方から鉄砲の音が鳴り響いた。

「儂は死にとうない」

 その夜、小寺政職は近臣数名を連れて、御着城から抜け出した。明け方、御着城は落城した。

 そのとき、官兵衛に吉報が届いた。

 荒木村重が毛利家を頼って逃亡し、有力な将が誰一人としていなかった花隈城が五ヶ月間も織田家の猛攻に耐え抜き、今回の攻撃でついに落城したというのだ。

「君君足らずとも臣臣足らざるべからずか」

 総大将の荒木村重に見捨てられたというのに、その後五ヶ月間も織田家の攻撃に耐え抜いた花隈城の兵士たちに官兵衛は感激した。

 それに比べて、御着城にいた小寺政職とその家臣は寝返ると宣言し城に立て籠もったにもかかわらず、織田家の攻撃が始まったら一矢も報いずに城を捨てて退散した。

 この頃、山名豊国の鳥取城は、織田軍の猛攻を受けて降伏、その家臣であった森下道誉、中村春続らは、吉川経家に降っていた。

「いったい何が違うのでござろうか」

 今の官兵衛に思案のときはなかった。

「官兵衛様、秀吉様が中国方面軍に任じられ、そろそろ始まるそうでございますぞ」

「わかった。新右衛門、秀吉様に官兵衛も参ると伝えてくれ」

「はっ」

「ついに始まったか・・・」

 官兵衛は、織田家の、いや、信長の天下は既に揺るぎないものであろうと確信していた。そのため、信長に従わない、あるいは信長に協力しない連中が何を考えているのかわからなかった。

 特に官兵衛が理解できないのが、各地で蜂起している一向一揆の連中と石山本願寺である。

 仏は殺生の戒律によって仏教徒は殺生をしてはいけないと定めている。武将は美辞麗句を並べたところで、所詮、人を殺すのが生業であるため仕方がない。やむを得ず殺生の戒律を破ることになるが、農民が一向一揆として領主に歯向かい、その家の兵を徒に死なせるのは違うと感じた。

 仏のもとで働くのが僧侶である。だが、今暴れているのは、あれはもう僧兵ではなく武士も同然であった。信長を仏敵と罵るのは勝手だが、そのことに夢中で、己が殺生の戒律を破り、仏敵になっていることに全く気づいていない。

「僧侶には教養があるものだと思いこんでおったわ」

 官兵衛は、元々僧侶であった。だが、そのような連中と一緒にされたくないという感情が生まれた。

「織田家に臣従している筒井順慶殿は一武将、それとも僧侶としてお仕えしているのでござろうか」

 官兵衛は、本拠地である筒井城周辺で勢力を伸ばしている石山本願寺の勢力に引っ張られず、織田家に臣従した筒井順慶を讃えた。

「だが、筒井順慶殿の父、筒井順昭殿は本願寺に降った筈。何故順慶殿は織田家に降ったのであろうか」

 官兵衛はこれ以上考えないようにした。

「官兵衛、遅いぞ!」

 秀吉が怒鳴るように官兵衛を呼び寄せた。

「申し訳ございませぬ。只今」

 秀吉は待っておったぞというように諸将を呼び寄せていた。

 秀吉は、官兵衛が床几に座ったのを確認すると、すぐに軍議を始めた。

「上様より鳥取城を落とせとの命が入った。そのため、鳥取城を攻めようと思うのだが、城主である吉川経家は猛将としてその名が知られておる。鳥取城を落とすには、真っ向勝負をしては必ずと言っていいほど負けるであろう。上様が直々にお出でになられれば兵たちの士気も上がり、上様の采配力で鳥取城など虫の息であろうが、上様がこの野猿だけのために直々にお出でになることはまず無いであろう。羽柴家の名を知らしめるにも、我が羽柴家の力だけで鳥取城を落とすことが肝要。じゃが、先程申したとおり、吉川経家は猛将として知られておる。真っ向勝負は負けに行くようなものじゃ。そのため、官兵衛よ」

「はっ」

「お主はなにか軍略はあるか」

「無きことはござらぬ」

「ということは、その策が通用しない可能性もあるということか」

「左様でございます」

「そうか、じゃがな、可能性を重視して戦もやれぬし、武将もやってられぬ。申してみよ、官兵衛」

「はっ。では、申し上げまする。宇喜多でござる」

「なんと」

「宇喜多じゃと」

 秀吉も驚いた。

「じゃが、官兵衛よ。宇喜多家当主である宇喜多直家殿は数年前にこの世を去ってしまった。しかも、その跡継ぎである八郎殿はまだ九つなのじゃぞ。とても、一族の長として家臣をまとめられるような年齢ではない。それこそ、吉川経家に侮られ、宇喜多家が滅び、信長様から咎めを受けるがおちぞ」

「秀吉様は、宇喜多様の弟君のことを忘れてしまわれたか」

「まさか、忠家殿のことか」

「如何にも」

「じゃが、忠家殿は一族の長ではない。家臣がついてくるか」

「秀家様の名目で連れてくればよろしかろう」

「なるほど」

「ですが、宇喜多の兵を徒に死なせるわけには参りません」

「何じゃと。では、官兵衛。お主の考案した策も、水の泡と化したということか」

「いえ、まだまだありまするぞ」

 官兵衛は秀吉が胸をさすったのを見ると、話を続けた。

「兵糧攻めでござる」

「兵糧攻めじゃと」

「某、お抱えの商人に命じ、鳥取城の兵糧を買い占めさせてありまする」

「ということは…」

「はい。鳥取城の米蔵は蛻の殻でございます」

「でかした!」

「さすがの猛将でも、兵糧がなければ、刃が立ちますまい」

「いや、よくやった。儂の知らぬうちにそのようなことを…いや、感心感心」

「勿体なきお言葉にございます」

 その頃、鳥取城に入城した吉川経家は、城兵から米蔵の状況を聞き、絶句した。

 その惨状を聞いた毛利輝元は、叔父で吉川経家の一族である吉川元春と、その弟の小早川隆景に兵糧の搬入を命じた。

 その情報をいち早く入手した官兵衛は、秀吉に吉川軍と小早川軍の兵糧の搬入の妨害を進言した。

「そうか、そうか。なるほどの。よし、吉川元春と小早川隆景の軍を妨害するのじゃ。決して鳥取城に寄せ付けるでないぞ!」

 この時から、秀吉は西から来る軍勢に睨みを効かせ、それが毛利軍であったら徹底的に迎撃し、撤退を余儀なくさせた。

 その状況を見て絶望した吉川経家は、降伏した。

 こればかりは、信長に条件を聞かざるを得なかった。

 信長は城主と主君に背いた者たちの切腹をもって、余人の命は助ける、ということを条件にした。

 主君に背いた者たちとは、元山名家臣である森下道誉、中村春続らのことである。

 これを承諾できないのは毛利方であった。当然である。一族である吉川経家、そして自分たちを頼ってきた森下、中村らを見捨てるわけにはいかなかったのだ。

 毛利輝元は信長の条件を却下し、突き返したが、信長は折れずにその条件を提示し続けた。

 それで毛利輝元は折れ、吉川経家と、森下道誉、中村春続ら、元山名家臣五名の切腹によって鳥取城は落ちた。

 次に信長から備中高松城を落とせとの命令が入った。

 そのため、秀吉は備中高松城の城主である清水宗治に織田方についたら自分の領地から何万石かをくれてやるとのこれ以上ない条件を提示したが、忠義や恩を忘れない清水宗治は頑なにそれを断り、毛利方につくことを宣言した。

 秀吉は渋々、備中高松城を攻めることになった。

「どういたす、官兵衛」

 官兵衛は有岡城が落城したときに兜に彫った「深龍水徹」の字を見て、なにか思い浮かんだかのように目を見開き、大声を上げた。

「低い、低いではないか」

「ど、どうしたのじゃ官兵衛」

 秀吉は官兵衛が狂いだしたのではないかと危惧した。

「かたじけなき、かたじけなきぞ半兵衛殿」

「どうしたと聞いておろう。どうしたのじゃ、官兵衛」

「殿、近くにある川に堤防を造り、それを破壊してくだされ」

「まさか」

「水攻めでござる」

「なるほど、確かに備中高松城は深くくぼんだ地にできておる。そこに水を流し、水没させる、ということか」

「左様でございます」

「よし、すぐに堤防づくりに取り掛かれ」

 秀吉によって、足守川に全面的に堤防が築かれ、合図を出せばいつでも備中高松城に水が流れ込むように仕組んだ。

 その少しあと、秀吉は堤防破壊の命令を出した。

 今まで堰き止められた水はものすごく蓄積されており、備中高松城に向かって流れ込んでいった水はあっという間に城を水没させた。

「よしよし、備中高松城も虫の息じゃ」

 備中高松城の落城を危惧した毛利輝元は、輝元本人だけでなく、吉川元春、小早川隆景ら有力諸将合わせて五万の兵を率いて援軍に来るとの知らせが、秀吉のもとに届いた。

「まずい」

 そして、もう一つの悲報が秀吉を襲った。

「殿、毛利の手の者が参りましてございます」

「何、毛利の者じゃと」

「はっ、小早川隆景の手の者と」

「小早川隆景…」

「どういたしましょう」

「通せ」

 秀吉は小早川隆景からの使者を陣営に呼び込むと、用件を尋ねた。

「して、小早川殿はなんと仰せなのじゃ」

「織田信長殿、山城国本能寺にて、明智光秀殿のご謀反に遭い、自刃したそうでござる」

 使者が秀吉に告げた。

「何じゃと、上様は儂が備中高松城落城のために援軍を要請した。その道中で討たれたじゃと。しかも明智日向守殿に…嘘じゃ」

「嘘は何一つ申し上げておりませぬ」

 秀吉が悲しみに暮れている中でも、使者は冷静を保っていた。

「して、用件はそれだけか」

 秀吉はそれだけを尋ねると、陣営を出ていった。

 秀吉は陣営の裏、誰も見ていない所で啜り泣きしていた。

「殿、ご運の開け給うときでござる」

 官兵衛は秀吉の横に座り、耳元に囁いた。

「何じゃと、官兵衛」

 月が入り、日が昇り、夜は更けようとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る