第四章 竹中半兵衛の死
三木城に到着した官兵衛は、阿閉城の別所重棟、上月城の戦いで少し毛利家に不信感を抱いた宇喜多直家の家臣、花房職秀も連れてきていた。
花房職秀は宇喜多家の名代として秀吉のもとに来た。
「お初にお目にかかります。宇喜多和泉守直家が家臣、花房若狭守職秀にございまする」
「そう堅苦しい真似はするな。宇喜多殿が織田家に従うとあれば、儂と宇喜多殿は同格。その家臣とあれば、我が家臣も同然じゃ。儂の家臣にはそのように遠くから物を伝える者はおらぬぞ」
「は、では、かたじけなく」
花房職秀は秀吉に近寄った。
「花房職秀。これを与える。これを宇喜多殿にお渡しせよ」
「これは・・・」
秀吉の愛刀である。主の刀というものは、血や汗を流しても手に入れるのが難しい品である。その刀を、降伏の軍使である己になんの条件もなく授かったのだ。
官兵衛は、あの頃の己を思い出し、あの頃の秀吉同様、花房職秀に助言した。
「職秀殿。遠慮はかえって無礼でござる」
「では、かたじけなく」
こうして、宇喜多直家は織田家の家臣となった。
だが、このことを広めるには時期尚早とされ、宇喜多直家も了承し、しばらく宇喜多直家の臣従を知るのは信長と秀吉、そして宇喜多直家の臣従に尽力した官兵衛と竹中半兵衛にとどめた。
そして、再び三木城攻めに移った。
秀吉が、一番不思議な点は、兵糧攻めを行っているのに、別所方の足軽の士気が下がらないことと言っていた。
荒木村重と合流した官兵衛は、なぜこの様になっているのかを話し合った。
「どこからか、兵糧が搬入されている・・・?」
「その可能性がありますな」
官兵衛の意見に、荒木村重が首肯した。
「もう少し厳重に取り囲むように、と秀吉様に伝えてまいります」
「おお、有り難い」
このようなときにに、信長でも信じられないことが起こった。
「馬鹿な」
「まさか」
三木城攻めで秀吉の元で戦っていた荒木村重が反旗を翻したのだ。
それに呼応して、摂津衆で高槻城主の高山右近、同じく摂津衆で茨木城主の中川清秀らが信長に歯向かった。
だが、それ以上に嫌な知らせが官兵衛を襲った。
官兵衛の主君であった小寺政職が毛利方に立つと宣言したのである。
官兵衛はこのようなことが二度とないよう、御着城に向かった。
「政職様。今更毛利に付かれてどうするのです。それは無謀としか言えませぬ」
「う、ううむ」
小寺政職が官兵衛に言いくるめられたように悩み、こう言った。
「わかった。小寺政職はこれからも変わることなく信長殿にお仕えするとお伝えしてくれ」
「はっ」
「どうじゃ、官兵衛。戦続きで疲れておるだろう。ここで少しゆるりとしていかぬか」
「そうしたいのはやまやまなのですが、こちらは今から有岡の城を攻めねばなりませぬ故、もう行かせていただきまする」
そう言って、官兵衛は小河三河守らをにらみながらその場を出ていった。
「殿。荒木摂津守殿が官兵衛を捕まえてくれと・・・」
小河三河守が小寺政職に問うた。
「何を言っておる。そのようなこと、摂津守が己でやればよいのだ」
「よろしいので」
「成功すればよいが、万が一失敗してみよ。織田の陣はすぐそこの書写山円教寺にあるのだぞ。攻められればこの御着の城など半日ももたぬ」
秀吉の陣に戻った官兵衛は、秀吉から許しを得て、降伏の軍使として有岡城に入った。
「村重様。黒田官兵衛が来ました」
「何?黒田官兵衛が?」
夕餉の湯漬けをかきこんでいた荒木村重が反応した。
「はい」
小寺政職がとっくに捕らえているもんだと思っていた荒木村重は、家臣に聞き返した。
「小寺政職め。己の家臣さえ抑えきれぬのか」
荒木村重は苦い顔をしながら官兵衛に会いに行った。
「おお、官兵衛殿。久しいの」
「摂津守様、単刀直入にお聞きしたいのですが・・・」
「おお」
「今回の突然の変心、何がござったのか」
荒木村重は少しの間官兵衛をにらむと口を開いた。
「お主が悪いのだ」
「ば、馬鹿を申されるな。この黒田官兵衛のどこが悪いと・・・」
官兵衛はこう言うと確信した。
「まさか、三木城に運ばれていた兵糧は・・・」
「そうよ、儂も家臣から聞いて耳を疑ったわ。いくら足軽とはいえ、我が城の者が金に目がくらんで本願寺に兵糧を流しておったときの衝撃がおわかりか」
官兵衛は思わずうなずいてしまった。
だが、官兵衛は一つ問うた。
「だが、それであれば信長様に詫びを入れれば命だけでも助けられるやも知れませぬ。しかも、摂津守様は本願寺においての重要な抑え。死罪は絶対にないでしょう」
「儂もな、一度はそうしようとしたのだ。だが、高槻城にて高山右近が止めてくれた」
「高山右近・・・愚かなことを」
「右近は申したのだ。このまま安土に行くは死地に身を投げ入れるようなものとな」
「信長様ほど切支丹に寛容なお方はおられぬのに」
官兵衛は、高山右近の行動に矛盾を感じた。
信長が切支丹を庇護する理由は長く政治に食い込んできた仏教勢力への牽制であることは明白であったが、それでも大きな庇護者であった。
「しかも、比叡山の焼き討ちしかり、伊勢長島の一向一揆しかり、信長のやることは鬼であるとは思わぬか」
「・・・・・・」
「聞いておられるのか」
焦れた荒木村重が怒鳴った。
「貴殿は加わられなかったの」
「何の話だ」
「比叡山の焼き討ち、伊勢長島の一向一揆戦には加わられなかったが、石山本願寺の鎮圧には加わられたはずじゃ」
「それは仕方なかろう。家臣は主君の言うことを聞くのが使命なのであるからな」
「なるほどの。では、今になって信長様のやったことを避難するのは間違いではござらぬのか」
「うっ」
「しかも、このまま信長様に従っていれば直臣お取り立ての上、淡路征伐の総大将になったやもしれぬのに」
「馬鹿を申すな。儂らは、力を合わせて信長という魔王と戦っているのでござる」
「僧侶の念仏はおやめくだされ。いや、子供の寝言でござるかな」
官兵衛は荒木村重の主張を切って捨てた。
「官兵衛殿よ。貴殿も信長に背くがよい。貴殿の主の小寺殿も大義に目覚められたではないか」
「もう諦めておりまするよ、小寺のことは」
官兵衛は小寺政職への敬称を変えた。
「儂がいないと毛利に近い将たちを招いて密談にふける。そして私が出向けば病気を偽って会おうともしない。いつまでも日和見が通じると考えているその魂胆。しかも己の御着城は毛利家にとっても織田家にとっても重要な抑えだという思い上がり。救いようがござらぬわ」
官兵衛は、小寺政職への愚痴をこぼし始めた。
「その上、信長様は他家から取り込んだ武将を信用しておりませぬ。一軍の将を預けられるのは、織田家代々の家臣。秀吉様も、代々家臣ではないものの、やはり秀吉様の父上までは代々織田家の足軽。ですが、例外が二人。一人は信長様の上洛の際に橋渡しとなった元幕臣の明智光秀殿、そしてもう一人は桶狭間の戦い直後に信長様と同盟を組んだ徳川家康殿」
「馬鹿を申すな。儂はどうだ。摂津一国と摂津衆を指図できたぞ」
「摂津守殿。貴殿の仕事は何でござったかな。伊勢長島一向一揆攻めは林殿。比叡山の焼き討ちは明智殿。貴殿はそれらの戦に加わられただけ。」
荒木村重は黙り込んだ。
「今回は諦め申す。翻心は無理と確信しました故」
「待たれよ」
荒木村重が合図をすると、別室から三人ほどの家臣が刀を持って入り込んできた。
「摂津守殿。そこまで落ちぶれてしもうたか」
武士は殺すのが仕事であったが、それでもやってはいけないことがいくつかあった。
その一つが降伏を勧めに来る軍使を害することであった。軍使を殺せばその後の降伏は何があっても受け入れられず、一族郎党の端まで処刑されるのが決まりであった。
「よし、土牢に連れていけ」
「上の牢ではないのですか」
家臣が聞き返した。
上の牢は天守閣の片隅にあり、罪を犯した重臣などが入る牢で、ちゃんと厠もあり、夜具も与えられた。
それに比べて土牢は年貢を払えなかった農民などが入る牢であった。日が当たらないので、一度雨が降るとなかなか乾かない。しかも、高さが三尺(約九十センチメートル)ほどしかないので、座ることしかできない。
「土牢じゃ。こやつの驕慢が折れるまで許さぬ。早く連れて行け」
そして荒木村重は、官兵衛を見つめると選択肢を提示した。
「儂に従うと言ったら、出してやる」
「たわけが」
官兵衛は荒木村重に精一杯の侮蔑を返した。
夕餉が差し出されず、官兵衛は土牢に入れられた。
「官兵衛が帰って来ぬ」
秀吉が本陣で嘆いていた。
「ないとは思うが、まさか裏切ったりは・・・」
「秀吉様」
竹中半兵衛が秀吉を諌めた。
「そうじゃの。官兵衛は信長様のことをものすごく高く買っておる。そう簡単に裏切ることはあるまい」
「さよう」
竹中半兵衛は、咳をした勢いで吐血した。その血を始末した後、秀吉に進言した。
「秀吉様。松寿丸様の身を隠さなければなりませぬ」
「何故じゃ」
「秀吉様でさえ官兵衛殿の裏切りを考えられたのです。それを聞いたら信長様がそう思うは必定。そうなれば・・・」
「怒りは松寿丸に向くか」
秀吉が苦い顔をして首肯した。
秀吉が安土城に向かい、官兵衛が戻ってこないことを告げると、竹中半兵衛の予想通りとなった。
「小寺も余に背いたと言う。これは官兵衛め。まさか摂津守の軍師として城に入ったな。ええい、腹の立つ。秀吉、官兵衛の実子、松寿丸が首をはね、有岡の城に投げ込んでやれ」
「しかし、官兵衛の安否もわかっておりませぬ」
「うるさい、命じたぞ」
秀吉は諦めて、家臣を長浜城に遣わした。
だが、ねねは反抗した。
「何をおっしゃいます。松寿丸様は私の子供として官兵衛殿から大事に預かった子なのですよ。いかに上様の命と言えど、そう簡単に差し出すことはできませぬ。引き取りたいのであれば、上様自らおいでなされとお伝えなされませ」
秀吉の家臣の中でねねに逆らえるものなどいない。長浜城に向かった家臣は諦めて帰る他なかった。
なぜねねが拒絶したのかというと、竹中半兵衛からねねの元へ松寿丸の命が危ういという知らせが届いていたからであった。
「ねねよ、すまん。すまんが、諦めてくれ。無茶じゃ」
秀吉は複雑な気持ちで、心の中で言った。
官兵衛は、土牢の中で身近な者たちの行方を考えていた。
何しろ、何もすることのない土牢の中である。思考のときなど持て余すほどあった。
まず、官兵衛は信長の顔を思い浮かべた。
「あのお方は・・・五十歳という制限を決めておられる。だから無駄は許されない。だから、一度の裏切りも許さぬのだな」
一度裏切った者はまた裏切る可能性がある。そうなれば、また同じ戦をしなければならない。信長はその時間が大嫌いであった。
「だが、無駄なものがあればこそ、人というものは生きておることを幸せに生きられるのだ」
無駄が一切なければ、皆同じ飯を食べ、皆同じ服を着て、皆同じ家に住む。そうなれば、武将や大名と百姓の差は生まれてこない。
その差がない世界を想像して官兵衛はぞっとした。その世界には、人はいても、己はどこにもいなかったのだ。
「秀吉様は・・・物欲がないのが信長様に気に入られておる」
秀吉には子がない。それは、子供に残す領土がないということである。そのため、秀吉は、物欲がないことから家臣たちに物を分け与えてきた。
事実、秀吉は損得で信長を裏切ったことはなかった。信長はそこを気に入り、多少の失敗は見て見ぬふりをするか、不問にしてきた。
「だが、子が生まれたときにどう変わるかよな」
秀吉は今年で四十二歳になる。これから子が生まれないとも限らなかった。
「松寿は・・・もう首を打たれておろうな」
松寿丸はねねの元で大切育てられているが、実態は人質であった。
松寿丸は今年で十一歳になる。物心の少しついてきたぐらいであった。
「何もわからず首を打たれた松寿が哀れよな」
仮に松寿丸が首を打たれていたとして、その原因ともなったであろう小寺政職と暗愚なその子、氏職の顔を憎んだ。
小寺政職の寝返りと黒田官兵衛の有岡入城を、信長が主君の檄に家臣が応じたと考えても全くおかしくなかった。
「ああ言われればああ、こう言われればこうと定見のなさにもほどがあろう。世の移り変わりがわからぬか」
官兵衛は小寺政職への復讐を誓った。
「共に命運は儂が断ってくれるわ」
官兵衛は呪詛の言葉を吐いた。
そして、何ヶ月も経ち、土牢の前に荒木村重が現れた。
「この城が持てば、儂を助けに来るべく毛利殿が十万の兵を率いて援軍に来る。そのまま三木の別所殿と合流。そしてそれに重なった本願寺の檄に応じて加賀地方で一向一揆が蜂起。そうなれば織田家は終わりじゃ」
劣勢になる戦況を棚上げし、荒木村重が強がった。
官兵衛は荒木村重の話に疑問を感じた。というより、外の情報が全く入ってきていないことがわかった。
官兵衛の知る限り、今の毛利家に援軍を派遣できる将などいない。
「ほう、誰が先鋒をに務めるのでござるか」
「備前の領主宇喜多殿じゃ」
官兵衛が興味を持ったことを珍しがり、荒木村重は答えた。
「それはありえぬな」
荒木村重にはわけがわからなかった。
「まさか・・・」
荒木村重は予想だにしなかったことが起きて、唖然とし、頭の中が真っ白になった。荒木村重の裏切りは、宇喜多直家の毛利所属が前提であったからである。
「そう、儂がこの城に入る少し前でござったかな。直家殿は織田家への臣従を約束された」
「まさか・・・」
荒木村重の計画は水の泡となった。
「まずい」
荒木村重は官兵衛の前で焦りを見せた。
「宇喜多が寝返っただと!?有岡への出陣は取りやめじゃ。まずは毛利を叩く」
毛利が出陣を取りやめた情報はすぐに有岡城まで伝わった。
「馬鹿な」
「我らを見捨てたと申すか」
荒木村重も、毛利の出陣取りやめには焦った。毛利家からの援軍を前提とした謀反である。当然の反応であった。
「では、逃げられてはどうでござるか」
官兵衛は焦れる荒木村重に策を提案した。
「馬鹿な、この有岡城を幾重にも囲んでおる包囲網の中を、どうやって逃げれば良いと」
包囲網は最初よりも軍は二倍ほどに増えていた。なぜなら、荒木村重の謀反に呼応した摂津衆の高山右近の高槻城、同じく摂津衆の中川清秀の茨木城などが秀吉の攻撃を受けて降伏していたからであった。
官兵衛が荒木村重に逃亡を進言したのは、自分を秀吉に紹介してもらった恩ではなかった。土牢の中で非道な真似を受けたのだ。恨みはあっても恩はない。
官兵衛が荒木村重に逃亡を進言した理由は、信長の怒りを引き受けてほしかったからであった。荒木村重が死んでしまえば、信長の怒りは荒木村重の首を見るまで収まらない。
そして、そうなれば、次の信長の視点は、なぜ荒木村重の謀反を止められなかったのか、である。そうなれば、怒りの矛先は秀吉や官兵衛に向きかねない。官兵衛はそれだけは避けたかった。
「城下の惣構えを崩されればよかろう」
「なるほどの」
この夜、城下で火事が起こり、城の惣構えが崩れた。そのため、領民たちは逃げ惑い、織田の兵もいちいち逃亡者をあらためなかった。その逃亡者の中に荒木村重が混じっていた。
こうして、有岡城は落ち、官兵衛は土牢から解放された。
土牢から解放された官兵衛は、秀吉の陣に行き、違和感に気づいた。
「秀吉様」
「何じゃ、官兵衛」
「半兵衛殿のお姿が見えませぬ」
「六月十三日のことであった」
「そうでございましたか」
日付だけ聞いた官兵衛は、すぐに竹中半兵衛の行方を悟った。
官兵衛も知っていたが、竹中半兵衛は結核であった。竹中半兵衛は、六月十三日、三十四という若さでこの世を去っていた。
「おお、半兵衛殿よ。感謝の言葉を、お伝えすることさえも叶わないとは」
官兵衛はその場に膝から崩れ落ち、泣いた。
感謝の言葉とは、松寿丸の件であった。竹中半兵衛の手回しがなければ、松寿丸はまず間違いなく首を打たれていた。
それ以上に竹中半兵衛の死を惜しんでいた秀吉が官兵衛に同情した。
「わかる、わかるぞ。じゃがな、官兵衛。泣くでない。半兵衛が落ち着いて眠れぬではないか」
秀吉の顔は涙と鼻水によってぐちゃぐちゃになっていた。
官兵衛は、泣きながら秀吉に問うた。
「半兵衛殿が法名をお聞き願いたい」
「深龍水徹と申す」
「深龍水徹・・・なんと清々しい名前でござろうか。竹中殿に一番似合うておりまする」
この後、官兵衛は兜の中に深龍水徹の字を彫り、戦のたびにそれを見ては策を練るようになった。
「ところで官兵衛、その体ではなんじゃ。播磨にはの、有馬の名湯がある。そこで好きなだけ養生するが良い」
「ありがたき幸せにございます」
秀吉から養生する許しを得た官兵衛は、すぐに播磨へと向かった。
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