第5話 夕暮れの領域


「どうぞ。狭いし散らかってるけど」


ちぎりは玄関の靴を靴で蹴飛ばして言った。

私は家とそうでない部分の境でぼうっとして、いまさら「入っていいのか」と自分自身に問いかける。ちぎりのファンだ。ちぎりにいくらお金を使ったとしても、ちぎりがアイドルでなくなったとしても。新しいはずのボロボロのブーツのジッパーを下ろし靴の山へ放って部屋へ上がったちぎりは、痺れを切らしたように私の手を引いた。居場所だというのに邪魔者扱いされた可愛い靴達を踏みそうになりつつ土間部分へ足を踏み入れる。恐る恐る潰れたスニーカーを脱いで上がり、恥ずかしくなった。ゴミみたいに扱われたちぎりの靴の方が、履き潰した私のスニーカーよりキラキラ輝いている。


「そこがトイレと洗面所とお風呂。説明するほどの広さじゃないけどね。一応、これから何度もきてもらうことになるんだから。あ、鍵閉めてね」


言われた通り手を伸ばして鍵を閉める。その音が自分の家と同じ軽い音で不思議な感覚になる。ちぎりの家は私と同じような狭いワンルームで、生活に沈んでいて、なのになんだか可愛い。

ちぎりの後について行って、突っ張り棒をレールとした薄い白のカーテンを超える。手も足も震える。これが、ちぎりの部屋……。


「そこ座って。水しかないけど出すよ」


重たそうな夕焼け色のカーテン。同じ色の掛け布団がぐちゃぐちゃになったベッド。毛羽だった小さな絨毯は赤色。その上に黒い丸テーブルがちょこんと乗ってる。その側の空いているスペースに腰を下ろす。が、落ち着かなくて膝を抱える。テーブルの上は化粧道具の入った大きなポーチと鏡とヘアアイロンで埋まっていた。どれも、赤。水道の水が噴き出されるジャアという音が2回して、すぐにちぎりが戻ってきた。指示されて恐る恐るテーブルの上のものを下ろす。クマの描かれたプラスチックのマグカップが二つ、コンと軽い音を立ててテーブルの新たな住人となった。

ちぎりは私の反対側に座ると、ベッドに背中を預けて深い息を吐いた。


「ごめんね。水道水飲める人?」

「う、うん。大丈夫です。ありがとうございます」

「そんなに畏まらなくていいのに」

「むっ、無理だよ……ちぎりは、私の……」


ちぎりが私を見つめている。頭が混乱して喉が貼り付く。現場で握手した時もチェキを撮る時もライブ中に個レスもらった時もこんなことにはならなかった。興奮、緊張、罪悪感、わずかな失望、喜び。震える手で水を流し込んだら、口の端からこぼれて慌てて手で拭う。ちぎりが笑った。ち、ちぎりがっ、私の失態を笑ってくれた!


「正直に言うけど、あたしもちょっと緊張してる」

「えっ」

「友達いないから。親以外でこの部屋に来たの、ゆーたんが初めてだよ」

「そっ……」


ちぎりは微笑みながら、ボロボロのツインテールを解いた。私はマグカップを握りしめたままじっとそれを見つめていた。


「そっ、そんなこと、言われたら、余計緊張する」

「……あはは、なんで?」


また笑った。すっごく自然な笑顔だ。寒そうなお腹を小さく揺らしつつ整髪剤でカチコチになっているらしい髪をブラシで解体している。全部に目が離せない。ちぎりもマグカップを取って水を飲んだ。ごくごく飲む。やがてマグカップの底をチラリと見て置いた。「超喉乾いてたみたい」と呟く。私はやっと「ちぎりは人間で、私とそんなに歳の変わらない女の子なんだ」ということをほんの少し理解して、落ち着くことができた。


「……改めて、聞くけど。あたしのマネージャー、やってくれるよね?」


頷きかけてやめ、代わりに首を傾げた。ちぎりは胸元のリボンだったものを外し、スカートのベルトを外し、破れたストッキングを座ったまま脱いでいく。私はぎょっとしたけど、これ以上私の動揺でちぎりを煩わせたくなくて表に出ないように堪えた。


「ちぎりのことは大好きだけど、私、そんなのやったことないし」

「知ってる。大学のバイトはずっとカラオケで、就職先は文房具の会社の営業だもんね。全部覚えてるよ」

「あっ、あっ、ありがとう……じゃ、なくって、どうして私に」

「だって。ゆーたんがいちばんあたしのこと好きだから」


ちぎりは頬杖をついて、太陽の笑顔で私の目を見た。怪我だらけでところどころ赤く青くなっている大好きな顔は、強く、美しく、いつもと変わらずに私の心臓を鷲掴む。大好き。赤いカラコンのドット柄まで、赤い爪の折れた縁まで、腫れた瞼まで、頬の切り傷まで、大好き。全身の輪郭が曖昧になり、ふわふわと上の方へ漂っていく気分。

確かに、世界でいちばん夕焼ちぎりを好きなのは、私だ。

ちぎりが満足そうに瞬きをした。つられるように頷いてしまった。いつのまにか私の頬は緩み、口角は上がり、体は前のめりになっていた。


「そうだよね」

「うん」

「あたしのマネージャー、やれるのは、ゆーたんしかいないよね」

「うん」

「じゃあ、決まりっ!」


ちぎりがばちんと手を叩くと、私は炎あるいは煙から固体に戻る。大変なことに頷いてしまった気がする。しかし心臓はまだ燃えていて、断るべきだという気持ちにはならなかった。ちぎりが私に期待してくれているのだ。それだけで人生を賭けてやって良いことだと納得できる。


「でも、マネージャーって、どうしたらいいの?」

「……その前に。お腹空かない? 簡単なのしかできないけど、食べよ。それで……先に、あたしが辞めることになった経緯について話しておかなきゃ」


重い話になるから、せめて美味しいもの食べながらしたいの。

赤い瞳が細くなる。頷くのと一緒に「うん」と言ったつもりだけれど、舌の奥で丸まって、ちぎりに届いたかわからない。

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