第3話 朝の掃き溜め

私がいるのは細い路地。居酒屋の排気口とシャッターの降りた建物しかなく、暗い。ここを抜けた先は大きめの通りになっていて、明るい。硬直して耳を澄ます。

叫び声の次に、怒号が聞こえた。どちらも女性のものだ。制止する男性の声。何かが殴られる鈍い音、泣き声。声の種類からして、五、六人。

尻餅をつき、はっとする。争う声は続いている。怖くなって、這いずって路地を引き返した。駅から遠ざかってしまう。怖くて、怖くて、誰もいない別の路地に飛び込んだ。つまずいて倒れ込む。ポケットからスマートフォンが飛び出る。衝撃で画面が明るくなり、時刻が表示される。終電の時間を過ぎていた。僅かに残っていた気力が抜ける。身体を丸め、声を殺して泣いた。


夕焼ちぎりは、私の全て。

出会った時から、今まで、これからも、私のアイドル。

一番の赤。

一番の、炎。


背中に衝撃が走って、パッと目を開ける。私は転がっていた。はっ? 汚いビルとビルの隙間の、朝の空。朝……。お尻に衝撃。ひっくり返ったダンゴムシみたいな恰好で、お尻のほうを見る。驚きのあまり脱力する。


「ねえっ。ゆーたんっ。ねえ。起きたあ!?」


赤いブーツ。最上の赤い衣装。大きなリボン、リボン。ゆらめく炎のフリル。耳の上で二つに結んだ、リボンが編み込まれている、赤い髪。


ゆっ、ゆっ、夕焼、ちぎり……!


目が合っても呆けるだけの私に、夕焼ちぎりはにいっと笑った。もう一度お尻を蹴られて、慌てて座る。


「ゆーたん。おはよう。あたしのゆーたん」


夕焼ちぎりは、朝に照らされて、太陽のように輝いていた。昨日のステージ衣装のままで。手を差し伸べられて躊躇する。お金払ってないのに手を繋いでいいのだろうか、と寝ぼけた頭で考えているうちに、強引に引っ張り上げられた。真紅に塗られた爪に目がいく。あ、綺麗な長い爪が、折れてる。昨日最後に見た時は違ったはずだ。よく見れば、指の関節や手の甲にも不自然な打撲や擦り傷がある。手首にも痣がある。ぞっとして、足元から観察する。卒業ライブのために用意したと言っていたブーツが、異常にボロボロ。脚は痣だらけ、膝に大きな赤い傷。痛々しくぬらりと光っている。今までで一番豪華な衣装、満開の薔薇のように艶やかで、どんな夕日よりも美しかった。昨日は。切り裂かれたスカート。ほどけたリボンとちぎれたフリルが垂れて蛇のように揺れている。肋骨の下から骨盤の上までは素肌が丸出しになっているのだが、その部分にすら無数の擦り傷がある。胸元を覆う布には大きなリボンの装飾がついているが、不自然に斜めになってひしゃげてしまって布切れにしか見えない。鎖骨にも痣。首にも圧迫された痕。真っ赤な唇の端に傷。鼻に血痕。右頬と左目の上が腫れている。いつもきれいに整えられていたツインテールもぼさぼさで歪んでいるし、どれだけ踊っても形を崩さなかった前髪が割れて変なほうに跳ねている。


「ちっ、ちっ、ちぎり……」

「ねえっ。昨日からずっとここにいたの?」


ちぎりの声は明るかった。私の視線や自分の傷に気づかないふりをしているみたいだ。頷くと、引き上げたまま握りっぱなしだった私の手を、両手でぎゅうっと包みなおした。そのまま私の手を胸のあたりの高さに持ち上げて嬉しそうに振る。久しぶりに再会した親しい友達同士がはしゃいでいるようなポーズ。赤が、にこっ、と、笑う。いつも、強くて、優しくて、愛に溢れた笑み。唇の端の傷が引き延ばされて、ぬらりと光る。赤。恥ずかしくなって、うつむく。


「あたし。卒業したの」

「……知ってる」

「アイドル辞めたの」

「……知ってる」

「……辞めさせられたの」

「え?」


赤い目を見る。みるみるうちにちぎりの笑顔が崩れる。支配を目的とする慈愛から、憎悪へ。下唇を強く噛み、私じゃない誰かを想って眉を寄せ、長い睫毛にいっぱいいっぱいの涙を乗せた。

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