第2話 炎の思い出

「みなさんこんばんは! せぇのっ、プリン・プリンス・プリンセスですっ!」


甘い声が五つ重なる。私はまだそのどれが赤い彼女のものなのかわからない。真っ黒の狭いステージ。恐ろしいほどの強い光。


「自己紹介しますっ」


真ん中の赤い彼女が手を上げた。友人がサイリウムを赤色に変える。私も真似るが、手が震えて、また使い慣れていなくてなかなか赤色に変えられない。慌てているうちに、その子は甘くてよく通る声で流れるように喋り出す。


「真っ赤なハートのお姫様! みんなのハートも真っ赤に染めちゃう! 夕焼ちぎりですっ! ちーちゃんって呼んでねっ! せーぇの!」


ちーちゃぁん。

赤色。


彼女……夕焼ちぎりの所属するグループ「プリン・プリンス・プリンセス」は、その頃結成して二か月の新しいグループで、固定のファンはほとんど存在していなかった。

後輩の指南の元SNSで情報を集めてみても、各メンバーのフォロワー数は私の認識する「アイドル」に比べて随分少なく、メンバーごとの差もどんぐりの背比べ。あのライブで「ちーちゃん」と叫んだり素早く彼女の色にサイリウムを変えたのはみんな他のアイドルを見に来た人間達のようだ。

だから、私はすぐに一番になった。つまらない大学生の私にはたくさんの時間とそれなりのお金が余っていて、頻繁に開催されるライブを見に行くことはちっとも苦じゃなかった。

ライブの後にはお金を払って一緒に「チェキ」を撮ることができる。後輩には絶対に撮れと強く勧められたが、アイドルと一緒に写真を撮るというのがなんだかこわくて、なかなかできなかった。なんというか、もっともっとアイドルに詳しくて、たくさん通っている人じゃないとしちゃいけない気がしたのだ。それでもライブを見に行って五回目、その時付き合ってくれた例の後輩に半ば強制的にチェキ券を買わされて、冷や汗をかきながらチェキ列に並んだ。その時も複数のグループが出演するライブで、「プリン・プリンス・プリンセス」……略して「プリリリ」のメンバーの列が一番短い。あっという間に自分の番が回ってきて、無愛想なスタッフに券を渡す。


「誰すか?」

「えっ。えっと、夕焼ちぎり……ちゃん」

「ちぎりー」


ばくばくうるさい心臓を落ち着ける暇もなく、彼女はぴょんと跳ねて私に近づき、当然みたいに手を取って撮影用の立ち位置へ引っ張った。

固まって目を泳がせる私に、彼女はニヤリと笑った。獲物を捕らえた肉食獣のような、強気な笑顔。彼女は一度私の手を離し、前髪を指先でちょいと直した。ずっと私から目を離さない。


「何度も来てくれたよねっ?」


両手を、両手で、ぎゅっと掴まれた。ちぎりは、そのまま私の手を胸のあたりの高さに持ち上げて嬉しそうに振った。仲の良い友達同士がはしゃいでいるようなポーズ。


「チェキ、はじめて?」


頷く。全てを見透かされている気分だった。


「やりたいポーズとか、わかんないよね。決めていい? あたし達まだ活動しはじめたばっかりだからさ、他のアイドルのオタクが気分でチェキ来てくれることはあるけど。嬉しいよ。はじめて、ってことは、はじめてでしょ?」

「はじめて、って……」

「アイドルを……誰かを好きになったの。違う?」


この、初めてのチェキの私は、ものすごく間抜けな顔をして夕焼ちぎりを見つめているから、恥ずかしくて見れたものじゃない。でも、何度も見た。見ている。印刷されたチェキには、アイドルがコメントを書いてくれる。ちぎりは当然のように赤いペンを取り、私の名前を聞いてくれた。


「なんて名前?」

「ユウキ、です」

「ユウキね。ユウキ……じゃあ、ゆーたん。また来てね。待ってるから」


彼女によってはじめて書かれた私宛の「ゆーたん」を見ると、思い出が鮮明に蘇る。「ゆ」の丸いところを丁寧に綺麗に書いているちぎり。「ん」のはねるところを伸ばしすぎて笑うちぎり。両手指でチェキの端をちょんとつまんで渡してくれるちぎり。最後に繰り返された「待ってる」の言葉。笑顔。


私はあっという間にちぎりの一番のファンになった。

暇つぶし程度の動機しかなかったアルバイトをうんと増やし、留年しそうになってちぎりに注意され、なんとか四年で大学を卒業したのがちぎりのアイドル活動三年目。新卒で入った会社が酷くて心を病んだけど、もはや限られた時間を転職活動よりちぎりに使いたくて我慢し、今、ちぎりのアイドル活動五年目。つまり、私のちぎりファン歴五年目。仕事にも慣れ嫌な上司もいなくなり、余裕ができたから副業でもやってその分ちぎりに使おうかと検討していたところで、ちぎりが辞めると宣言した。


道に迷ってしまったみたいだ。ライブのために何度も通った街なのに。心が複数に分離しているような感じがする。彼女の炎に当てられて興奮し続けている私と、絶望している私と、異常に冷静な私がいる。

もう、家に、帰らないと……。燃え尽きた脳の引き出しから駅までの道を引っ張り出す。帰らないと。帰って、眠らないと。眠って……眠って、起きて、どうする? もう彼女を見られないのに。涙が際限なく零れる。

何度もコールした言葉が脳味噌をぐるぐる回る。やっと見つけたお姫様、私が生まれてきた理由。本当にそう思ってる。魂は燃やした。もう生きていられないと思うのに、命は、たぶん、絶てない。自分のおおよその位置と、駅の位置を思い出して、ようやく目的を持って足を動かす。捨てられた空き缶に右足が当たるのと、前方から女の叫び声がするのはほとんど同時だった。

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