幕間 〈仕掛け人〉

第1話 「日常は謎だらけ」

「……これ、ホントにやってたのかな」


 目の前の段ボール箱にぎっしりと詰まった参考書を眺め、碧海は他人事のようにつぶやいた。どれもこれも表紙がよれていて、書き込みがないページなどない。


――母さんに家じゅうの参考書を集めてもらったはいいけど……。


 荒川誠司とキョウロウによって引き起こされた事件は解決し、残すは二人の裁判。

 碧海たちが命懸けで辿り着いた推論と、面目をつぶされた警察が執念の思いで見つけ出した物証のおかげで、二人の有罪は確実と見られている。


 そんな中、碧海は一念発起して三年ぶりに勉強をしてみることにした。


 まずは、中三から高二にかけてまったく手をつけていなかった部分を復習すること。もともと中一の時点で高校数学の内容は一通り終わらせていたが、それ以外の教科は初見も同然だ。


 だから実家に連絡して、部屋で埃をかぶっていた参考書を片っ端から送ってもらったのだが。


「配達員さんが腰をやっていないかが気がかりですねえ」


 そんなことを言ったのは、自身も腰をやっている神楽だ。

 二年生から三年生に上がるにあたって、碧海たち寮生には一人一部屋が与えられる。その引っ越しの最中に重い段ボールを持とうとして、見事運動不足の結果が現れたというわけだ。

 その点で言えば、碧海も全身筋肉痛なのだが。


「まあ、学校で今さら中三の範囲を教えてくれるわけないしね……自分でやらないと」

「いやあ、僕の目が黒いうちにきみが勉強する姿を見られるとは」

「言ってろ」


 碧海は鼻を鳴らし、一冊ずつ参考書を引っ張り出した。分かってはいたが、やはり数学が半数を占めている。

 そのうち一冊を手に取り、試しにページをめくっていた碧海は、思わずあっと声を上げた。


「どうしました?」

「いや……」


 お世辞にも美しいとは言えないが、カクカクとして読む分には最適な自分の字の隣に、赤ペンで書かれた丸っこい字がある。


――叔父さん、こんな字だったっけな……。


 碧海は目を閉じ、もう一度その文字を見た。『計算ミス!』と書かれた字からは、ちょっとした苛立ちが見て取れる。碧海が何度やっても同じミスをするので、さすがの神谷もイライラしていたのだろう。


 ちらりとその問題を見、碧海は目を閉じた。

 頭の中を数式が飛び交う。


――9√2……。


 目を開いて解答のところを見てみると、数年前の自分とまったく同じ計算ミスをしていた。

 ため息のような苦笑のような、よく分からない吐息が漏れた。


「まったく成長してないや」

「その問題ですか?」

「うん。いつも同じところで計算ミスをするんだよ」


 数年前の学力を維持できていると考えれば万々歳なのだが。


 碧海は参考書を隣に置き、段ボールの中に手を突っ込んだ。

 ベッドに寝転がっていた神楽も腰を押さえながら起き上がり、カーペットに腰を下ろす。


「よいしょ」

「腰、大丈夫?」

「湿布って人類の叡智だと思いません?」

「思ったことないね」


 まるで中身の伴っていない会話をしているうちに、ようやく中身の半分を出し終えた。


「ものすごいやり込みようですね」


 パラパラと参考書をめくっていた神楽が驚きの声をあげる。彼が手にしているのは別の数学の参考書だ。我ながら引いてしまうほど詳しく書き込まれている。


「本当に数学は得意だったからね。数オリで金賞をとったときの賞状とかも探せばあるんじゃないかな」

「今は興味ないんですか、数学オリンピック」

「興味がないと言ったら嘘になるけど、たぶん予選落ちだと思うよ……あ」


 タイミングよく数学オリンピック対策用の問題集が出てきて、碧海は思わず苦笑してしまった。おそらくあの事故の直前に買ったものだろう。ほとんど手を付けていない。


「予選落ちって、全然勉強していないからですか?」


 神楽が興味をそそられたように訊いてくる。

 碧海はベッドにもたれかかり、問題集を神楽に手渡した。


「数学オリンピックっていうのはね。もちろん学力も必要だけど、何よりも勘が要るんだ」

「勘、ですか」

「オリンピックと銘打ってるだけあって、出題される問題は一筋縄じゃいかない。どんなに公式を知っていたって、どんなにたくさんの問題を解いていたって、まったくやり方が思いつかない。そんな問題ばっかりなんだ」


 問題集の真ん中あたりを眺めていた神楽が納得したようにうなずく。


「でも答えを聞いてみれば、何だ、そんなことかって思うような方法で解けたりする。数オリっていうのは、そういう解法を時間内にひらめけるかっていう大会なんだよ」

「だから勘なんですね」

「ひらめきって、言っちゃえばただの勘だからね。で、そういうのはずっと使い続けてないとすぐに鈍ってしまう」

「じゃあ今年は出ないんですか?」


 神楽が少しだけ残念そうに問題集をそばに置いた。碧海が頭をフル回転させているところを見てみたかったのかもしれない。


――数学オリンピックかあ。


 碧海は無言でカーペットを見つめたあと、神楽に向かってにやりと笑いかけた。


「そうは言ってないさ。勘が鈍ってるとは言ったけど、完璧に失われたわけじゃない。まだまだ現役だよ」


 問題は、三年間のブランクを今年の数学オリンピックに間に取り戻せるかということだ。


「まあ、時間はあるしなあ」

「浪人するんでしたっけ」

「じゃないと無理」


 碧海は叔父の神谷が勤めていた大学を第一志望に据えることにしていた。だが、今の学力ではとてもではないが届かない。

 そこで、両親や教師と相談し、今年一年はブランクを取り戻すことに専念しようということになったのだ。


「きみならやれますよ」

「そう言ってくれると嬉しいよ。……とにもかくにも、こいつらを整理しなきゃな」

「ですね」


 ダンボール箱はあと二つ残っている。


「先にこっちをしまっちゃおう」


 神楽が丁寧に分類してくれた参考書たちをスカスカの本棚に詰め、危うくつまづきかけた数学オリンピックの問題集も片付けようと手に取る。


 その時、一枚の紙がはらりと落ちた。


「なんか落ちましたよ」

「だね。なんだろう」


 どうやら問題集に挟まっていたらしい。半分に折ってある。


 碧海は紙を拾い上げた。神楽にも見えるよう、カーペットに腰を下ろしてから開く。


「な、なんだこれ?」


 紙には、四足歩行の動物を模した奇妙な絵がずらりと並んでいた。


「犬? 狼?」

「狐にも見えますね。まあ、それ系のイヌ科動物ってことでしょう」


 一つ一つの絵は文字のように小さい。絵といっても緻密に書き込まれているわけではなく、線や丸で作られた記号と言った方が正しいだろう。それぞれの動物は微妙に異なっていて、前足を上げていたり、尻尾を垂らしていたり、逆立ちしていたりと、ざっと見ただけで数十種類がある。


――まるで……。


 碧海と神楽は同時につぶやいた。


「踊る人形」

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