第3話 「違和感」

 死んだらそれまでだ。


「なんにせよ、恨みがなければ殺そうとしませんよね」


 神楽が顎に手を当てながらつぶやいた。


――恨み、か。


 碧海は明後日の方向に視線をさまよわせた。

 その一言が、頭のどこかに引っかかっている。


 それだけではない。

 あの襲撃者に襲われてから、正体の知れない違和感が燻っていた。


――何かが変だ。


 言葉にはできない、何かが。


「……っ」


 そこまで考え、碧海は思わずうめき声を上げた。頭に鋭い痛みが走ったのだ。さらに胸が押しつぶされているような息苦しさが襲い来る。


――いつもいつも!


 碧海は舌打ちを漏らしてから、はっと口を閉ざした。


「大丈夫ですか、碧海くん」

「あ、ああ、ごめん」

「顔色が悪いですよ」


 いつも柔らかい微笑みを浮かべていて、何を考えているのか分からない神楽が不安そうな顔をしている。

 碧海は無理に笑い、冗談めかして言った。


「恨まれるようなことをしてないか考えてたら、頭が痛くなってきちゃったんだよ。本当に考え事が苦手なんだな、僕」


 決して嘘ではない。


 碧海はとにかく頭を使うことが苦手だった。

 少しでも考え事をしようものなら、それを咎めるように鋭い頭痛が走る。


 その原因は分かっている。

 分かっているが、どうしようもないのだ。


「なんだ、そうか。いきなり舌打ちすっから、一体どうしたのかと」


 鎌田と渡利はほっとしたように笑った。


「……痛むのでないなら、よかったです」


 納得したように言いながらも、神楽は感情の読めない表情で碧海を見つめている。

 赤毛に似た明るい色の瞳に心を見透かされているような気がして、碧海は思わず目を逸らした。


「とにかくだ」


 碧海と神楽の間に流れた気詰まりな沈黙には気付かず、鎌田がぱんと手をたたく。


「さっさと警察を呼ぼうぜ。俺らで考えてても仕方ねえんだからさ」

「寮の正門にカメラあったよな? もし映っとったら、もう捕まえたも同然やで!」

「そうだね……」


 碧海は相槌を打とうとして、はたと動きを止めた。


 脳裏に男の姿が浮かび上がる。

 鎌田と戦う最中にも、少しずつ早くなっていたあの動き。


――そうか。


 不意に、一つの違和感の正体がつかめた。


「ねえ、鎌田」

「おん?」

「襲ってきた男と戦ったとき、向こうが本気だと思った?」


 鎌田を相手にしていたとき、男の動きは少しずつ早くなっていた。本気を出すべきかどうかを推し量るように。

 そして、男はついに本気を出さなかったように思う。

 碧海たちに背を向けて逃げ出したとき、男はまったく息が乱れていなかった。


「……お察しの通りだよ!」


 がりがりと頭を掻きながら鎌田が言った。

 その一言に渡利と神楽が唖然とする。


「それなら、どうして逃げたんです? 即座に警察に通報されることは目に見えていますよ」


 神楽は怪訝そうに扉の方を見た。


――どうしてまだ余裕があるのに逃げたのか……。


 碧海はどこへともなく視線をさまよわせた。その行き着く先は、濃い霧に包まれているこの襲撃の真相。


 頭の奥から鈍い痛みが湧き上がってくるのを感じながら、碧海はゆっくりと思索を巡らせた。


 あの襲撃者の本気がどれほどのものかは知らない。だが、本気を出せば鎌田を倒すことはできたのではないだろうか。

 狭い廊下で振り回すには不都合な竹刀と、接近戦でこそ真価を発揮するナイフ。

 実力が拮抗していたとしても、どちらに軍配が上がるかは優に想像できる。


 それなのに、襲撃者は本気を出さずに逃げた。

 あらゆる犯罪者の例にもれず、警察を呼ばれたら困るはずなのに。


――いや、通報されてもよかった?


 それどころか、通報してくれた方がありがたかった。そう考えれば辻褄が合う。

 少し怪我を負わされただけでさっさと撤退したのも、鎌田を相手に本気を出さなかったことも。


 それなら、通報されてもいいと考える理由は何だろうか。

 選択肢は二つしかない。


 警察が捜査を始めても逃げ切れる自信があるのか。

 いや、それほどの自信があるのなら、さっさと鎌田を殺してしまった方が早い。


 残る選択肢はただ一つ。


 警察内部に協力者がいて、通報を揉み消すことができるのだ。


「んじゃ、一一〇番でもするか」


 鎌田がスマホを手に取ろうと立ち上がった。


 碧海はその横顔に向かって絞り出すように言った。


「通報したら……やばい気がする」

「は? なんでだよ」

「警察の中に、仲間がいるかもしれないんだよ!」


 その一言では呑み込めなかったのか、鎌田が目をぱちくりとさせる。代わりに神楽が目を見開いた。


「つまり、あれですか。僕らから通報を受けた警察の方々が、保護という名目で僕らを拘束する。協力者に手引きされた例の襲撃者は、そこを襲うだけ……確かに、いつ周りにバレるかも分からないような場所で、鎌田くんのような強者と戦うよりずっと簡単です」


 頭痛の中で導き出した碧海の考えより、よほど整った推論を神楽が口にする。

 こういうことですよね、と視線を向けられ、碧海はこくりとうなずいた。


「な、なるほど……割と馬鹿にできねえな。碧海にしちゃ筋の通った話じゃねえか。やっぱあれか、追いつめられると覚醒するもんなのか」


 鎌田が感心したように碧海を見る。


――覚醒した……。


 碧海は心の内で苦笑した。


 中学生時代、碧海は全国的に有名な進学校に通っていた。偏差値は日本随一で、出身の高校生の大半が東大をはじめとした旧帝大に現役合格するような学校だ。一学年は三百人弱。

 その中で、碧海は長い間トップを誇っていた。


 あの雨の日の夜までは。


「それで、どうすんだよ? 言っちゃ悪いが、今の話ってただの可能性だろ。どっちにしろ狙われるんなら、一か八か警察に話しちまった方がいい。話してみて、警察が怪しい動きをしようもんなら、さっさと逃げればいいだけじゃねえか」

「もしその賭けに負けたら? 警察の手にかかった時点で、逃げ出すのは厳しいと思いますよ」


 神楽はいつものごとく冷静に、鎌田も鎌田なりに考えて遠慮なく意見をぶつけている。

 碧海は二人の間で頭を悩ませた。考え的には神楽の方につきたいが、しょせんは可能性であるという鎌田の考えにも一理ある。


――通報した方がいいのか?


 碧海は腕を組み、必死に頭痛と戦った。考えれば考えるほど痛みがひどくなる。


 トラウマが脳裏をよぎった。


「だから、俺は……なんだ?」


 かちりという小さな音が二人の議論を遮った。

 数秒ほど置いて、学生にはよく聞きなれたチャイム音が響く。


『夜遅くに失礼します。避難訓練です。繰り返します、避難訓練です。男子寮生の皆さんは、一階の食堂に集まってください。もう一度繰り返します……』


「うちの管理人の声や」


 この寮は、食堂や浴場、談話室などの共用施設を中心として、西館と東館に分かれている。西館が女子寮、東館が男子寮だ。そのそれぞれに管理人がいて、いま放送をしているのは男子寮の管理人のようだ。


『一階の食堂に集まってください。必ず全員で行動すること。寝ている生徒も起こしてください。避難訓練です』


 その一言を最後に、またかちりという音がして放送が切れた。


 えも知れぬ不気味な静寂だけが残る。


「碧海が襲われたのとは無関係……なんてことはあれへんよな」


 明るい渡利の声をもってしても、仄暗い沈黙を追いやることはできなかった。


――このタイミングで、この放送。


 渡利の言うとおり、無関係なはずがない。


 碧海は胸いっぱいに息を吸い込み、ゆっくり吐き出した。


「行ってみよう」

「マジかよ? 待ち伏せされてたらおしまいだぞ」

「男子寮生全員を呼び出したんだから、罠ではないと思う」

「原因は襲撃者にありそうですけどねえ」


 それは間違いないだろう。これで普通の避難訓練だったら、逆に驚きだ。


 鎌田が神楽の言葉に笑い、片手を懐に入れながら碧海に手を差し出した。


「まあ、お前が行くってんなら、反対する理由はねえわな。行くぞ」


 身長からは想像できないような強い力で碧海を引っ張り上げる。


「うん。ありがとう」

「それじゃあ、行きましょうか」


 残る二人も立ち上がり、碧海たちはそれぞれ上着を羽織って部屋を出た。

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