第2話 「生還」

「おう、生きてるか?」


 あの絶望的な状況から生還できたことが信じられなくて、碧海はすぐに返事ができなかった。


――い、生きてる……?


 首を押さえていたせいで血まみれになった手を見つめる。

 ぎゅっと握ると、自分の体温がじんわりと伝わってきた。


「……生きてる、みたい」

「何だそりゃ」


 ようやく生きているという実感がわいてきた。目頭が熱くなってくる。だが鎌田がいる前で泣くわけにもいかず、碧海はさっと話を逸らした。


「それより、手は大丈夫なの? さっきナイフを鷲掴みにしてただろ」

「自分より俺の心配か? おめでたいやつ。……ほら」


 鎌田はナイフを受け止めた手をかざした。傷どころか跡もない。


「な、なんで切れなかったんだ?」

「ずーっと竹刀握ってるとな、手のひらにタコができるんだよ。そこで受け止めたから切れなかった。俺だからこそできる芸当よ」

「こんなにすごいとは思ってなかったよ……」


 碧海は呆然とつぶやいた。

 鎌田の剣道の腕が日本有数のものだいうことは知っていたが、その剣さばきを直に見たのはこれが初めてだった。大会を見に行こうとしても、鎌田は知り合いに応援されるのが恥ずかしいタイプのようで、見に行こうものなら竹刀でぽかりとやられてしまう。


 そんな鎌田の手を借り、碧海はよろよろと立ち上がった。自然と鎌田のことを見下ろす形になる。竹刀一本で殺人鬼を撃退できる規格外のこの男だが、身長は一六〇センチちょうどと意外にも低い。

 それなのに声は誰もが怯むほどの低音なのだから、初めて会ったときはひどく驚かされた。


「さて、二人にサプライズといくか」


 鎌田は悪ガキのように笑い、いきなり部屋の電気を点けた。


「おい、りゅうさん、渡利わたり、起きろ!」

「な、なんです?」


 その声で目を覚ましたらしい神楽かぐら竜太郎りゅうたろうが、驚いたようにして二段ベッドから身を乗り出した。


「あれ、鎌田くん……碧海くん!? どうしたんですか、その怪我!」


 ひどく驚いていても、決して敬語を崩さないのがこの神楽という男だ。

 本人は生粋の日本人なのだが、ややウェーブがかった髪は光の下では赤く見え、顔も少し彫りが深い。そんな浮世離れした風貌の彼は、愛用している紺色の羽織と赤髪の色合いがよく似合っている。

 ちなみに、『竜さん』というのは神楽のあだ名だ。妙に貫禄がある彼の立ち振る舞いから、いつの間にか定着していたものである。


「なんやなんや、やかましいな。……もしかしてお化けが出たんか!?」

「出てたまるかよ。なんだ、その楽しみにしてそうな言い方は」


 そして、神楽の真上でどこかズレたことを言っているのが渡利景虎かげとら。大阪生まれ大阪育ちだと言うのだが、どうにもその関西弁はエセっぽい。

 厳格な雰囲気を漂わせる名前とは裏腹に、性格はまさに天真爛漫。ムードメーカーと言うにふさわしい、人懐っこい好青年だ。


 渡利は二段ベッドの上段から降り、目を皿のようにして碧海を見つめた。


「それ、どないしたん!?」

「な、なんて説明したらいいか……」

「とにかく、理由はあとで聞きましょう。まずは手当てだ」


 ベッドから下りた神楽が救急箱を持ち上げた。


 この救急箱は、いつもボロボロになって帰ってくる鎌田のために常備しているものだ。むろん喧嘩をしているわけではない。剣道の師匠である叔父に無謀な戦いを挑んでは、手ひどい返り討ちに遭っているだけだ。

 殺人鬼を前にして堂々と構えていられたのも、叔父への挑戦でメンタルが鍛えられたおかげなのかもしれない。


「はい」


 大きな白い絆創膏を貼ってもらい、碧海は深々と息を吐き出した。


――ホントに、あと少しで死ぬところだったんだな……。


 鎌田が駆けつけるのがあと一秒でも遅かったら、碧海は血の海に沈んでいただろう。

 首につけられた傷の奥には、大脳に血液を送るもっとも重要な血管、頸動脈が走っている。


「ありがとう、竜さん。助かったよ」

「どういたしまして」


 感謝の言葉をさらりと受け流し、神楽は救急箱を戻すために立ち上がった。


「……で」


 待ち構えていたように渡利が身を乗り出す。


「何があったんや」

「僕が知りたいくらいだよ……」

「ええから、話してみ」


 碧海は少しだけ逡巡した。下手にあの男について話すと、渡利たちまでも巻き込んでしまうのではないかと心配になる。


 そんな不安を読み取ったか、鎌田が碧海の背中に思いっきり張り手を喰らわせた。


「なに迷ってんだ? 俺はもう巻き込まれてんだよ。気にしてねえでどんどん話せ!」

「わっ、分かったよ! でも、本当に僕にも分からないことだらけだからな」


 碧海はそう前置きをし、静かに語った。


「三時に目が覚めたんだ」


 脳裏にレインコート姿の男の影がちらつく。

 首を振ってその幻影を追い出そうとすると、影は嘲るように揺れて消えた。


「足音が聞こえたような気がして、のぞき穴から廊下を見たんだ。だけど、そこには誰もいなかった」


 襲撃者はのぞき穴からは見えない位置に身をひそめていたのだろう。

 そして碧海が背を向けたタイミングで扉を開けた。


「気のせいかと思ってベッドに戻ろうとしたら、黒いレインコートを着たやつに首を切られそうになったんだ。けど、そこで鎌田が来てくれて」


 鎌田の雄姿を軽く話すと、渡利はヒーローを前にした子供のように目を輝かせた。


「めっちゃかっこええやん! 今日は道場に泊まってくる思うとったけど、ようこんな真夜中に管理人さんが入れてくれたな」


 寮の門限は午後七時だ。それ以降は寮の出入りを禁じられるため、稽古が遅くまで続いたときは道場に泊まってくることが多い。


 渡利の疑問に、鎌田は肩をすくめて答えた。


「入れてくれるも何も、こんな時間に管理人が起きてるわけねえだろ」

「ほな、どないしたんや?」

「一階のやつに窓から入れてもらったんだ」

「そいつらもええ迷惑やな」


 真夜中に窓をたたかれるなんて、一種のホラーだ。


 真夜中に飛び起きる羽目になった後輩たちに心の中で合掌しつつ、碧海は二段ベッドの柱にもたれかかった。


「それで、男は逃げていったんだよ」

「なるほどなあ。にしたって、どうしてそいつは碧海を狙ったんやろな」


 渡利が当然の疑問を口にする。

 神楽が貼ってくれた絆創膏をさすりながら、碧海は口の中でつぶやいた。


「分からない。誰かに恨まれてる覚えもないし」

「面倒な女を振ったとか」

「年齢イコール彼女いない歴だよ!」

「だろうな。優柔不断だし、赤点だし。無駄に図体だけでけえし」


 思いのほか的確な評価を下され、碧海はむっつり黙り込んだ。取り柄と言えば一八〇を超える身長だが、その身長を生かせるほど運動ができるわけでもない。


「じゃあ、怪しげな取引を目撃してしまったとか」


 神楽が人差し指を立てて口にする。


「まさか。学校と寮を往復する日々だよ」

「ほなやっぱ、自分のこと恨むやつがおったんちゃうか」

「碧海を恨むなんて、相当恨みの沸点が低いんだろうな。渡利なんか殺されるくらいじゃ済まねえぜ」


 渡利の無邪気な性格は人の警戒心を解く一助になっている一方で、人を苛立たせてしまうこともある。もちろん本人に悪気はない。


 渡利はわざとらしく体を震わせた。


「あの世まで追いかけてきそうや。天国ってセキュリティ万全やろか」

「天国は知らねえが、地獄は入るもの拒まずなんだろ?」

「セキュリティ脆弱やん」


 ただし、天国も地獄も、入ったら二度とこの世に出てくることはできない。

 死んだらそれまでだ。

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