機械仕掛けの告発人

輪目洒落

第一部 〈機械仕掛けの告発人〉

第1話 「丑三つを指す秒針」

「…………」


 布団の中で身じろぎし、枕元のスマホを見る。


 二時五十九分。


 無音で表示が変わり、液晶には『3:00』の数字が並んだ。

 草木も眠る丑三つ時である。


――いやな時間に目が覚めちゃったな……。


 碧海あおみ良寿よしひさはスマホの電源を落とした。

 再び暗闇が舞い戻る。

 締め切ったカーテンの隙間からわずかに月光が差し込んでいたが、圧倒的な闇を前にはなすすべもなかった。


――なんか夢でも見てたかな。


 黒い粘着質な塊が、胸の奥でうごめいているような感じがする。

 だが、夢の内容を思い出そうとしてみても、脳裏に浮かぶのは断片的な映像だけだった。


 雨、タイヤ、耳障りな音。

 焦燥に歪む誰かの顔。


 碧海はため息をついて、枕に頭を預けた。


 部屋はしんと静まり返っていた。窓の外もまた同じだ。降り積もる雪が、あらゆる音を吸い込まんとしている。


 なぜ目覚めたのか。

 その理由を考える間もなく、強烈な睡魔が襲ってくる。


 碧海は素直に眠りの世界へ落ちていこうとしたが、静寂を破る奇妙な音が聞こえてきて、わずかに首をもたげた。


――誰だ?


 廊下の方から聞こえてきたのは、誰かがゆっくりと歩く音。


 ルームメイトの二人は健やかな寝息を立てている。

 どちらも目を覚ました様子はない。


 それなら、もう一人のルームメイトが帰ってきたのだろうか。そう思ったが、碧海はすぐにその考えを打ち消した。

 足音は重いブーツのような鈍い音を伴っている。

 今はいないルームメイト、鎌田かまだ紀之のりゆきの靴は男子高校生のご多分に漏れずスニーカーだ。


 考えうる可能性を自分で否定してしまった碧海は、不穏な気配を感じながら扉を見た。


――寮生がこんな時間に部屋を出るなんて……。


 高校生である碧海は学生寮で暮らしている。

 高校の学生寮にしては規則が緩い方だが、門限に関してはかなり厳格だ。

 午後七時以降は寮の出入りを許されず、午後十一時以降は部屋の出入りも禁じられる。トイレはそれぞれの部屋に付いているので、何か緊急の事態が起こらない限り部屋を出る必要はない。


 それなのに、階段とは逆方向にある碧海たちの部屋に向かってくる理由は何だろうか。


 碧海は息をひそめて足音を聞いた。

 早足でも忍び足でもない。状況が違えば、ただ散歩をしているだけにも聞こえる。

 だが、確実にこちらへ近づいている。


 壁掛け時計の秒針が規則的に乾いた音を立てている。

 不気味な足音は、偶然にもその音と同じ間隔で響いていた。


 やがて、扉の前で足音が途切れた。


――この部屋に用……なのか?


 しかし、いくら待てどノックは聞こえない。

 呼びかける声も、ドアノブを押し下げる音も。

 足音など気のせいだったのではないかと思うほどの静寂だけがある。


 碧海は音を立てないように二段ベッドから下り、そろそろと扉に近づいた。


 頭の奥でけたたましく警報が鳴り響いている。


――確認するだけ。


 扉にはのぞき穴がある。

 碧海は慎重に扉へ近づき、小さなレンズを覗きこんだ。


「んん?」


 少なくともレンズで見える範囲には誰もいない。ドアの隙間に耳を当ててみても、物音ひとつしない。


――気のせいだったか、三階の音が聞こえただけか……。


 寮は四階建てだ。碧海たちが暮らす二〇二号室は二階に位置していて、たまに三階の物音が聞こえることがある。

 もしかしたら、碧海のように目が覚めてしまった誰かが、水でも飲もうとベッドから下りただけのことかもしれない。


 碧海は唾をのみ、額に浮かんだ熱い汗をぬぐった。

 肩を丸め、部屋の中に漂う冷気から逃れようと足早にベッドへ向かう。


 その碧海の肩を、誰かがつかんだ。


「えっ――」


 悲鳴は音にならなかった。

 振り返った碧海の口を真っ黒な革手袋が塞いだのだ。強引に部屋の外へ連れ出される。


――や、やばい!


 何が起きているのかは分からない。

 一つ分かることがあるとすれば、このままでは殺されてしまうということだけだ。


 碧海は必死に両手をばたつかせた。

 この不気味な男を倒す必要はない。距離さえ取れれば、大声を出して助けを呼ぶことができる。


 だが、襲撃者の力は圧倒的だった。


「んぐっ!?」


 身長が一八二センチある碧海はそこそこ力もあるはずなのに、いとも簡単に壁に押し付けられてしまった。胸と腹を強く圧迫されているせいで息ができない。


「た……」


 助けて、とすら言えない。

 口から漏れるのは、出て行くばかりで一向に入ってこない貴重な空気だけだった。


 酸欠で意識が遠のく。


「――すぐに死なせてやろう」


 突然、耳元で優しささえ感じられるような囁き声が聞こえた。


――あ、あれは……っ!


 碧海は目を見開いた。視界に銀色のものが映りこんでいる。それは廊下の足元灯に照らされておぼろげに光っている。


 ナイフだ。

 大振りのナイフを見せつけるように傾けてから、男は銀色に波打つ刃を碧海の喉にあてた。


 ひんやりとした冷たさが、ぼやけた意識を切り裂く。


――怖い、死にたくない……!


 そう願うのに、酸素を失った体はぴくりとも応えてくれない。


 ナイフが皮膚に食い込む。

 痛みと恐怖、そして絶望の色が碧海の視界を縁取る。


――こんなところで、死……。


 諦めの混じった碧海の思考は無遠慮に遮られた。

 遮った相手は、痛みでも恐怖でも、死そのものでもない。


「おい」


 聞き覚えのある声が、男を挟んだ碧海の正面から聞こえた。


「俺の知り合いに何してくれてる」


 地を這うような迫力のある低音。


 碧海は、この声が彼の地声であることを知っている。

 渡利と同じく笑い上戸なのに、声のせいで怒っていると勘違いされることも少なくないと悩んでいるのも知っている。


「かま……」

「そこら辺に転がってろ」


 かすれた声で呼びかけると、竹刀を肩に担いだ鎌田はにやりと笑った。


「俺が片を付けてやる」


 襲撃者の判断は早かった。酸欠で使い物にならない碧海をその場に放置し、鎌田に向けてナイフを構える。

 黒いレインコートを身に纏う姿は、闇そのもののようだ。


 一方の鎌田は悠然と剣先を揺らしている。


――な、ナイフを持っている奴が相手じゃ……!


 そんな碧海の心配は杞憂に終わった。


 鎌田は剣先で一度二度と床をたたくと、狭い廊下で上段に構え、目にもとまらぬ速さで男に迫った。男はすんでのところで竹刀を弾いたが、鎌田はその勢いを利用して腕を大きく振り回し、男の首筋を打ち抜きにかかる。


「さあさあ、これからだぜ!」


 次いで、放たれた矢のごとく正確無比な突きをお見舞いする。男は体を反らして躱す。


 鎌田はにやりと笑い、一歩後退した男に向かって挑発するように首を傾げた。


「防戦一方だな?」


 そんな鎌田の挑発に乗ったか、それとも早々に決着をつけようと覚悟を決めたか。

 ついに襲撃者も戦いの舞台に上がった。


 襲撃者は音もなく鎌田に迫ると、手の中でナイフを逆手に持ち替えた。続いて地面に突き刺すよう振り下ろす。その速さは今までとは段違いだ。

 それを鎌田も悟ったか、表情を引き締めてナイフをかわそうとする。


 そのとき碧海は、襲撃者がマスクの奥で笑ったのを確かに感じた。


「防戦一方だな?」


 襲撃者が囁いた。

 言葉選びからイントネーションまで、鎌田が放った挑発とまるで変わらない。


「……ああ?」


 男の言葉に意識を削がれ、鎌田のナイフへの反応が遅れた。

 振り下ろされる途中で軌道を変えられたナイフが、今度は鎌田の右目を狙って突き進む。


 鎌田の顔に焦燥感が滲んだ。


「まずった」


 だが、鎌田は下がらない。あえて切られるように身を乗り出す。


 鋭い切っ先が目玉に迫ったその瞬間、鎌田は刃を素手で鷲掴みにした。


「ナイフなら何でも切れると思ってんなら、大間違いだぞ」


 鎌田はおちょくるように言い放った。それと同時に襲撃者を突き飛ばし、間髪入れずに突きを放つ。

 これは男も避けきれなかったようで、見事に額のど真ん中に命中した。


「…………」


 鎌田の手には血の一滴もないが、男の額からは一筋の血が流れていた。あまりに突きが強烈だったために皮膚が切れてしまったらしい。


 暗視ゴーグルをつけているせいで分かりづらいが、男の動きには確かな動揺が現れている。

 その視線が碧海の方を向いた。


「ひゃっ……」


 荒事にはまるで縁がない碧海でさえ気圧されるほどの、ものすごい殺気が男から放たれている。

 それを剣道歴十数年の鎌田が感じてないはずがないのに、彼は臆せず碧海と男の間に割って入った。


「帰れよ」


 鎌田は低い声で言い放った。


 数秒の沈黙。


「…………」


 男は黙って首を振ると、踵を返して脱兎のごとく駆け出した。

 足元灯にぼんやりと照らされる真っ黒な姿は、まるで影が意思を持ってうごめいているようである。


 その姿が廊下の角に消えると、鎌田は気の抜けた顔で碧海を見た。


「おう、生きてるか?」

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