第54話 「銀刃の輝き」
「庄司さんが、どうして今になって……」
「きみなら、考えれば分かるのではないか?」
キョウロウが、子供になぞなぞを出す父親のように頬を緩める。
碧海はゆるゆると首を振った。
「分かんない……分かるもんか……」
「何も知らないまま殺されるのか?」
キョウロウの膝の上でナイフが光った。結城の血はすでに拭き取られていて、新品のように磨き上げられている。
「今のきみの無様な姿を見たら、叔父上もさぞ情けなく思うだろうな」
「……そんな安っぽい挑発には乗りませんよ」
「挑発? そんなつもりはない」
意外だとばかりに眉を吊り上げる。
「私はきみに敬意を表している。生ける屍のようになってほしくはないのだ」
「どうにしろ、僕を殺すんだろう」
「そう腐らないでくれ」
一拍おいて、キョウロウは何気なく言った。
「考えてごらん」
碧海ははっと顔を上げた。キョウロウを凝視する。
「今、なんて言った」
「な、なんてって……考えてごらん、と」
碧海の突然の豹変に、キョウロウは珍しく狼狽えている。
碧海は外れることのない結束バンドを思いっきり引っ張ってもがいた。
「なんでお前がおじさんの口癖を知ってるんだよ!」
数学者であると同時に教授でもあった神谷は、問題を提示してすぐに『さあ、考えてごらん』と思考を促した。その間、ちらちらと生徒の表情を確認し、途方に暮れている様子だったらヒントを囁く。もしサボっているだけなら、何時間でも知らないふりを貫き通す。
普段から穏やかで、あまり社交的とは言えない性格をしていても、このやり方だけは決して譲らなかった。
『考えることをやめちゃだめなんだよ』
難問を前にして頭を掻きむしる碧海を、神谷はそう諭した。
『だから、まずは考えてごらん。なんでもいい。なんなら、素数を口にするだけでもいい。ぼんやりしてしまったら、もう一度エンジンをかけ直すのは至難の業だよ。』
神谷の無邪気な微笑みがよみがえる。
大人のようで、少年のようで。生徒にからかわれてすぐに顔を赤くする神谷は、碧海以上に純粋だった。
「くそ……」
偶然だということは分かっている。碧海に推理させたいキョウロウが、たまたま神谷の口癖を口にしただけなのだということは、理性では分かっているのだ。
だが、感情がそうはさせない。
全身がかっと熱くなり、碧海は肘掛けを強く握りしめた。
「もう、二度と言うな」
キョウロウはあっけにとられた様子だったが、ほどなくして嗜虐的に顔を歪ませた。
「考えてごらん、か。他人任せであり、放任主義的でもある言葉だな。大学教授ともなれば、給料はかなりの額になるだろう。適当な問題を出して、考えてごらんと一言いうだけで金がもらえるのだから、楽な仕事だ」
「黙れよ! おじさんはお金のために仕事をしてたんじゃない! 数学の楽しさをいろんな人に知ってもらいたくて、教授の道を選んだんだ!」
「本当にそうか? うわべだけの建前ではないのか?」
「違う、おじさんは……」
「おじさんは、おじさんは」
反論しかけた碧海に、キョウロウはずいと顔を近づけた。
「きみの言うおじさんは、ただの理想像じゃないのか? 知的で、優しくて、かっこいい僕のおじさん。自責の念に思い悩むあまり、叔父を無駄に神格化していないか?」
こわばっていた体から力が抜けた。
反論ができなかった。
――だって……おじさんは……。
本当に、神谷はそんな立派な人間だったのか。
考えれば考えるほど、記憶がぐちゃぐちゃに入り乱れる。
今や碧海のものとなっている、穏やかなあの話し方は。
問題を解いている間、ちらちらと碧海の顔を見ながら歩くあの姿は。
間違った答えを出すと、少し困ったように笑ったあの顔は。
本当に、神谷のものなのだろうか。
――…………。
碧海はうつむき、その姿勢のままつぶやいた。
「事件が起こってから、約三年がたった。事件当時、庄司さんは十九歳だった」
高校卒業後、大学には進学せず、そのまま父親の運送会社を継ぐつもりでいたらしい。父親が引退するまではドライバーとして働き、おいおいは副社長として経験を積むつもりだったという。
今から三年前、成人年齢はまだ二十歳で、十八歳と十九歳に適応される特定少年というくくりも存在していなかった。当時十九歳だった庄司は、未成年ということで実名報道されず、父親の名前ばかりが盛んに報道されていた。
「庄司さんは、僕を恨んでいたんだ。僕やおじさんが、あの時あの場所を歩いていなければ、こんな大事にはなってなかったって」
中学生の甥を残して、大学教授であった男性がトラックに轢かれ死亡。
神谷が名の知れた数学教授だったこともあって、事件は大々的に報道された。碧海がただ一人生き残ってしまったことも、事件に悲劇的な印象を与える大きな一助となったのだろう。
もともと零細企業に近い中小企業であった庄司の運送会社は、世間的な大バッシングを受けた。誹謗中傷やクレームが後を絶たず、顧客も激減したらしい。
そんな苦境に耐えるほどの資金を持ち合わせていなかった庄司の会社は、あっという間に破産した。
あとに残されたのは、ぼろぼろの社屋と莫大な借金だけ。
トラックを運転していた張本人である庄司は、それを碧海と神谷のせいだと考えたのだろう。事件が起こってから、ずっと碧海を恨み続けていたのだ。
「だけど、庄司さんは未成年だった。復讐をしようにも、いろんな制限がかかっていた」
だから、待たなければなかった。成人して一人の人間として独立し、復讐に必要な資金をかき集めるために。
「キョウロウさん、あなたは殺し屋なんでしょう?」
確信に近い碧海の問いに、キョウロウはひとつうなずいた。
「隠すまでもない」
「庄司さんは、三年もの時をかけてかき集めたお金を持って、あなたに殺しを依頼した。……自分の人生を破滅に追いやった、僕の殺しを」
光をも吸い込まんとする黒い塊が脳内で渦巻く中、散らばっていたピースが一つずつつながっていく。
「でも、あなたは一度僕の殺害に失敗した。それを知った庄司さんは、これじゃまずいと思ったんだ。そこで次に彼が頼ったのが、ヤクザたちだった」
そのヤクザたちは、自分たちの舎弟に仕事をさせようとした。だが、これもキョウロウと同じく失敗し、仕方なく本人たちが出張ってくるも、これまた殺すには至らなかった。
キョウロウは苛立ったように舌を鳴らした。
「勝手にヤクザなどを雇ってくれたせいで、殺害のタイミングをいくつか逃してしまった。失敗をすることはあるが、最後には必ず仕留めると伝えたんだがな。勝手なことをしてくれる」
殺し屋の機嫌を損ねることは得策とは言い難い。復讐で目が曇っていたのかもしれない。碧海が殺せれば、殺したのが誰であろうとどうでもよかったのだろう。
「これが、僕が三回も襲われた謎の答えだ」
絡まっていた糸のうち何本かが解けた。だが、それでも複雑に入り組んだままの糸はまだ残っている。
その中で最も太く、そして最も絡まっている糸。
渡辺万太殺害の理由である。
「…………」
碧海はゆっくり息を吐き出した。キョウロウが興味深そうに見つめている。
その時、ずきずきと痛む頭からすっと痛みが引いた。
「もう、殺してください」
キョウロウの表情は変わらない。そう言われるのが分かっていたかのように。
「分からないんだ、何もかもが」
神谷の本当の姿も。
自分が生きる意味も。
「まだまだ謎は残っているぞ?」
キョウロウが影のように立ち上がる。
碧海は気の抜けた笑みをこぼした。
「確かに。……でも」
笑みは、吐き出される息のように儚く霧散する。目を閉じると、心地よい睡魔が襲ってきた。思ったより頭部のダメージが大きかったのかもしれない。気を保つので精一杯だ。
「でも、僕には関係のないことだ」
キョウロウが声を上げて笑った。
「そうか。……最期に、何か欲しいものは?」
なにも、と言いかけた声はかすれていた。
碧海はうっすらと目を開け、キョウロウを見上げた。
「水を」
「幸い、手持ちがある」
キョウロウは立ち上がり、碧海の視界から消えた。ガタガタと何かを動かす音が聞こえた後、水入りのペットボトルを持って戻ってくる。これから殺す相手とは思えないほど丁寧な手つきで口に当て、ゆっくりと傾ける。
びっくりするほど冷たく澄んだ水が口内に流れ込むが、乾いた喉はそう簡単に受け付けてくれない。思わずむせてしまった。
「ゆっくり飲め」
キョウロウは穏やかに言うと、再びペットボトルを傾けた。今度こそ喉に水が流れる。
喉が渇いていたせいか、しばらくの間は水がざらついているように感じた。
「満足か?」
最後に残った水を、口の中で転がす。それを嚥下し、碧海はこくりとうなずいた。
キョウロウがペットボトルを床に置く。
「きみをここに招待してから、私はますますきみに対して敬意を抱くようになった」
「……そりゃ……どうも」
「レンチで打たれても、質問に答えろと彼に強制することはしなかった。私が提示した数少ないヒントから、事実を導き出した。賞賛に値することだ」
ナイフが輝く。
「きみと出会えて楽しかったよ」
キョウロウは息を吐くように笑い、ナイフを首にあてた。
痛みはない。
睡魔にも似た、強烈な意識の暗転が碧海を襲った。
キョウロウの笑みが、最後まで視界に残り続ける。
ナイフがすっと動いたところで、碧海の意識はぶつりと途絶えた。
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