第52話 「デッドヒート」

 久瀬は大きくうなずくと、どすどす音を立てて歩き始めた。一歩一歩がとにかく大きいため、神楽は小走りで彼の後を追う。


 夏目の部屋を訪れたときと同じように玄関を抜けると、寮の敷地外に一台の車が停まっていた。黒塗りのセダンで、夜闇に程よく溶け込んでいる。その後ろにもう一台控えているが、神楽は電話口で言われたとおり最初の一台に近づいた。

 神楽が窓をたたこうとすると、ひとりでに扉が開いた。


「神楽さんですね」


 精悍な顔つきをした二十代前半くらいの青年が、運転席でハンドルを握っていた。人のよさそうな笑みをのぞかせていて、とても向こう側の人間には見えない。


「あなたは?」

鷹山たかやま洋太ようたです。伊達さんから話は聞いています。指定された住所まで送り届けてほしいとか」

「はい。ここに」


 神楽は住所が書かれたメモを鷹山に手渡した。


「よし……それじゃあ、乗ってください」

「よろしくお願いします」


 久瀬とともに乗り込みながら、神楽はひそかに苦笑した。


「女性っていうのは、恐ろしいですねえ」


 女性というか、恋する女性というか。ファンクラブ会員たちはどうやって荒川の住所を知ったのだろう。荒川から住所を引き出したのか、それとも尾けたのかは分からないが、その執念は尊敬に値する。

 神楽のつぶやきを聞きつけたか、後部座席のほとんどを占領している久瀬ががりがりと頭を掻いた。


「ホント、絶対に女子は怒らせない方がいい。双葉とか、下手に怒らせるとセメント浸けにされるからなあ」

「またまた御冗談を」

「コンクールに何を提出するかで揉めたとき、無言でセメント練り始めた」

「おっと、なかなかエキセントリックですね」


 エキセントリック、などという言葉でまとめられるものかはさておき、そのセメントが正しく芸術に使われたことを祈るばかりだ。


 軽くGを感じるほどのスピードを出して車を走らせていた鷹山は、神楽たちの世間話を聞いて笑った。


「個性的な彼女さんをお持ちのようで」

「かっ、彼女なんかじゃねえ!」

「とても美人なんですよ」

「竜さんまで!」


 久瀬は顔を真っ赤にし、頭を抱えてしまった。巨体に見合わず、繊細な心の持ち主なのである。


「すみません、からかいすぎましたね」

「まったくだよ! いいか、双葉はあくまで友達でな……」


 久瀬が大きな声でまくし立てる。聞き手は微笑ましそうにうなずいている鷹山に任せ、神楽はすごいスピードで過ぎ去っていく景色に目を向けた。


――荒川さんの名を言い残したからには、彼が犯人だと考えているんだろう。


 碧海の優れた思考回路が、渡辺万太殺しの犯人に荒川の名を導き出したのは確かだ。

 しかし、荒川の家で何を探せというのだろうか。まさか血の付いたナイフがあるわけでもあるまい。渡辺万太は殴り殺されたというから、証拠があったとしても、血痕が染みついた警備服くらいだろう。そしてそれは、とっくに燃やされるか埋められるかしているはずだ。たとえ保存していたとしても、見つけ出すのは容易ではない。


――いや、碧海くんが『家』と言ったからには、何かあるんだ。


 少なくとも碧海は、荒川を犯人たらしめる証拠が残っていると判断したのだ。


「あと一分くらいで到着します」


 ドリフトで角を曲がった鷹山がこともなげに言った。


「じゅ、十五分どころか十分弱で着くとは」


 右折するために対向車線に侵入したり、赤信号を無視して突っ切ったりしたのだから、納得の速さではあるのだが。


 肘掛けを握りしめながら、神楽は何度目かも分からないドリフトに耐えた。


「うおっ、こいつはやべえぞ……」


 さっきまで顔を真っ赤にしていた久瀬は、一転して顔面蒼白である。助手席に座る神楽でさえ目が回りそうになるほどなのだから、より遠心力の影響を受ける後部座席にいる久瀬はたまったものではないだろう。


 二人して必死に揺れに耐えていると、ようやく車が減速した。


「この辺りかな」

「そうみたいですね」


 電柱に取り付けられた看板に、荒川の住所と近い番地が記されている。周辺は店と住宅が混在しており、まだ営業中の店も多い。


「ここからは歩きで行きます」


 佐川が三宅から聞いた話だと、今現在、荒川は学校で勤務中らしい。飛騨が代理で寮の管理人を任されたため、夜間の警備を荒川が担当することになったのだとか。昼間は伊藤と生徒指導の教員が協力して警備に当たるという。


 場合によっては、というかほとんどの確率で、荒川の家に不法侵入することになるだろう。そんな後ろめたいことをするのだから、車で堂々と登場するのだけは避けたい。


「私はこのあたりを車で回っています」

「分かりました。十五分後、またここで待ち合わせましょう」

「では、またのちほど」

「ずいぶん堅苦しいやり取りだな」


 仕返しだとばかりに、久瀬がからかってきた。神楽としては平常運転だが、鷹山の方がヤクザらしからぬ物腰の低さなのである。伊達からきつく言い聞かせられているのかもしれない。あるいは、伊達に堂々と頼みごとをした神楽たちに一目置いてくれているのか。


 とりあえずは仕返しに満足したらしい久瀬が、巨体で押すようにしてドアを開いた。腰をかがめて出ようとするが、自分の体の大きさを考えに入れなかったようで、額をぶつける鈍い音がした。


「痛って……」


 久瀬が額を押えて車内に戻ったその時、発砲音が聞こえた。開けっ放しのドアの窓に小さな穴があく。

 きょとんとした顔の久瀬が穴に触れると、穴を中心に蜘蛛の巣のようなヒビが広がり、儚く砕け散った。


 沈黙が訪れる。


「ドアを閉めてください!」


 先に我に返ったのは鷹山だった。久瀬に向かって怒鳴りドアを閉めさせると、タイヤを空回りさせながら急発進する。


「な、何が起こったんだよ!?」


 後部座席でひっくり返っている久瀬が喚いた。頭をぶつけるという偶然のアクシデントがなければ、銃弾の行きつく先は間違いなく久瀬の脳天だっただろう。


 鷹山はハンドルに覆い被さるようにして運転している。


「どうやら、親っさんをよく思わない連中に見つかってしまったようです」

「親っさんって、伊達さんですか?」

「はい。あの人のやり方に疑問を呈する組員は少なからずいます。それに……」


 鷹山はちらりと神楽に視線をやった。


「彼らはあなたの友人の殺しに失敗した。親っさんに見つかれば、ケジメを取らされるのは間違いありません」

「なるほど、その人たちも必死ということなんですね」

「たぶん、親っさんの方にも刺客が行っていると思います」

「まあ、向こうは大丈夫でしょう」


 神楽がすまし顔で言うと、鷹山は不敵に笑った。


「親っさんがあなたたちを気に入った理由がわかりました」

「ちょ、ちょっと待てよ! あっちには景虎たちもいるんだぞ!」

「大丈夫ですよ」


 ミラー越しに、神楽は久瀬に微笑みかけた。


「向こうはそうやわじゃありませんから。むしろ心配すべきなのは……」


 再び響く発砲音。金属に当たって跳ね返る音がする。


 神楽は首をすくめた。


「心配すべきなのは、僕らの方ですよ!」

「掴まっててください! 広いところまで移動します!」


 住宅街とまでは言わずとも、この辺りにはそこそこの数の家屋がある。まさか銃撃戦を始めるわけにもいかないだろう。

 あいにく、相手にそんな配慮はないようだが。


 鷹山は車を大きく蛇行させながら道路を疾走した。そのおかげで銃弾はほとんど当たらずに済んでいる。


「この先に田んぼがあったはずです!」


 神楽は銃声のさなかに叫んだ。ところが、返事はない。


「鷹山さん?」


 追尾してくる車から目を逸らし、運転席に目をやる。ハンドルに飛び散った真っ赤な鮮血。

 鷹山が苦しげに顔を歪めていた。


「鷹山さん! 被弾したんですか!?」

「連中の射撃の腕なんて、たかが知れてる……私の運が悪かったみたいです」


 鷹山は無理やり笑い、銃弾が貫通した右肩をだらりと垂らした。片手運転には慣れているようだが、痛みで運転に集中できないらしい。

 肩を貫通した銃弾はフロントガラスにめり込んでいた。肩に当たった衝撃で威力が弱まり、フロントガラスを粉砕するには至らなかったのだろう。それにしたって、人体を貫通する威力を持つほどの銃だということに変わりはないのだが。


――貫通したのって、まずいんじゃないか?


 銃弾が体内にとどまっていれば、それが栓になって出血を抑えられる。しかし、貫通してしまった鷹山の右肩からは、流れのきらめきが見て取れるほど大量の出血があった。失血によるショック状態に陥るのも時間の問題だ。


「竜さん、どうすんだ!?」

「た、鷹山さん、この車に武器は?」

「……テーザー銃が一丁」


 頼もしい限りだ。


 鷹山はうめきながら右腕を伸ばし、ダッシュボードを開けた。中に銃口が四角い形をした黄色い銃が入っている。アメリカの警察なんかが使っている、スタンガンの拳銃版のようなものだ。


「とにかく……安全なところまで……」


 鷹山はつぶやいたが、彼の言う『安全なところ』にたどり着くまで意識が持つとは思えない。

 頭を必死に回転させるが、そう都合よく解決策が思いつくわけもない。その間も、車が銃弾を跳ね返す音が断続的に聞こえる。


 その時、久瀬が助手席に身を乗り出した。


「……竜さん、そいつを貸してくれ!」

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