第48話 「過ぎ去りし日々」

 そう囁いて、神谷は楽しそうに体を揺らした。


 その日から、碧海は毎日のように大学を訪れた。

 始めは苦い顔をしていたほかの教授や大学生たちも、徐々に碧海を受け入れるようになり、時間が合ったときなどは講義室で一緒に勉強をすることもあった。


『祥寿くん、二次方程式を教えてあげるよ』

『祥寿! 次は三次方程式やろうぜ』

『微分積分もやろう』


 数学者としての血を引いているおかげか、数学に関しては異常に呑み込みが早かった碧海に感心して、大学生たちは次々と難しい内容を教えてくれた。


 大学に忍び込んでから五年以上がたち、中学二年生になった碧海は、現役の数学科所属の大学生にも負けないいっぱしの数学者になっていた。


『恐れ入ったな。てっきりスポーツに夢中になっちゃうんじゃないかと思ったよ』


 神谷は嬉しそうに、いつの間にか十センチ以上の差が生まれた碧海の頭を撫でた。そのころにはあと少しで一八〇センチになろうかというころで、運動部から熱心に勧誘の声がかかっていた。


『全部断ったよ。部活やってたら、ここに来れないし』

『体を動かすのも勉強だよ』

『おじさんは動かしたことないくせに』

『む、言うようになったな。さあ、考えてごらん』


 そんなことを言い合いながら、夕飯の時間まで講義室にこもるのが日課になっていた。


 そんなある日の夜。


 いつものように日が暮れるまで大学に入り浸っていた碧海は、雨粒が窓をたたく音で我に返った。


『雨だ……』


 しばらく前から降っていたらしく、コンクリートの地面には大きな水たまりができていた。まるで台風のような天気で、月明かりの一つもなく、空は黒雲に覆われている。


『あ、傘忘れた』

『どうした?』

『いや、傘忘れちゃって』

『それじゃあ、僕が車で送るよ。どちらにしろ、こんなに荒れた天気の中を歩かせるわけにはいかないしね。さあ、これ以上ひどくなる前に、早いところ切り上げよう』

『うん』


 雷も鳴らず、風も吹かない。ただ大粒の雨だけが降る、不思議な天気だった。


『駐車場まで走るぞ! 転ぶなよ!』


 雨音に負けないように声を張り上げ、傘を持った神谷は駐車場に走った。

 借りたもう一本の傘の下で首をすくめながら、碧海もその後を追う。


 正門を抜け、駐車場に向かう。駐車場は大学の敷地の隣にあり、一度正門から出る必要があるのだ。


『おじさん!』


 豪雨の中、不意に置いて行かれるような感覚を覚え、碧海は叫んだ。

 数メートル先を歩いていた神谷は立ち止まり、不思議そうな顔をして振り返る。


『どうした?』

『ちょっと待っ――』


 急ブレーキを踏む音が碧海の言葉を遮った。


 まぶしい光が視界を埋め尽くし、思わず目元を手で覆う。


『祥寿!』


 神谷の切迫した声が聞こえたときには、目に前に横転したトラックが迫っていた。


『な、なんで……』

『祥寿!』


 警告の声が、怒鳴り声に変わる。


 トラックが横滑りする。


 すぐ目の前に焼けたゴムのにおいを発するタイヤが迫る。


 神谷が叫ぶ。


 突き飛ばされた次の瞬間に頭をひどく打ち付けた碧海は、そこで意識を失った。

 神谷の姿は、トラックの陰に隠れて見ることすらかなわなかった。



「トラックが横転した原因は、整備不良によるタイヤの摩耗だった。そこに予期せぬ大雨が降り、スリップしてしまったそうだ」


 碧海はゆっくりと記憶の海から浮上した。目の前で語るキョウロウが神谷の姿と重なり、強く頬の内側を噛む。


 キョウロウは興味深そうに碧海を眺めまわした。


「きみはトラックを運転していた運送会社のことをどう思っているんだ? 叔父を殺した張本人と言っても過言ではないのだぞ」


 そのことに関しては、当時から結論が出ている。


「運送会社は何も悪くない。整備を怠っていたのは悪かったかもしれないけど……それは直接的な原因じゃない。わざわざ僕の家まで来て土下座して、裁判もきっちり出席して、お金も払って……」


 運送会社の社長は、どこにでもいそうな中年の男だった。部下が引き起こした事件とは言え、責任は社長が負わなければならない。額に汗を浮かべ、碧海の家を訪れて早々に頭を床にこすりつけた。

 話を聞けば、整備不良の実態を社長は知らなかったらしい。怠慢な部下が、上司に内緒で仕事をサボっていた結果だった。その部下というのが、社長の息子だったというのだから、社長本人にしてみればやるせない気持ちだっただろう。


「だから、運送会社は……もういいんだ……」


 キョウロウは眉をひそめた。


「何を言っている? 九割九分、運送会社側が悪いだろう」

「違う……違うんだ!」


 碧海はかすれた叫びを漏らした。


「僕があの場にいなければ! あの時、僕が大学にいなければ、おじさんは外に出ることもなかったんだ。僕がおじさんに無理を言って、大学に入り浸ったりしなければ、僕があの日いることはなかったんだよ! 僕が――」


 頭痛がする。レンチで殴られた場所ではない、頭の奥深くがひどく痛む。


「僕が、勉強をしようなんて思わなきゃよかったんだ!」


 神谷が死んだ日から、碧海はまったく考え事ができなくなった。特にひどかったのが数学に関することで、数式を見ようものなら吐き気が止まらなかった。


『祥寿くんのせいじゃない!』

『あなたのせいじゃない、大丈夫』

『お前のせいじゃない! あれは事故だ』


 葬式の場、茫然自失とする碧海に、参列した大学生たちが次々と言葉をかけてきた。

 だが、どれも碧海の耳には届かなかった。


「全部、僕のせいなんだ」


 鉛筆やシャーペンを握ると手が震えるようになったのも、この事件が原因だ。静寂の中、筆記用具を手に問題用紙と向き合うと、否が応でも神谷との記憶がよみがえってきて、テストどころではなくなってしまう。

 事件直後は名前すらも書けず、白紙の解答用紙をそのまま提出したこともあった。


「どうだ、これで満足かよ。人の傷口えぐって、楽しいか!」


 碧海がうなると、キョウロウの顔が嗜虐的に歪んだ。


「なんで私がこの話をしたか分かるか?」

「僕に興味があるんだろ」

「それだけじゃない」


 キョウロウはずいと身を乗り出した。


「ある人物は、きみを殺したいほど憎んでいる」

「だ、誰なんだよ」


 教えてくれるわけがないと知りつつ、そう問い返す。


 キョウロウは、口角が耳元まで届くのではないかというくらい、三日月のように唇を湾曲させた。


庄司しょうじ智則とものり


 碧海は眉根にしわを寄せた。どこかで聞いたような気がしなくもないが、いまいち思い出せない。


 苛立ったように息を吐いたキョウロウは、緩慢に立ち上がった。


「こう言えば分かるか?」


 誕生日プレゼントを与えられた子供の反応を楽しむように、瞳が輝いた。


「きみの叔父を殺した運送会社の社長」


 誕生日プレゼントの中身は毒蛇だったらしい。


「その、息子だ」


 毒蛇どころではない。

 プレゼントは、パンドラの箱そのものだった。

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