第47話 「火は消える」
目を見開いた結城が、血で弧を描きながら地に伏した。
「結城くん!!」
碧海は絶叫した。
モニターから結城の姿が消える。
――……ああ。
猛烈な倦怠感が全身を襲い、碧海は椅子の上で脱力した。痛みと絶望が視界を狭めている。点のようになった世界に映るのは、無機質な灰色のコンクリートだけ。
――結城……。
特別仲が良かったわけではない。寮ですれ違えば挨拶をする程度、学校では顔を合わせることも滅多になかった。
だが、この世に結城を嫌う人間は一人とて存在しないと断言できる。内気で泣き虫で、あまり自分の意見を主張しない。それなのに、結城からは不思議な芯の強さを感じた。絶対に間違っていると確信した時には、相手が歳上であろうとなんであろうと、少し震えた声で反論する。
そんな結城が死んだ。
――僕のせいで。
碧海はぎゅっと目を閉じ、頭を貫く痛みに耐えた。太い杭を打ち込まれているような感じがする。
「さて」
キョウロウの声。満足そうに、わざわざ運び込んできた正面の椅子に座る。
「少し、きみの話をしよう。追っ手の姿はないからな」
碧海はぼんやりと殺人鬼の姿を眺めた。
「なんで、言い切れるんです」
「追っ手の姿がない、ということをか? 簡単なことだ」
キョウロウはレインコートのポケットを叩いた。
「ここに見覚えのないスマホが入れられていた。おおかた、きみの友人がどさくさに紛れて忍ばせたのだろう。ここに来る途中、すれ違った軽トラの荷台に投げ込んでおいた。スマホの持ち主は見当違いの方向に向かうだろう」
風前の灯であった希望が、ぼっと音を立てて消えた。スマホを忍ばせたのはおそらく神楽だ。一か八か飛びかかった時に滑り込ませたのだろう。
「よって、じっくりと話ができる。個人的に、私はきみに興味があるのだ」
「僕の……何に興味があるんですか?」
頭が痛い。キョウロウが軽く応急処置をしてくれたが、痛み止めまで振る舞う気はないようだ。
「きみの過去と言えば分かるか?」
「誰にだって過去はあります」
碧海は投げやりに答えた。何もかもが億劫になってくる。
「それでは、言い方を変えよう。きみの叔父のことだ」
その一言に、心臓がひときわ強く脈打つ。
「黙れよ! それ以上言うな!」
碧海は喚いた。その拍子に喉を痛めてしまい、横を向いて何度もせき込む。
ようやく咳が収まり、荒く息を繰り返していると、キョウロウが再び口を開いた。
「きみの叔父は、今から約三年前に死んだそうだな。今日のように、指先がかじかむような寒さの日。ただし、雪の代わりに雨が降っていた」
「詩的だな」
碧海は吐き捨て、キョウロウを睨みつけた。
「何が言いたいんだ」
「きみの過去を知りたい、それだけだ」
心外だとでも言いたげにキョウロウは肩をすくめた。その余裕綽々な態度が癪に障る。
碧海が苛立っているのを知っていて煽ろうとでもいうのか、キョウロウはさらにゆっくりとした口調で続けた。
「きみは天才だった。数々の輝かしい成績を残した。特に数学が得意だったそうじゃないか。ジュニア数学オリンピックでの金賞受賞や、そろばんの大会でも優勝を飾ったとか」
「……さっきあんた自身が言った通り、それは過去の話です。三年前までの僕と今の僕は違います。珠の弾き方なんて、とっくに忘れてしまった」
「過去の上に今がある。そうだろう? 過去の出来事が、今のきみを創った」
碧海は長く息を吐き出した。
キョウロウは間違っている。
碧海は決して天才などではなかった。ただ人より好奇心が強く、疑問を解消するためならどんな努力も惜しまなかっただけだ。
そして何より、一人で抱え込みたがる碧海を支えてくれる人がいた。
それが、碧海の叔父にあたる人物、
名は体を表すという言葉の通り、神谷は頭が良く、とある大学の教授として働いていた。その傍ら、数学者として数々の論文を発表しており、数学の世界ではそこそこ名の知れた存在だったという。
碧海と神谷の関係は不思議なものだった。正月だけ顔を合わせる遠い親戚のような関係でもなければ、ことあるごとに顔を合わせる祖父母のような関係でもない。
形容するならそれは、教師と生徒の関係だった。つかず離れず、適度な距離を置いて一日を過ごす。
碧海は、そんな知的な神谷が大好きだった。
いつの日だったか、幼かった碧海は、神谷に会いたいばかりに彼の勤める大学に忍び込んだ。子供ながらにいたずら心を働かせ、大学生の間を抜けながら教室を探し回った。
だが、大学は小学校とはわけが違う。いくつもの建物が連立し、一つの地区ほどの大きさを誇る校内で、いつしか碧海は自分の居場所を見失ってしまった。
窓から差し込む橙色の夕日が影を大きく伸ばしていて、恐ろしくてたまらなかったのを覚えている。
『おじさん!』
人気のない廊下で叫ぶも、返事はない。影は少しずつ長くなり、ついには橙色の光が青白く色を失い始めた。
『誰かあ……』
ぽろぽろと涙を流しながらつぶやいたとき、耳に足音が届いた。こつ、こつ、と近づいてくる革靴の音。
薄暗い廊下で恐怖心を募らせていた碧海は、悲鳴を上げてがむしゃらに走った。
やがてたどり着いたのは、長い廊下の突き当り。はめ殺しの窓があって、満月がぽっかり浮かんでいるのが見えた。
足音は近づいてくる。
月明かりに照らされたのは、懐中電灯を持った警備員だった。
『きみ、ここで何をしてる?』
不気味に照らされた警備員をお化けかなにかと勘違いした碧海は、訳も分からないまま再び走った。立ちふさがろうとした警備員の股下を抜け、手当たり次第に角を曲がって警備員から距離をとろうとした。
警備員の怒声を背に角を曲がったのは何度目だったか。
足をもつれさせながら曲がった碧海の肘を誰かがつかんだ。
『ひゃあっ……』
叫び声を上げそうになった口を塞がれ、碧海はすぐそばの部屋に押し込まれた。尻もちをついた碧海の視界に映ったのは、憧れた大人の背中。
『神谷さん、ここに子供が来ませんでしたか!?』
『子供?』
『ええ、ここに忍び込んで……どこに行った?』
『この先は階段です。もしかしたら、校舎から出ようと下に向かったのかもしれませんよ』
『なるほど……もし見かけたら、ご連絡ください』
警備員が走り去っていく。
振り返った神谷は、腰に手を当ててため息をついた。
『やっと捕まえた』
『お、おじさん……』
『ママから連絡があってね。まさかと思って、大学に残って探し回ってたんだよ。校舎越しに見つけたときは、さすがに驚いた』
別の校舎の窓から、途方に暮れて歩き回る碧海の姿を発見したらしい。慌てて校舎に移動するも、碧海はすでに警備員との鬼ごっこを始めていた。碧海と血縁関係にあることがバレたら面倒だと考え、仕方なく先回りをして待ち伏せしていたのだという。
『先回りしたの?』
碧海は縦横無尽に走り回っていたはずだ。待ち伏せしていた場所付近を碧海が通るとは限らない。
怒っているような、安心しているような、そんな苦笑いを浮かべていた神谷は、碧海の手を取って立ち上がらせた。
『何事にも法則性があるんだよ。落ち着いたら、考えてごらん。それより……』
神谷は少年のように首をかしげた。
『どうしてここに来たんだ?』
『おじさんと勉強したくて……』
ぽつりとつぶやくと、神谷は目をしばたかせた。
『僕に会いたかったの?』
『うん』
『参ったな』
神谷は碧海の頭をくしゃりと撫で、微笑んだ。
『また明日、大学の前においで。僕が迎えに行く。そしたら、一緒に勉強しよう』
『ホントに!?』
『ママには内緒だよ』
そう囁いて、神谷は楽しそうに体を揺らした。
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