第46話 「絶望」
碧海は目を覚ました。体を動かそうとするが、手首と足首に違和感を覚え、動きを止める。
見てみると、木製の椅子に座らせられ、足首は椅子の脚に、手首は肘掛けに結束バンドで拘束されていた。
――ここは……。
以前に結城が攫われた倉庫のような場所だ。むき出しの鉄骨に覆われ、冷え冷えとした空気が漂っている。この前と違うのは、碧海が座っている椅子と、正面にある机、そしてその上のモニター以外に物は一切なく、窓すらもないことだった。背後には扉が一つあるが、しっかり鍵がかかっているだろう。
ふと寒気を覚え、碧海はぶるりと震えた。決して周囲を取り囲む冷気のせいだけではないだろう。
不安が、恐怖が、体を芯から冷やしていく。
――僕は、何をしていたんだ?
何か、事件にかかわる大事なことに気付いたのは覚えている。だが、そこから先の場面が一切浮かんでこない。
なぜ記憶の欠損が起こったのか、その理由は頭蓋を貫く痛みが教えてくれた。
――殴られたからか……。
こうして厳重に拘束されているところを見るに、何者かにさらわれたのだろう。その何者かは、拉致するときに碧海の頭を殴って気絶させたのだ。殴られた場所が良くなかったのか、その前後の記憶が失われてしまったらしい。
だだっ広い草原に一人置いて行かれたような心細さが襲う。
失われた記憶はほんの数分にしか満たないはずなのに、まるで自分そのものが欠けてしまったように感じる。
碧海はぎゅっと目を閉じて、埋もれた記憶を掘り起こそうとした。
まだ鮮明な昨日の記憶から、少しずつ時を進めていく。
——ああ。
ひどい頭痛と共に思い出したのは、この事件の根幹となる真相、そしてキョウロウにさらわれたという絶望的な事実だった。
「起きたか?」
碧海ははっと振り返った。首を曲げた先にあったのは、黒いレインコートを着たキョウロウの姿。サングラスも暗視ゴーグルも、マスクすらもつけておらず、完全に素顔をさらしている。
「ここは?」
「町から外れたところにある倉庫だ。暖房の類はないが、我慢してくれ」
喉がからからに乾く。碧海はつばを飲み込み、どうにか言葉を発した。
「どうせ殺すのに、我慢も何もあったもんじゃない」
キョウロウは驚き顔を作った。
「どうしてそう思う? 大事な客人だ」
「素顔を見せたということは、僕を無事に返すつもりはないってことですよね」
この一文を言い切るのに、何度も唾を飲んだり、咳払いをしたりしなければならなかった。緊張と恐怖でどうにかなってしまいそうだ。仲間がそばにいないだけで、これだけ心細くなってしまうとは。
「……きみを相手に、嘘は意味をなさないようだ」
図星だったらしい。キョウロウは穏やかに笑う。
「だが、今は殺さない。これを見てくれ」
キョウロウが手に持った小型のリモコンを操作すると、目の前のモニターに映像が映し出された。二メートル四方の小さな部屋で、結城が泣きそうな顔をしている。その顔に一瞬驚きが走り、モニターの方に駆け寄ってきた。向こうにも似たようなモニターがあり、こちらとつながっているようだ。
「結城! 大丈夫か!?」
叫ぶが、向こうの声は全く聞こえてこない。どうやら向こうの音声は聞こえないように設定してあるようだ。逆に、こちらの声は届いているらしい。
無力感に歯を食いしばると、キョウロウはモニターに向かって声をかけた。
「聞こえるか? 聞こえていたら、手を握ったり開いたりしろ」
結城がびくりと震える。それから恐る恐るといった様子で、手を握ったり開いたりした。
「きみはすぐに私の質問に答えなかった。少し痛い目に遭っても」
「何だって?」
碧海はモニターに目を凝らした。同じく画面を見つめている結城の右頬が、赤く腫れていた。
「レンチで打ったが、頑として口を開こうとしなかった」
碧海の心情を読み取ったように、キョウロウが補足で説明する。
碧海は口をあんぐりと開けた。
――耐えたのか!
この後輩の意志の強さには、改めて脱帽させられる。
もしかしたら、渡辺万太を自分の手で殺してしまったという思いが、キョウロウでさえ手を焼くような意志の強さにつながっているのかもしれない。
「というわけで、きみ以外の人間に痛い目に遭ってもらおう」
結城が目を見開くと同時に、キョウロウが碧海の口に布切れを押し込んだ。
一秒も間を置かず、こめかみを固い何かが打つ。
「んぐっ!?」
気絶には至らないが、激しい痛みがこめかみから頭全体を駆け抜け、意識が朦朧とする。
ぼやけた視界に映ったのは、銀色のレンチだ。
「早く話した方が、先輩のためだ」
碧海は言葉を発したが、その意味は自分でも分からなかった。どちらにせよ口は塞がれていて、結城に声は届かない。
結城の目から涙がこぼれた。何度も鼻をすすり、じっとモニターを見つめている。
「馬鹿なのか、見かけによらず冷酷なのか」
キョウロウは鼻を鳴らし、再びレンチを振るった。
視界がちらつく。
頭を支えていることができずに、碧海はだらりと首を垂れた。
「まだか?」
そう問う声はまだまだ余裕だ。
三度、レンチが空を切る音がする。
目を閉じて痛みに備えたとき、レンチの側面がこめかみに触れて止まった。
「それでいい」
キョウロウの満足そうな声が聞こえる。のろのろと顔を上げると、結城が必死に両手を開いたり閉じたりしていた。
「それでは、話を聞いてくるとしよう。そこで待っているといい」
キョウロウはレンチを脇に放り、踵を返した。
――ここじゃ、ないのか……。
直接頭に衝撃をくわえられたせいで、思考がなかなかうまくいかない。
だが一つ分かったことは、結城の監禁場所と、いま碧海がいる倉庫は別地点だということだ。
その距離がいかほどかは分からないが、キョウロウの目から逸れた一瞬の隙に逃げ出せるかもしれない。
のろい思考回路を必死に働かせて脱出計画を練っていると、モニターに動きがあった。扉が開き、はっと振り返った結城にキョウロウが立ちふさがったのである。
二人は二言三言、言葉を交わした。
――べ、別の場所じゃ……?
碧海が唖然と目を見開くのと同時に、キョウロウは顔からあらゆる感情を消し去った。
ナイフを手に構える。
碧海は考え違いをしていた。今いるこの倉庫は、一部屋などではない。別の場所に小部屋があり、結城が閉じ込められていたのはそこだったのだ。
「やめろ……やめろ!」
口から布切れを吐き出し、必死に身をよじるが、そう簡単に結束バンドは外れない。何より、まだレンチのダメージが残っていて、思うように力を籠められない。
「やめてくれ……」
碧海のそんな懇願もむなしく、よく研がれた刃が白い光を放った。
鮮血が飛び散る。
目を見開いた結城が、血で弧を描きながら地に伏した。
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