第32話 「大爆発」

 天井まで届きそうなほどの高さがある棚から、渡利が飛び降りてきた。


「ちょ、死ぬぞ⁉」


 合図が聞こえたら来いとは言ったが、ここまでダイナミックな登場をしろとは言っていない。


「大丈夫……やっ!」


 飛び降りる途中で棚に飛びつき、勢いを殺してから再び宙に身を躍らせる。

 男がナイフを引っ込めながら飛び退いた瞬間、その場所に渡利が片膝をついた。


「ええか、こいつはな」


 立ち上がり、膝についた埃を払って笑う。足が震えているのは、着地の衝撃のせいだけではないだろう。


「アホで無鉄砲で、何でも一人で抱えたがるドMの赤点野郎や!」

「アホで無鉄砲はお前だ!」


 そう叫び返しながら、碧海は結城の下に駆け寄った。

 不意打ちには失敗したが、渡利はうまく男の進路を妨害している。だが、あの様子ではそう長くは持たないだろう。今の渡利は、一時的なアドレナリンでどうにかなっているようなものだ。普段は陽気で考えなしのようだが、根は意外と臆病なのである。

 彼の性格を一言で表現するなら、臆病な見栄っ張りだ。


「結城くん、大丈夫か」

「先輩、どうしてあんな……」

「あんな推理ができるのかって? 友達が言うには、僕は覚醒したんだって」

「覚醒どころじゃないですよ!」


 手錠を調べながら会話をする。鍵がかかっていて、引っ張るだけではびくともしない。


――頃合いだな。


 後退するばかりになってきた渡利を一瞥し、碧海は懐から拳銃を引っ張り出した。


「じゅ、銃……」

「目閉じて、耳も塞いで。……渡利、耳塞げ!」


 返事を待たず、手錠がつながれている肘掛けに向かって引き金を引く。

 鼓膜を突き破るような発砲音が轟き、肘掛けが粉々に散った。


「ひゃあ、ほんまひどい音や……あかんあかん……」


 結城を立ち上がらせながら振り返ると、耳を押さえて固まる渡利の姿があった。耳をふさぐのが間に合わなかったか、塞いでもなお鋭敏な耳には響いたか。

 そこに迫る、男のナイフ。


「渡利、こっち来い!」

「耳が痛くてかなわん……」

「こっちの声が聞こえてないのか!」


 広いとはいえ、密閉された倉庫である。音は反響に反響を繰り返して鼓膜を襲う。


 碧海は渡利の方に向かいかけた足を引っ込め、歯を食いしばった。


「結城、行くぞ」

「渡利先輩は⁉」

「大丈夫」

「何がですか⁉」


 その直後、再び轟音が空気を揺るがす。銃声ではない。


「っしゃあ、そこの誘拐犯、この俺が相手だ!」


 扉を突き破ってきた久瀬の声は、分かりやすいほどに震えている。だが、倉庫中に響く声量と、ボクシング重量級の体格がその分を補っていた。

 銃声を合図と捉え、飛び込んできたのである。


「さすがに、一人じゃなかったか」


 男が苦々しげにつぶやき、渡利から碧海に視線を移した。


 一瞬、時が止まったように感じる。


――計算してるな。


 この場で皆殺しにするか。


 それとも、無難に逃げるか。


 大きなフードの中で、精巧なギアが回転する音まで聞こえてくるような気がする。長い間油を差さず、錆びついたままの碧海のギアとはまるで違う。


 拳銃を構え、碧海は静寂の中つぶやいた。


「ただじゃ死なないぞ」


 男は何も言わなかった。先ほどまで普通に会話していたのが嘘のように、一言も発さない。


 穏やかで思慮深い天才犯罪者から、無感情に人を殺す殺人鬼に変貌した瞬間だった。


 ナイフを逆手に構え、体をねじり渡利の方を見る。耳を押さえて苦悶の表情を浮かべている渡利は、よろよろと立ち上がろうとしているところだった。


「なんや……俺からか?」


 声にもまるで覇気がない。後ろに倒れこむように後ずさり、棚に背中を預ける。


「渡利!」

「景虎!」


 碧海と久瀬の悲鳴が重なる。

 碧海は結城とともに扉の方へ走り、久瀬は雄叫びを上げながら男の方に突進した。まともに喰らったら、軽トラックに轢かれるくらいにはダメージを受けるだろう。

 しかし男はひらりとかわし、勢い余ってつんのめった久瀬には一瞥も暮れず、渡利の首をつかんだ。


 レインコートが擦れるかすかな音がして、ナイフが白い光を放つ。


「させるかあ!」


 久瀬の方向とともに、耳障りな金属音が響く。音が聞こえた方向を見ると、工具が並んでいた巨大なテーブルを、久瀬が顔を真っ赤にして持ち上げていた。


「そのままそこにいると、ぺしゃんこになるぜ!」


 円盤投げの要領で体を回転させ、金属製のテーブルを投げる。男は渡利を引きずって後退した。銃声にも負けない爆音がし、倉庫全体が鈍く揺れる。


――ぎりぎりで命はつないだ……数秒だけど。


 この数秒でできることは何か。


 碧海は拳銃を構えた。


 銃口の向く先は外。


「おい!」


 男が振り返る。子供のいたずらを見つけた親のような苦笑が漏れていた。殺人鬼としてのスイッチが、一時的にとはいえ切れたらしい。


「映画とは違って、車のガソリンタンクを撃っても爆発はしない」

「知ってます」


 ガソリンは、雷管のような起爆薬がなければ、映画で見るような大爆発はしない。そして拳銃から放たれた弾に、誘爆させる能力はない。金属に当たれば多少の火花は散るかもしれないが、それでは爆発はおろか、引火さえしないのだ。


 しかし、その事実が通用するのは、密閉された容器に入ったガソリンにだけ。


 タンクの蓋が開いていて、一部が揮発しているガソリンは違う。揮発したガソリンはちょっとした刺激で引火し、それが液体のガソリンに伝わって大爆発を引き起こす。


 碧海が給油口を開けておいたことなど知る由もない男は、いぶかしげに眉をひそめた。


「それなら、何を……」

「一つ教えてください」


 碧海は、風で乱れた前髪を横に払った。扉から冷気が入り込み、口から白い息が漏れ出す。


「あなたの名前は?」

「素直に……」


 言いかけた男は、ふと口を閉ざした。何かを考えこむように首を傾けてから、改めて碧海を見据える。


「キョウロウと呼ばれていたことがある」

「キョウロウ……」


 聞いたことのない言葉だ。そもそも日本語なのかさえ分からない。


――いや、考えるのはあとだ。


 碧海は頭を振って、思考の海に沈みかける自分を引っ張り上げた。

 こんなことを聞いてなんになる、とばかりに碧海を見つめるキョウロウから目を逸らし、結城を横目に見る。


「ごめん」

「え?」

「死ぬかも」


 碧海は引き金を引いた。残った一発が宙に放たれる。


 銃弾は吸い込まれるように黒いワゴンへ向かい、車体の後部に直撃した。


 散る火花。


 碧海が事前に開けておいた給油口から漏れ出した、揮発したガソリンが火花を吸う。


 一瞬の静寂。


 次の瞬間、ワゴン車が浮かぶほどの大爆発が大地を揺るがした。

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