第31話 「元秀才の推論」

 窓を開けたときから聞こえていた金属音が、ぴたりとやんだ。


「気付かれ……」

「これ、聞こえる?」


 渡利の言葉を遮り、爪を弾いて音を鳴らす。前準備をさせなかったが、渡利はわずかに首をかしげただけで聞き取ってみせた。


「聞こえるで」

「この音が聞こえたら、下りてきてくれ」

「一人で行く気か? またそうやって自分だけで……」

「頼む」


 碧海は渡利の目を見つめた。


「僕一人じゃ何もできない。だけど、僕にしかできないこともある」

「言うやんけ」


 渡利はへらりと口元を緩め、碧海の背をたたいた。


「気い抜くなよ」

「任せろ」


 一段ずつ棚を下っていく。


 たっぷり数分をかけて下りきり、床に足を付けて振り返る。


「…………」


 喉元に大振りのナイフが突きつけられた。


「……どうも、お久しぶりです」


 黒いレインコート、目元までかかる大きなフード、重そうなブーツ。暗視ゴーグルの代わりに身に着けているのは安っぽいサングラスだ。白いマスクだけが異様に目立っている。

 ほとんど碧海の記憶にある姿と同じだが、唯一手だけが違っていた。黒い革手袋ではなく、半透明のラテックスの手袋をはめている。


「あ、碧海先輩……?」


 男の向こう側、金属に覆われた倉庫でただ一つ場違いなものがある。木製の椅子だ。


「結城くん、大丈夫?」

「大丈夫……ですけど、え? なんで……?」


 椅子に座っている結城は、右手を手錠でつながれていた。絵の具のついた両手は固く握りしめられ、恐怖と驚き、そしてかすかな希望がない交ぜになった表情を碧海に向けている。高校生男子にしては童顔で、目尻に涙が浮かびかけている。


 白くなるほど握りこんだ拳が一瞬緩み、また力が籠もった。


「な、何やってるんですか! 逃げてください!」


 童顔で泣き虫でも、意外と意志は強いらしい。


「嫌だし、そもそも無理だ。あ、そういえば久瀬も来てるよ。ついでに渡利も」


 なにがついでや、と聞こえたような気がしたが、きっと気のせいだろう。


「大我先輩が?」


 久瀬の名を聞いた途端、結城は目を見開いた。


「うん。だから、もう少し頑張って」

「ナイフ突き付けられてるのに、よくそんなこと言えますね!?」

「何かと荒事にはご縁があってね」


 碧海はそう笑いかけてから、表情を消して目の前の男を見据えた。


「やっぱり、すぐには殺さないんですね」


 当然、男は答えない。空中に固定されているように、ナイフの切っ先が揺らぐこともない。


「僕がどうやってここにたどり着いたのか、どうしてのこのこ姿を現したのか、知らないことにはおちおち夜も寝ていられないからでしょう?」

「先輩……」


 結城が警告するように名を呼ぶ。下手な挑発は、碧海たち二人の命を奪いかねない。


「大丈夫だよ。何があっても、先に死ぬのは僕だ」

「先輩がそう言ったことで、僕が先に殺される可能性が高くなった気がするんですけど……」

「そうかも」

「碧海先輩、こんな性格だっけ……?」


 刃物を持った敵を相手に笑みをのぞかせる鎌田や、刑事に堂々と嘘をついて時間稼ぎをする神楽がルームメイトなのだ。もっと言えば、その鎌田を制圧してみせた伊達を前にしてもなお、雪に見惚れているような渡利もいる。

 自然と度胸も身につくだろう。


 余裕綽々を装いながらも、碧海の心臓は痛いほどに脈打っていた。


――まさか、本当に殺さないとはな……。


 正面から突撃しようと、窓から侵入しようと、久瀬や渡利、結城が無傷で済む保証はどこにもない。

 だが、一度相まみえている碧海は違う。なぜわざわざ自分の前に姿を現したのかと、男はこちらの真意を探ろうとするはずだ。


 そこに時間が生まれる。周囲を観察し、策を練るための時間が。


「先日、僕はあなたに殺されかけた。いま持ってるそのナイフで、首筋を」

「え……?」


 タートルネックをずらし、絆創膏を貼った傷口をあらわにする。碧海が襲われたことなど知る由もない結城は、口を半開きにして固まった。


「そして次の日には、一年生の竹蔵春生くんを殺した。僕と同じく、頸動脈をナイフで切り裂いて」

「……何が言いたい」


 男が問う。声を聞くのは、これで二度目だ。高いわけでも低いわけでもなく、どこにでもありそうな声だ。


「僕は、動機が知りたいんですよ。僕と竹蔵くんを殺そうとした、殺した動機です。一方で、結城は殺さずに拉致した理由も知りたい」

「彼は勘定に入れていないのか」

「彼?」


 男は小鳥のように首をかしげた。


「渡辺万太だ。彼も死んだだろう」

「渡辺くんは、あなたが殺したんじゃないから」


 男を視界に入れつつ、周囲を観察しながら碧海が答えると、男はため息を漏らすように笑った。人殺しとは思えない、穏やかさえ感じる微笑みだ。


「なぜそう言い切れる?」

「第一に、殺し方が違います。渡辺くんは撲殺されていた。正確には、殴り倒され、後頭部を打ち付けて亡くなったそうです。その後、追い打ちとばかりに崖から突き落とされた。……この徹底的な殺し方が、僕と竹蔵くんの場合とまるで合わないんですよ。ナイフすら使っていない」


 結城の隣に、金属製のテーブルがある。その上に、たくさんの工具が並べられていた。一寸のずれもなく、店の陳列棚のように整頓されている。レンチやドライバー、ハンマーやノコギリ。道具に限らず、釘のような消耗品さえも、一本ずつ丁寧に並んでいる。

 渡利が聞いた、何かを置くような金属音というのは、これらの工具を並べている音だったのだろう。


「第二に、渡辺くんは学校で殺されていたから」


 ここから先は、鎌田たちには話したことのない、碧海だけの推論である。


「僕と竹蔵くん、結城はみんな、寮で襲撃を受けています。でも、渡辺くんが襲われたのは学校だ」

「場所が違うからと言って、私が殺したのではないという証拠にはならないだろう?」

「場所はさして問題じゃありません。重要なのは、あなたから出向いたか、それとも被害者が出向いたか、です」


 サングラスの奥で、男の目が光ったような気がした。それに伴って、黒いレインコートに包まれた体から、相対しているだけで悪寒が走るような雰囲気が漂う。


「面白いな。続けてくれないか」

「……渡辺くん以外の僕ら三人は、受動的だったんです。寮でいつも通りの日常を送っていたら、突然あなたに襲われた。でも、渡辺くんは違う。あの夜、何があったかは分かりませんが、彼は自分から夜の学校に向かったんです。呼び出されたにしろ、何か目的があったにしろ、自分から向かったことは確かだ。あなたが、わざわざ学校に拉致して殴り倒したなら話は別ですが、そんな無駄なことをするようには思えない。つまり、渡辺くんは一時能動的だったんですよ」

「しかし、現に私は彼をここに連れてきたぞ」

「訊きたいことがあったんでしょう? わざわざ拷問道具を見せつけて」


 テーブルの上の工具は、間違いなく拷問に使おうとしていたはずだ。丁寧に並べていたのは、結城の恐怖心を駆り立て、少しでも早く話を聞き出そうとしたためだろう。


「渡辺万太にも訊きたいことがあったのかもしれない。殴ったのは、殺すためではなく、話を聞き出すためだと考えれば、辻褄は合うだろう」

「あなたは殴って拷問はしないでしょう」

「私のことを何でも知っているみたいだな。なぜ分かる?」

「手に傷がついていないから」


 人を殴れば、ボクシンググローブをはめていない限り関節のあたりが赤く腫れる。人ひとりを殺すほど殴ったのなら、血すら出たかもしれない。


――こんなところで役に立つとはな……この知識。


 このことは、以前、流血沙汰の大ゲンカをした渡利から学んだことである。血まみれで寮に帰還した渡利は、顔面だけでなく、両手も血に染まっていた。相手の血だけでなく、皮膚が切れたことによる自身の血も多く付着していた。


 普段陽気な男を怒らせるほど怖いものはない。


「手……」


 男はつぶやき、ナイフを持つ自分の手に目をやった。ラテックスの手袋が密着する手は、人殺しとは思えないほど傷一つない。


 男は碧海に視線を戻した。


「最初から、私の手を見ていたのか。だから、渡辺万太の件に私はかかわっていない、と。出向いた、出向かれたの話は、あとから取って付けたようなものか」

「いえ、少し前からぼんやり考えてはいました。ただ、決定的な根拠が足りなかったから、誰にも話していませんでしたけど。今あなたの手を見て確信しました」


 男はナイフを構えたまま、一歩後退した。


「お前はいったい何者だ?」


 碧海は男の目を見つめた。サングラスの奥にあるはずの眼窩を。


――僕は、何者なんだ?


 伊達にも同じ質問をされたが、まともに答えることができなかった。


 片手でこめかみを押さえる。もう片方の手は後ろへ。


 男の吐息に笑みが含まれた。


「分からないか?」

「俺が代わりに答えたるでえっ!」


 男がはっと上を見上げる。天井まで届きそうなほどの高さがある棚から、渡利が飛び降りてきた。

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