第29話 「猟犬」

「いない!?」

「え、ええ。伊達さんにしてやられたことが相当悔しかったらしく、売店から帰って来るや否や道場に行きましたよ。おにぎりをくわえたまま。あの様子じゃ、今日いっぱい帰ってこないんじゃないですかね」

「あいつ……」

「いったいどうしたんです? 久瀬くんまで連れて」

「話してる時間がもったいない。また後で」


 ぽかんとしている神楽を背に、走りだそうと片足を持ち上げる。


「待ってください!」

「ぎゅえ」


 襟首をつかまれ、つぶれたカエルのような声が漏れる。

 咳をしながら振り返ると、目の前に迫った神楽が、自分の体ごと押し付けるように何かを手渡してきた。


「これを」

「そうか、まだ持ってたか……」


 鎌田が奪った拳銃だ。


「弾は二発残っています。使わないに越したことはありませんが。……渡利くん!」

「なんやなんや、やかましいな」


 パンを口いっぱいにくわえた渡利が顔を出す。その視線が碧海の背後にいる久瀬を捉えると、ぱっと顔が輝いた。


「大我やん!」

「よう、景虎!」

「渡利くんも連れて行ってください。実戦で役立つかはともかく、索敵でかなう人はいないかと。急いでいるようなので、僕はお留守番しています」

「分かった。ありがとう」


 懐に拳銃を押し込み、碧海は渡利を手招きした。


「行くぞ!」

「行くって、どこに?」


 口いっぱいのパンを飲み込み、走りながら渡利が問うてくる。

 碧海はちらりと彼に視線を向け、久瀬に聞こえないよう囁いた。


「あいつだよ。僕を襲った」

「なんやて!?」

「しーっ!」

「お、おう……何があったんや?」

「あとで話すから。とりあえず、これ」


 地図情報と車の写真を転送してもらったスマホを投げると、渡利はフリスビーをくわえる犬のように軽く跳んでキャッチした。


「なんや、結構広いな」

「そこに急いでくれ。車の写真もあるだろ? それを探してほしい」

「分かった。ほなお先に!」

「おう、頼んだぜ!」


 久瀬に一声かけ、渡利は風のようなスピードで走り去っていった。


「俺らも急がんとな」

「うん」


 まっすぐ廊下を抜け、エントランスに差し掛かる。売店もひと段落し、生徒の姿はほとんどない。

 そんな中、受付にいる飛騨が声をかけてきた。


「碧海くん」

「は、はい、なんでしょう」


 久瀬に先に行くよう促してから、受付に歩み寄る。飛騨はいぶかしげに目を細め、碧海を眺めまわした。


「実家に帰るんじゃなかったのか? 届け出を出しただろう」

「あ……」


 取り下げるのをすっかり忘れていた。


「す、すみません! 向こうの都合が悪くなったらしく、葬儀は後日改めてということになって。昨日の夜連絡があったんです」

「そうだったのか。それなら……」

「取り下げで。すみません」

「分かった。次からは早く言うように」

「ご迷惑おかけしました」


 軽く頭を下げ、そそくさとその場を後にする。その流れでエントランスから出ようとすると、再び飛騨に呼び止められた。


「おい!」

「はい、はい!」

「どこに行くんだ? 外出禁止令はまだ続いているぞ」


 碧海に気を取られていたおかげで、久瀬が出て行ったのは見逃してくれたらしい。渡利は偶然にも見とがめられなかったか、あるいは声をかける間もなく走り去ったか。


「い、いや、その……」

「何だ? 理由によっては許可するが」


 歯磨き粉が切れちゃって、とでも言おうか。いや、売店で買えと言われるのがオチだ。

 とっさの誤魔化しが苦手な碧海が頭を真っ白にしていると、天井からバチッと機械がショートする音が聞こえた。


「な、なんだ?」


 音が聞こえた方を見てみると、そこには青白い火花を散らす監視カメラがあった。常にエントランスを向いているはずが、だらんと力なく下を向いている。レンズ脇のライトが赤く点滅して異常を告げている。


――夏目か!


 ブラックな手を使って、監視カメラをショートさせたのだろう。飛騨が面倒そうに立ち上がり、受付室から出てくる。


「壊れたのか?」


 ぶつぶつつぶやきながら、つま先立ちをしてカメラを見上げる。


 碧海はそろそろと後ずさり、一目散に駆けだした。


――助かった!


 心の中で感謝の言葉を投げかけてから、先行しているであろう渡利と久瀬に追いつくため、ひたすらに足を回転させる。

 全力疾走したおかげか、ほどなくして久瀬に追いついた。


「碧海! 大丈夫だったか!?」

「大丈夫! それより、渡利は?」

「まだ見えん!」


 獲物を追う猟犬に追いつけるはずもない。


 ただ無心で走り続けていると、ようやく地図に表示されていた赤い円の端にたどり着いた。スマホは渡利に渡してしまったが、車の特徴は頭に叩き込んである。


「黒いワゴン、右のドアミラーに傷。あと後ろの右側のライトが切れてる」


 昼間ではライトが切れているかどうかまでは分からないが、ドアミラーの傷は特徴的だ。目を皿のようにして車を確認していく。


「久瀬、僕のスマホに電話してくれ」

「分かった」


 久瀬が自分のスマホを耳にあてると、すぐに渡利の声が聞こえてきた。


『よう、大我!』

「景虎、調子はどうだ?」

『どうもこうもあれへん! たぶん見っけたで』

「本当か!?」

『ほんまや。なんやでっかい倉庫でな、例の車が停まっとる』

「ちょっと待て、俺らもすぐに行くぞ!」

『はよせえよ!』


 通話が切れる。碧海はこのあたりの地図を思い返した。


「倉庫って言うと、あっちらへんだ」


 このあたりは住宅街から少し外れている。まだ開発されていない山があり、その周辺にあるのは企業の貸し倉庫くらいだ。ときおり車が止まっていることはあれど、ほとんど人が来ることはない。


 脳内の地図を頼りにしばらく進むと、倉庫が立ち並ぶ通りに出た。シャッター通りならぬ倉庫通りとでも言うべき眺めは、倉庫一つ一つの大きさも相まって壮観である。

 ほとんどの倉庫に車が数台止まっているが、碧海たちはまっすぐ一番山に近い倉庫に駆け寄った。


「あった……」


 右のドアミラーに傷のある、黒いワゴンが停まっている。ほかの倉庫は小綺麗にされているが、この倉庫だけはどこか寂れている。倉庫の入り口に掲げられている看板には落書きがされていて、社名も読み取れないほどだ。


「廃業したとこのかもな」

「貸し倉庫のことなんか忘れてたんだろう」


 借金まみれの中で倒産し、事後処理に追われるうちに倉庫のことなど忘れてしまったというところだろうか。


「で、渡利は……」

「ここにおるで」


 隣に渡利が並ぶ。あれだけ全力疾走したはずなのに、疲れている様子はまったくない。強いて言うなら、舌が少し前に出ていることくらいだ。


「人の気配は?」

「さっきから耳澄ましとった。たぶん、中に誰かおる。一人か、二人くらい。せやけど声は聞こえへん。ずっとカチャカチャ金属の音が聞こえるだけや」

「金属の音?」

「工具を机に置く音や思うけど。ここに突撃するんか?」

「状況次第では」


 渡利は露骨に嫌そうな顔をして、倉庫を見上げた。


「俺いややで。ここ、嫌な感じがするんや」

「伊達さんのときみたいな?」

「いや、それとはちゃうくて、普通に嫌な予感がするだけ。あと、あのおっさんはもう嫌な感じせえへんよ」


 相変わらずよく分からないが、本人にしか分からない感覚があるのだろう。そう思って、ここで待つよう渡利に指示しかけたとき、渡利は腕を組んで碧海を睨んだ。


「ちなみに言うと、今の自分も嫌な感じや」

「はあ? 僕も?」

「その前は竜さん、さらに前は鎌田や。もう消えたけどな。なんなんやろ、ほんまに」

「僕の台詞だよ」


 倉庫の周りを観察しながら考える。元管理人の加藤、初対面の時の伊達、鎌田、神楽に続いて碧海。ここに共通するものは何だろうか。


「それにしても、窓はカーテンが閉まってて見えねえぜ。やっぱり、カチこむしかねえか?」


 倉庫まわりをぐるっと一周してきた久瀬が報告する。

 碧海はいったん渡利の『嫌な感じ』を頭から追い出し、黒いワゴンに近づいた。ボンネットの方に回り込み、そっと手を乗せる。まだ温かい。結城が連れてこられたのは、渡利がここにたどり着いたつい数分前のことだろう。


――まだ殺されていない。


 もしここに着いてすぐ殺す気なら、わざわざ拉致などしないはずだ。寮で首を掻っ切り、何食わぬ顔で逃げ出せばいい。

 わざわざリスクを背負ってまで拉致したからには、それ相応の理由があるのだ。


 ドアを引いてみると、意外にも鍵はかかっていなかった。これ幸いと中をのぞいてみるが、めぼしいものは何もない。


 碧海は少し考え、運転席に乗り出してレバーを引いた。がこっという音がしたのを確認して車から出る。


「渡利、本当に金属音しか聞こえないんだな?」

「おう」

「なら、まだ突撃はしない」

「どうしてだ!? 何をされるか分かったもんじゃないぞ!」

「まだ何もされないさ……あいつが満足するまではな」


 碧海は低くつぶやいた。

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