第19話 「罠、あるいは」

 次の瞬間、後頭部を激しい衝撃が襲った。


「ぎゃっ――」


 足から力が抜け、前のめりに倒れる。意識を失うには至らなかったものの、視界がぼやけて意識が朦朧とする。

 誰かが碧海の首根っこをつかみ、床に押し付けた。


「な、何を……」

「お前が碧海祥寿でいいな?」


 碧海のかすれた問いかけを無視し、スーツ姿の男が問いかけてくる。質問というより、ただ確認しているといった様子だ。


「……違う」


 無駄なあがきだとは分かっていても、否定せずにはいられない。一度認めてしまえば、問答無用で殺されてしまう気がする。


「嘘を吐くな」


 男は碧海の体をひっくり返し、ウィンドブレーカーのポケットの中を探った。スマホをとられ、さらに伊達からの紙も引き抜かれる。


――な、なんでここが……。


 伊達の顔が脳裏を横切る。

 碧海をここに呼んだのは、他の誰でもない伊達だ。

 そこにこの襲撃。


――捜査資料は餌だったのか?


 鎌田の推測、渡利の勘働きは決して間違いではなかった。


 ぎゅっと目を閉じる碧海をよそに、男は目出し帽の奥にある目をいぶかしげに細めた。


「なんだこれは? おい、動くなよ」


 そう碧海にくぎを刺してから、折りたたまれた紙を開く。それまで無関心そうな顔をしていた男の目が驚愕に見開かれた。


「伊達だって? これは何だ!」

「何だって、あなたが一番知ってるでしょう!」


 すっかり伊達が仕組んだものだと思い込んでいた碧海は、男と同じく素っ頓狂な声を上げた。この襲撃が伊達の策略によるものなら、この男と伊達は顔見知りであるはずだ。


「知るかよ! おい、伊達とはどういう関係なんだ!」

「ただの顔見知りです!」

「ただの顔見知りに、こんなところに呼び出されたのか?」

「い、いや、そういうわけじゃ……」

「くそっ!」


 男は吐き捨てると、いきなり碧海の胸ぐらをつかんで立ち上がらせた。目を白黒させる碧海をよそに、男は碧海を引きずって手近な部屋に入る。


――ああ、まずい、まずいぞ!


 男は壁際に向かっていた。その視線の先にはガラスの煤けた窓がある。


 碧海はさっと顔を蒼くし、なんとか男の手から逃れようと暴れた。

 男の忌々しげな舌打ち。

 腹を思いっきり殴られ、碧海は体を二つに折ってえずいた。


「死んどけや!」


 男の捨て台詞とともに、体がふわっと浮き上がった。


「やっ、やめ……!」


 碧海の途切れ途切れの懇願はあっけなく無視された。


 窓から放り出された碧海の体が宙を舞う。何かつかまれるものがないかと両手を動かすが、そう都合よく取っ手があるわけもない。手と同じく動かしていた足先に廃ビルの壁がかすり、わずかに落下の軌道が変わっただけだった。


 耳元でごうごうと空気が鳴る。

 心臓が痛いほどに脈打っている。


 絶望と恐怖で狭められた視界は、中心のわずかな隙間に廃ビルの窓を捉えるだけだ。


――こんなところで……。


 死ぬのか?


 何もかもが中途半端だ。

 事件も。

 あの事も。


 碧海は目を閉じかけ、すぐにはっと見開いた。視界に端に茶色っぽい木の葉が映り込み、腕を何かがかすめる。


「わっ――!」


 枝々が折れるやかましい音とともに、むき出しの頬をとがった枝先がひっかいていく。一瞬遅れて背中を激しい衝撃が襲う。背骨が折れるような痛みに息を詰まらせると、傾いた体が再び落下を始めた。

 しかし、今度は考え事をする余裕もない。


 一秒もたたないうちに、右肩から無様にたたきつけられた。


――何が……?


 地面に寝そべりながら上を見ると、無残に枝の折れ曲がった一本の木が碧海を見下ろしていた。このあたりでは珍しい常緑樹のようで、冬にもかかわらず枝には茶色っぽい葉が風に揺れている。


――こいつに助けられたのか。


 碧海が落下した先に、この木があったらしい。生い茂る葉や密集した枝に落下の衝撃を吸収され、五体満足でいることができたのだ。

 それに、このビルが古いタイプで、四階をなくしていたことも大きいだろう。もしもあと一階分高かったら、生きていられたかも分からない。


 手をついて起き上がりかけた碧海は、右肩の痛みに悲鳴を上げた。木がクッション代わりになったとはいえ、全体重を受け止めた右肩の負担は大きかったらしい。脱臼はしていないが、動かすのもままならない痛みがある。


「くそ……逃げなきゃ」


 間もなくして、男が碧海の死体を確認しにやってくるだろう。それまでに逃げなければならない。


 碧海はうめきながら立ち上がり、そばの木に片手をついた。右肩はまるで使い物にならず、歩くのもやっとという有様である。


「はあ、はあ、どうする……」


 このぼろ雑巾のような体で逃げ切れるとは思えない。


――こうなりゃ、やけくそだ!


 碧海は木と向き合い、目を閉じた。



「おい、どこに行った! 探せ!」


 男の怒声に続き、複数の足音。それがすぐ目の前を通り過ぎていって、碧海は思わず首をすくめた。碧海の姿がないとみるや、ほかの仲間たちも連れて来たらしい。もしまっすぐ逃げていたら、あっという間に追いつかれてしまっていただろう。


 碧海はマフラーを口元まで持ち上げ、じっとうずくまっていた。

 雪の中で。


――寒いし冷たい……。


 碧海を救ってくれた木の根元には、大量の雪が山を作っていた。落下した衝撃で積もっていた雪がすべて落ちてしまったらしい。

 碧海はそこに穴を掘り、即席のかまくらを作って息をひそめていた。


 足音が遠ざかっていったのを確認し、碧海は雪をかき分けて顔を出した。


「よし」


 寒さのせいで余計にひどくなった痛みを押し、そっと立ち上がる。幸い、主に痛むのは背中や右肩で、足に支障はない。住宅街まで逃げられれば安心だろう。


 碧海はゆっくり歩きだしたが、その背中に笑いを含んだ声が投げかけられた。


「どこに行くんだ?」

「えっ?」


 振り返ると、碧海を突き落とした男を含めて数人の男たちが立っていた。


「な、なんで……行ったんじゃ?」

「足跡くらい消しておくべきだったな」


 男は足元を指さした。足跡がいくつか残っている。その中には碧海のものもあった。足跡は木の周りをしばらく動き回り、今いるかまくらの手前で消えている。


 碧海は渋面を作った。


――くそ……ぬかった……。


 寮を抜け出すときは、雪に足跡が付かないよう慎重に動いたのに。ビルから落下したダメージは予想以上に大きかったようだ。意識が朦朧としている。


「やばい……」


 相手は四人のスーツ姿の男。全員が目出し帽をかぶり、その奥から剣呑な目つきをのぞかせている。数人に至っては、よく研がれたナイフを握っている。

 本気で碧海を殺すつもりだ。


 男たちが駆け寄ってくるのに合わせて、碧海は走り始めた。走るたびに振動が全身に伝い、痛みが走る。恐怖から来るアドレナリンのおかげで動けているようなものだ。


――このままじゃまずい!


 徐々に距離が詰まっている。追いつかれるのも時間の問題だろう。住宅街まではまだまだあり、助けを望めそうにもない。


 必死に脳内のギアと足を回転させていると、耳元を熱い何かが通過した。

 遅れて聞こえる発砲音。


 首をひねって後ろを見ると、ひとりの男が構える拳銃が煙を吐いていた。


「イカれてんのか!?」


 思わず叫ぶ。住宅街からは離れているとはいえ、まったく建物がないわけではない。たまたま通行人に当たってしまう可能性だってあるし、なにより発砲音を聞いた誰かが警察に通報する可能性すらあるのだ。


「動くな! ぶっ殺してやる!」


 いよいよ止まるわけにはいかなくなった。ひとたび動きを止めれば、待つ運命はハチの巣一択である。


――今どこだ!?


 そんな碧海の問いに答えるように、すぐ目の前で木に積もった雪が自重で落下した。何本ものイチョウが歩道に沿って立ち並んでいる。

 秋になると紅葉が美しいイチョウ通りだ。

 この通りをまっすぐ進むと、杜葉高校やその学生寮がある住宅街に続く。


 またしても発砲音が聞こえ、すぐ横のイチョウの幹に黒い穴が開いた。


「洒落にならないって……!」


 そう口にしながら考える。冷たい汗が全身に流れている。


――このまま住宅街に進んだらやばいんじゃ……。


 真夜中だからといって、通行人が誰もいないとは限らない。


 このまままっすぐ走ってもいいものか。その葛藤が碧海の足を鈍らせた。


「よし、死ねっ!」


 男の歓声が聞こえる。


 衝撃。

 乾いた発砲音。


 碧海は前のめりに倒れた。


「――危機一髪っちゅうのは、こういうことを言うんやな」


 碧海を押し倒した人影がふうと息を吐く。


「まあ、間に合うたさかい。セーフや、セーフ」

「な、なんでお前が……」


 碧海は体の上に座る人影を呆然と見つめた。無邪気に弾んだ声が帰ってくる。


「俺、スーパーヒーローやねん!」


 両肩に雪を乗せた渡利は、そう言ってへらりと笑った。

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