第18話 「敵か味方か遊び人か」
外に踏み出した碧海は、すぐに自分の計画の穴に気が付いた。
「雪じゃん……」
足跡が残ってしまう。寮の周りは雪が積もっていないため、建物に沿うように歩けば足音は残らないが、敷地から出るにはどうしても雪原を横切る必要がある。
――足跡くらい妥協するか?
しかし、それではわざわざ扉を外した意味がない。
碧海は頭の中に寮の見取り図を思い浮かべた。寮の敷地はフェンスで囲われている。碧海の目的はそれを乗り越えることだが、建物とフェンスの距離が最も短い場所は建物の側面だ。いま碧海がいる寮の後ろには駐車場があり、フェンスまでは距離がある。
――とりあえず横に回ってみよう。
距離次第では、ジャンプでどうにかなるかもしれない。
軒下の雪が積もっていない場所を選んで、建物の側面に回る。
「おっ」
意外といけそうだ。建物からフェンスまでは一メートルと少し。十分飛びつける距離だ。
碧海はぺろりと唇を舐め、大きく腕を振りながら地面を蹴った。指先に触れた冷たいフェンスをがむしゃらにつかむ。かじかんだ指が力尽きる前に両足もひっかけ、碧海はほうっと息を吐いた。
「っぶねー……」
フェンス下の雪が少し乱れてしまったが、木に積もった雪が落ちたように見えなくもない。
指に息を吹きかけつつフェンスを乗り越え、碧海は反対側に下り立った。
寮周辺は普通の住宅街である。もう足跡を気にすることはない。
目下の難題だった寮からの脱出を無事に終えることができた安心感から、碧海はフェンスに寄りかかって、長いため息をついた。
足から力が抜け、ずるずるとその場に座り込む。
――きついったらありゃしない……。
これも、三人を危険から守るため。
そこで碧海は苦い笑いを漏らした。
――何が『守るため』だ。
つまるところ、碧海自身があらゆる責任から逃げたいだけではないか。
「くそっ」
碧海は毒づき、立ち上がってフェンスを殴りつけた。はらはらと雪が舞い落ちる。今夜は晴れだと予報されていたはずなのに、鼻先を白い雪片がかすめた。
――僕がなにしたっていうんだ。
襲われてから、ずっと抱き続けてきた疑問だ。恨まれるようなこと、恨まれるほどの深い付き合いをしてこなかった碧海に、殺される謂れなどない。
「いっ……!?」
ずきんと、今までよりも激しい痛みが脳を貫いて、碧海はか細い悲鳴を上げて膝をついた。
きつく目を閉じて地獄をやり過ごす。
――おじさん……。
ズボンに溶けた雪が染みる。碧海はゆるゆると頭を振り、立ち上がった。
「……行くか」
時間は有限だ。
碧海は雪降る街を歩き始めた。
行く先は決まっている。
碧海はウィンドブレーカーのポケットにねじ込んでいた紙切れを取り出した。
「伊達巡査……あなたは、どっち側の人なんだ?」
書かれた住所を見て、そうつぶやく。
飛んで火に入る夏の虫がごとく、襲撃者の術中にはまってしまうのか。
あるいは、その先に思わぬ光明を見出すか。
どちらにせよ、待ち受ける先が危険であることに変わりはない。
無心で住宅街を歩くことに数十分。
碧海が辿り着いたのは、閉鎖してしばらく使われていないらしい廃ビルだった。廃ビルといっても、それなりのきれいさは保たれている。入口の自動ドアは埃で曇っていたが、目立つ汚れはその程度だ。
当然のことながら電気は通っていない。碧海は隙間に指をひっかけ、強引に自動ドアをこじ開けた。
「暗いな……」
懐中電灯を持ってくるべきだった。スマホにライト機能があるが、あまり充電を減らしたくない。
碧海は慎重に歩を進めた。ごみの類は一切なく、さらに言えば人の気配もない。あるものといえば、空中に漂う埃と、命あるものすべてを吸い込まんとする暗闇だけ。
――困っている、か。
碧海が伊達から紙切れを受け取ったのは、部屋の中ですれ違ったあの時だった。手の中に違和感を覚えて見てみると、そこに折りたたまれたメモ用紙が押し込まれていたのである。
そこにはこの廃ビルの住所と、一言添え書きがされていた。
『困ってるんだろう?』
信用できるのかは、ここに来てしまった今でも分からない。鎌田の言うとおり、碧海を襲った男とつながっている可能性は十分にあるだろう。
それでも、碧海は危険を承知でここに来た。根拠を問われれば、勘、としか答えられない。
ただなんとなく、伊達からはあの男のような禍々しい気配を感じなかったというだけだ。
スニーカーが床を踏みしめる音が反響している。足音が二重、三重にも重なって聞こえ、碧海は思わず振り返った。
当然、誰もいない。
尾行者などいるわけがないと思いつつも、碧海は漠然とした不安に襲われて足早に階段を上った。
紙に示されていたのは、この廃ビルの五階だ。どの部屋に入ればいいのかは分からないが、それも五階に行ってみれば分かる。
「ん……ここが五階か」
四階が飛ばされており、三階の次が五階になっている。四は不吉な数字だとして、少し前の建物によくあることだ。
階段の踊り場で息を整え、五階に足を踏み入れる。
「…………」
空気が変わった。それまでは埃っぽい冷気が漂っていたが、この五階にだけ人の気配を感じる。もっと正確に言うなら、人がいた気配、だろうか。塵に覆われた床には、碧海のものではない足跡がいくつか残っている。
「すみません! 誰かいますか!? だ……うん?」
薄暗い廊下、その中に明らかに場違いなものを見つけて、碧海はそろそろと近づいた。両手で抱えられるほどの真新しい段ボール箱で、ガムテープでしっかり封がされている。箱の横には、『困っているそこのきみへ』と乱雑な文字。
――これが、伊達さんの?
差出人の文字はない。だが、『困っているそこのきみへ』という言葉と、碧海に手渡された『困ってるんだろう?』という言葉は部分的ながらも一致している。ついでに言えば、言葉の端々から感じるひょうきんさも同じだ。
ごくりと唾を飲み込み、ガムテープを一思いに引き剥がす。
開けてみると、ダブルクリップで止められた分厚い紙の束が入っていた。ほぼすべての紙に文字がびっしりと書かれており、数十枚の写真も挟まっている。
「これは……!」
写真をめくっていた碧海は、驚きで口をあんぐりと開けた。
碧海が通う高校、杜葉高校の校舎が映っていたのである。それだけではない。制服を着た青年が血だまりの中に倒れている写真や、校舎裏にある崖の写真まで、物騒な写真が次々と続く。
写真を懐に押し込み、段ボール箱の底に眠る紙束を手に取る。
一番上の紙に、『杜葉生連続殺人事件』と記されていた。
――捜査資料か!
盗み聞きした話の内容から、伊達は碧海が何らかの形でこの事件にかかわっていると察したのだろう。手助けしようと思ったが、予想以上に警戒された挙句、飯野に見つかって追い出され、仕方なくこのような手段で捜査資料を手渡したといったところか。
「何者なんだ、あの人……」
捜査資料を外部に持ち出すことは、いくら警察関係者といえども難しいことのはずだ。
無言で紙をめくっていると、真ん中あたりに質の違う紙が交ざっていた。ほかの紙は明朝体が並んだコピー用紙だが、この一枚だけ手書きで書かれている。
『もし何かに巻き込まれているなら、この箱が置いてあるビルを隠れ家として使って。頼もしい友達がいるから、その必要はないかもしれないけど。』
ミミズがのたうったような字を見つめる。手に力が入り、手紙の端をくしゃっと握りつぶしてしまった。
――頼もしい友達……。
碧海は頭を振った。いくら頼もしかろうと、殺人鬼を相手にするのは話が別だ。
「まあ、隠れ家は手に入ったんだ」
まさか碧海を襲ったあの男も、碧海のことを四六時中監視しているわけではあるまい。まだこのビルの存在は知られていないはずだ。
鎌田、神楽、渡利から離れ、隠れ家を手に入れ、そして情報を得た。
あとは碧海次第である。
碧海が先に事件の全貌を解明するのが先か。
あの男が、あるいはチンピラたちが碧海を見つけ、殺すのが先か。
碧海は分厚い紙束を無理やり折り曲げ、写真と同じく懐に押し込んだ。
次の瞬間、後頭部を激しい衝撃が襲った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます