第17話 「闇夜に舞うフクロウ」

 深夜である。雪は止んでいるが、夜空は黒い雲におおわれていた。星の瞬きひとつなく、夜風に吹かれた雲の隙間から時折月が顔を見せるのみ。太陽があるうちは目が痛いほどの輝きを発していた積雪も、闇に溶けて暗く沈んでいる。


 碧海は藍色のマフラーを首に巻き、ウィンドブレーカーのジッパーを閉めた。東北地方の冬の装備にしては少し心もとないが、動きやすい格好であるに越したことはない。


 ちらりと部屋の方を見ると、三人とも身を縮めて眠っていた。豪快ないびきとは反対に、渡利は犬のように丸くなっている。その体勢でどうやってあんないびきを発せられるのだろうか。

 遠巻きに三人を眺め、一つ息を吐く。


――悪いな。


 昼頃に決意を固め、届け出は夕方のうちに出しておいた。名目は身内の不幸。本当はもっと詳しく書かなければならないが、管理人業に関しては素人の飛騨を誤魔化すのは簡単だった。


 蝶番がきしまないよう、碧海はさっと扉を開いた。だが、神楽が一度ピンを引き抜いたせいか、素早く開けたつもりでも蝶番が変な金属音を奏でる。

 変な汗が背筋を伝う。


 幸い、誰も目を覚まさなかったようだ。


――くそ……。


 まるで感じたことのないような緊張だ。三人にバレれば、止められること間違いない。

 これ以上迷惑をかけるわけにはいかないのだ。


 毒づきたいのをこらえながら、碧海は廊下に一歩を踏み出した。途端に冷え冷えとした生気のない空気が頬を撫で、体の芯から震えが走る。


 得体の知れない嫌な予感を覚え、碧海は両手でしっかり扉を閉めた。

 廊下と部屋、この二つの空間がまるで別世界のように感じる。

 そのまま扉を開けておくと、廊下の昏い空気が部屋に流れ込んでしまうような気がした。


「しっかりしろ、僕」


 碧海は自分の頬をたたき、足下灯が点々と光る廊下を進んだ。


 碧海の足音さえ、この静寂を破るには至らない。まるで深い深い海の底を歩いているような気分になって、碧海は大きく息を吸い込んだ。冷気が肺を刺す。


 動悸を抑え込むために深呼吸をしながら歩いていると、背後から声が聞こえた。


「どこに行くんだ」

「だっ、誰……」


 素早く振り返り、身構える。


 そこに立っていたのは、一人の女子生徒だった。


「誰って、私だけど」


 いぶかしげに目を細められ、碧海は愛想笑いを浮かべた。


 彼女の名前は夏目なつめそら。碧海と同じく寮に通う杜葉高校の生徒である。

 無造作に結ばれた髪は鳥の尾羽のよう。パジャマの上にはさらにもこもこのカーディガンを着ていて、じゃっかん着ぶくれしている。猫背でいつも半目なその姿は、木の上でうたた寝をするフクロウを思わせる。


「で、どこ行くんだ」


 ちなみにこの不機嫌なフクロウ、もとい夏目は、毒舌家で皮肉屋というフルセットの持ち主である。それでいて学年トップ層の頭脳の持ち主であり、できれば口論したくない人物の一人だ。


「ど、どこも」

「ジャンパーに、マフラーもしておいて?」

「いや、その……喉が渇いちゃって。なんだか目が覚めちゃったから、食堂のとこの自販機で何か買おうと思ったんだよ。マフラーとかは、ほら、寒いから。夏目だって厚着してるだろう」

「そっちと違って、今すぐ外に出られる格好じゃないけどね」

「目についたのがこれだったから」


 そう言って、両腕を広げて見せる。

 夏目はいつもの半目で碧海の格好を一瞥し、ふんと鼻を鳴らした。


「そうか」

「そういう夏目こそ、なにしてたんだ?」


 夏目の行く先によっては、食堂で飲み物を買う演技までしなければならない。

 そのつもりで問うたのだが、なぜだか夏目は喉の奥で笑った。


「逢引き」

「は!?」

「冗談だ。真に受けるなよ。私も自販機に用があったんだ」


 ポケットから出した手には、暖かそうなペットボトルのお茶が収まっている。碧海はひっそりと息を吐き出した。


「何だ……夏目もそうだったんだ」

「問い詰めるつもりはなかったんだよ。ただ、ずいぶん情けない顔をしてたから」

「寒いし、暗いし……」

「体はいっぱしなのに、怖がりなんだな」


 地味にちくりとくる言葉だ。


 碧海は苦笑し、片手を上げた。


「それじゃあ、おやすみなさい」

「うん」


 女子寮の方へ体を向けかけた夏目は、ふと思い立ったように首を曲げて碧海を見た。


「そういえば」

「ん?」

「非常口はそっちじゃない」

「は……」

「じゃあね、おやすみ」


 唖然とする碧海を残し、夏目はあくびを漏らしながら暗闇に身を溶かした。


 あとに残された碧海は、苦々しく思いながらも、驚きを隠せずにつぶやいた。


「最初から気づいてたのかよ……」


 そんな碧海の声が聞こえたか、それとも別れのあいさつのつもりか、廊下の奥で夏目が背を向けながら片手を振った。

 その姿が、曲がり角の向こうに消える。

 夜闇を舞うフクロウのように、あとに残ったのはかすかな空気のさざ波だけだった。


――行くか。


 肩透かしを食らったような気分だが、ここで足を止めるわけにはいかない。



 マフラーに顔をうずめながら歩くこと数分、碧海は寮の非常口の前に立っていた。正面玄関の反対側に位置しており、いわば裏口のようなものである。


『そういえば。映像に怪しい人は映っていませんでしたよ。正面のも、エントランスのも』


 伊達が飯野をおちょくったときの言葉だ。


 この言葉を聞いた次の瞬間には、碧海は寮を抜け出す計画の土台を練り上げていた。

 あと必要だったのは、それを実行する決意だけ。


「やっぱり、カメラはないな」


 伊達の言葉は、この寮には監視カメラが二台しかないことを物語っていた。一つは正面玄関、もう一つはエントランスを映すカメラである。もし非常口にカメラが取り付けられているのなら、伊達はここのカメラにも言及するはずだ。


――カメラを避けるなんて、犯罪者にでもなった気分だ。


 正式に届け出を出しているため、本当はこんなふうにこそこそする必要はない。カメラに映りたくないのは、鎌田ら三人の追跡の手から少しでも長く逃れるためである。その中でも特に神楽だ。目的のためなら多少グレーなこと、しかも黒寄りのグレーなことでもやってのける彼なら、カメラの映像を盗み見ることくらいしかねない。


 我知らず自嘲気味に笑った碧海は、非常口のドアノブを押し下げた。鍵がかかっているが、何のことはない。肩で扉を押して壁との間に隙間を作ると、そこからボールペンの芯を突き刺した。何度か試行錯誤するうちに、芯の先が蝶番に触れた。


――これを一発でやったんだからな……。


 そんな神楽なら、錠前破り師としてもやっていける気がする。


 さらに時間をかけて蝶番のピンを探し出すと、力を籠めて芯を押し付ける。こちらはうまいこといったか、すぐにピンの抜け落ちる音がした。


 上側の蝶番も同じ要領で外し、手前に倒れそうになった扉を胸で受け止める。今までとはまるで比べ物にならない冷え切った外気が、扉をつかむ指に突き刺さった。


「さっむ……!」


 せめて手袋はつけてくるべきだった。


 いったん扉を枠に立てかけ、自分は外に出る。元のように扉を戻し、下側の蝶番にピンを戻す。

 上側も同じく戻そうとしたが、かじかんだ指ではなかなかうまくいかず、仕方なくそのままにすることにした。このままでは鍵を外しても扉が開かないが、劣化でピンが外れてしまったと勘違いしてくれることを願うしかない。


 外に踏み出した碧海は、すぐに自分の計画の穴に気が付いた。

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