第15話 動き出す影

 

「あ、お帰りキューちゃん」


 澪は森の手前にある大きな岩の上腰を掛けて待っていた。


 自分の式神の気配が近くにやってきて声をかける。


「キュウ」

「よしよし、いい子ね」


 膝の上に一目散に飛んでくる鼬の腹を撫でてやる。


 ふと顔を森の方へ向けると、数歩遅れたところに柚月がふわふわと浮かされていた。

 やはり自分の式にはかなわなかったらしい。


 着ているものは引っ掻き回されたように破れ、気を失っているのか顔は下を向いたままピクリともしない。

 澪は予想通りの結末にやれやれと肩を下ろした。



 鼬を膝から下ろし柚月のへと近寄ると、けれども彼の手にしっかりと自分のおいてきた本が収まっていることに気が付いた。


 おや。と澪は目を見開いた。


 気絶したままの柚月に近寄り手から本を抜き取ろうとしてみるけれどもびくともしない。

 随分としっかりと抱え込んだものだ。


 よく見れば、服の破れている個所も背中や足がほとんどで、本を抱えたお腹側には恐らく『キューちゃん』もとい久太郎きゅうたろうが本を引きはがそうとしたのだろう、腕の表側に小さな傷があるだけだ。



 なるほど、久太郎も本を引きはがすのを諦めたようで、本を澪のもとに運ぶための強硬手段として柚月ごと浮かして運んできたのだろう。

 久太郎は澪の命令に忠実なのだ。


「さすがはキューちゃん。よく命令を守ってくれたね」


 もう一度今度は鼬の頭をなでてやると、自分から頭を押し付けてもっと撫でてほしいと言わんばかりにこちらを見てくる。

 澪は少し微笑んで数秒撫でてやると満足したように鼻をフンと鳴らした。



 さて、柚月はがっちりと本を抱えたまま一向に目を覚まさない。どうしたものか。


「とりあえず、キューちゃん。幻覚の解除お願いできる?」

「キュ!」


 ふわりと宙に浮かんだ鼬が柚月へと近づくと、柚月の服の破けていた部分から青緑色の煙が細く糸を巻くように鼬の爪へと戻っていく。


 するとボロボロだった柚月の服に大きな傷はなく、いつも通りの姿に戻っていった。

 糸を巻き終わると柚月が自分で木に引っ掛けたほつれのみが残り、試験が始まる前の姿に戻った。


 久太郎の攻撃はすべて幻覚でできていたのだ。


「ご苦労様。さて、どうしたものかな……」




「合格でいいのではないか」


 澪が独り言ちた時、頭上から音もなく舞い降りた黒い影が合格の声を上げる。


「……自力で帰ってきていないのに?」


 そのことを少しも意に介さずに合否の判定をいまだに迷う澪に、影がもう一度合格という判断を上げた。


 ややあって声のした方向を振り返ると、澪の想像した人物が立っていた。


「やあ澪、良い宵だね」

「……こんばんは五十鈴(いすず)さん」

「はい、こんばんは」


 五十鈴いすずと呼ばれた男は、にこりと口元だけ上げた薄い笑みを作りこちらへ歩み寄ってくる。


 足元にいた久太郎はびくりと震えた後いそいそと依代の式へと戻ってしまい、術で浮き上がっていた柚月がどさりと地に落ち、うぐっといううめき声をあげた。



 五十鈴は180cmいかないくらいの身長であるのに、その堂々たる存在感は澪の式神ですら怯む程であった。


 暗緑色の艶のある長い髪を後ろで括り、麴色の淡い瞳を持ったその男は澪の隣に腰を下ろすと指を軽く上下に振る。

 すると地面に落ちていた柚月の体がふわりと浮き、五十鈴の方へとゆっくり進んできた。


 どうやら久太郎と同じ術を柚月にかけたようだ。


「そら、本だってちゃんととってきている。この森で探し物ができるだけでもすごいということはお前さんも分かっているんじゃあないか」

「……」


 澪はじっと柚月を見るだけで何にも言わない。



 五十鈴はやれやれと息を吐いた。


「分かっているだろう。ずっとここで匿う訳に行かない」


「……わかってる」


 澪はそっと柚月の頬に掛かっていた髪を払うと、優しい手つきで頬を包んだ。


「……」


 何も言わずにただ彼の頬を撫でること数秒。


 ややあって澪は目をつぶる。


「分かってる……」


 僅かに険しい表情でぎゅっと唇を結ぶと柚月の額へと指を立てる。

 ぽうっと柔らかい光が彼の額を照らし、やがてその光は彼に吸収されるように薄れていった。



 その光が完全に消えた後、ゆっくりと開かれた澪の瞳の先には地に片膝をつき頭を垂れる法衣を来た男達がいた。


 その数十数人。

 ただ音も立てず、ひたすら下を向いている。

 今この場で顔を上げているのは五十鈴と澪、ただ二人だけであった。



「戦闘には連れて行かない」


 澪は誰に言うでもなくその場でつぶやく。


「澪」

「分かっている」


 それを諫めるのは五十鈴。


 だがその言葉を遮るように澪は言葉を繋げた。


「その代わり、学園への入学を進めよう」

「……」

「この子にはまだ戦闘は早すぎる」

「……確かに学園へ行けばここでは得られぬ経験をするだろう。だがそれでは過保護が過ぎるのではないか?」


 五十鈴の言い分は、それではこの子のためにならぬと言外に言っているようだ。


 澪は五十鈴を振り返り、わずかに眉をひそめた。


「そうかしら。……確かにこの子が久太郎を振り切ってここへきていたら、私だって連れていくことを了承したわ。でも結果は気絶でしょう?」

「それはお前さんの課した試験の難易度が高すぎるのが原因だろう」


 五十鈴はやや呆れ気味に首を振った。


「厳しくしないと、いずれにしても生きていけないでしょう?」


 真っ直ぐに五十鈴の目を捉える澪の青褐色の瞳はわずかにも揺らがない。


「……」


 五十鈴は澪と柚月を交互に見遣ると、やがて肩を僅かに揺らした。


「……仕方あるまい」


 こうなった澪を止めることは誰にもできないと知っているのだ。

 けれども口の端には僅かな弧を描いた。


 ――ようやくだ


「手配を進めろ」

「「「は」」」


 五十鈴がそう口に出すと、複数の了承の意を示した返事が返ってきて跪いていた男達は一斉に散開する。


「僧正、燭紅しょっこう

「はい」


 呼ばれた一人の男は頭を垂れたまま五十鈴の前に進み出る。

 それは普段僧正と呼ばれていた男だった。


「聞いただろう。そういうことだから、面倒をかけるがよろしく頼む」

「承知いたしました」


 五十鈴はそれだけ言い残すと次の瞬間にはその姿が消え、後には木の葉がひとひら舞うだけであった。

 煙が空気に触れ霧散するようにいなくなった後でも、僧正は深く頭を下げたままである。



「丁重に運んでね」


 術をかけた本人がこの場にいなくなってもなお浮かび続けている柚月を運ぼうとする男たちに澪が声をかける。

 僧正はその声にようやく顔を上げ、坊主たちに運ばれていく柚月を見た。


 まだぐっくりと寝ているようで、彼はピクリとも動かない。


(これは当分起きないだろうな)


 苦笑いともとれるあいまいな笑みを称え、僧正は空を見る。


 色とりどりの星が空に散らばっている。

 その中でもひときわ明るく輝く星が、きらりと瞬いた。


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