1章 澪からの試験
第8話 澪からの試験
そんな出会いをしたのが五年前。
柚月は必死の形相で暗い森の中を走っていた。
「くっそ! あの鬼教官めっ!」
ハアハアと荒く息を吐きつつこんな状況に追いやった師に悪態をつく。
何しろ現時点で1時間ほど足場も視界も悪い夜の森を走り続けている。
悪態の一つでもつかなければやっていられないというのが率直な感想だった。
額から流れた汗が目に入り地味に痛い。兎にも角にも、一度体制を整えなければ。
柚月はちらりと後ろを振り返ると走る方向を急転換し、太い木の陰に隠れた。
振り返った闇からはゾクリと肌が粟立つ不気味な気配を感じる。
このままこの道を走っていては危ない、と直感的に感じたのだ。
十数秒後、ビュオォという音と共に突風が吹き先ほどまで柚月が走っていた道の木々に細かい傷を無数につけた。
方向転換をしていなければ今頃自分も傷だらけになって倒れていたのだろうと思うと、走って流れたわけではない汗が背中を流れたのを感じた。
(嘘だろ!? 何が試験だよ! 完全に魂取りに来てるじゃないか!)
口から不満が出そうになり慌てて手で押さえる。
今音を出せば気が付かれる。それだけは避けなければ。
慎重に木の陰から様子を伺っていると突風はやがて小さくなり、収まるころには核と言えるものが姿を現した。
「キュウ?」
それは小さな獣だった。
胴は細長く、熊の顔をディフォルメしたような可愛いらしい顔をしている。
だが短い手から伸びた爪は鋭く、鳴いたときに見えた牙もまた鋭かった。
柚月は実物を見たことはなかったが、固有名詞でいえばおそらく
……普通の鼬ではないことは明白だが。
その鼬が通った道にある木々はどれも傷だらけで、中心にあった木などは幹が半分ほど削り取られているではないか。
あの小さな体躯でこれだけの破壊力。
冗談ではない。
何より鼬の足元は地面についていないのだ。
キョロキョロと周囲を見回しているところを見ると、恐らく自分を探しているのだろう。
重力はいったいどこへ行ったのだ、家出をしている場合ではないぞ、戻ってこい、などと現実逃避を始めたいと訴える脳を奮い立たせ、柚月は何とかこの状況を打破できないかと考える。
この試験という名のしごきが始まったのが約一時間前のことであった。
柚月は澪に出会ったあの日から彼女のもとで隠と戦うための訓練を積み、今では15才となっていた。
もちろん基本的な教育を受けに麓の中学校に通っていたので、帰宅した後から訓練が始まったのだが。
訓練と言っても基礎的な体力向上トレーニングや筋力強化トレーニングといったごく普通のものであった。
最初の1、2年はひたすらそれらの基礎的な分野の鍛錬を積んでいたが、3年目ころから徐々に視覚や聴覚などの五感および、いわば第六感と言われるようなものを鍛える訓練が始まった。
それからだ。澪が鬼のような教官だと気が付いたのは。
ある時は境内でひたすら落とし穴を避け続けたり、ある時はお寺全体を使って式神と追いかけっこという名のどつき回しを食らったり、ある時は敷地内のどこかにいる人を見つけて言祝ぎをひたすら上げたりなど、意味のわからない訓練もした。
その訓練が終わると、柚月は立つこともままならずにぼろ雑巾のように縁側で転がっていた。
普通、12、13才の子供相手に大人気もなくボロボロになるまで打ち込み稽古擬きなんてやらせるか?一昔前だったら随分な問題にされるぞ、と幼心に思ったものだ。
ちなみに今住まわせてもらっているお寺は、隣に神社もあるため敷地はとてつもなく広い。
それぞれの名前は何と言ったか。
難しい漢字ばかりで読めずにいる。
それはそれとして、裏山まで合わせると1周するのに大人でも走って2時間程度はかかるのは広すぎないかと思う。
……まぁ、良い運動にはなるのだろうが。
住み始めのころなど、何度迷ってべそをかいたかわからないほどだった。
特に裏山などは一人で入ってしまえば右も左も分からなくなり出られなくなって完全に泣いた記憶もある。
その時は澪が迎えに来てくれたので事なきを得たのだが、なんでも許可なく入ると迷うのは当たり前なのだそうだ。
そういうことは前もって教えておいてほしい。
澪はいつもそうだった。
大事なことを伝え忘れているのだ。
もう態とやっているのではないかと疑う程度には。
話がそれたが、そのわけのわからない訓練にも慣れ、落とし穴にも引っかからず目的の人もすぐに見つけられるようになってきたのがごく最近のことで、それを見ていた澪がふいに山に入ろうかと提案してきたのが現状の発端だった。
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