最終話-2

「―—あの魔球の正体は、スライドパームです」


 去り際、二階堂に言われた言葉と彼の涙を思い出しながら、馬場は打席に立っていた。スライドパーム――横から見ていても摩訶不思議な変化をしていた。まずは一球、あの球筋をしっかりと打者目線で観察しなければ始まらない。


 そう考えていた馬場の胸元に、飛び込んだクロスファイヤー。


「ストラィィィィィィッ!!」


 ストレート――黄色いランプが一つ灯る。スタジアムが揺れている。桜火の最後のバッターが、少女の顔をした投手に、今確かに一歩、崖際に追いやられたこの光景に。


「あっさりゾーンにストレート!? どんな心臓してんだ、あのバッテリー!」


「ホームラン打たれたらサヨナラなんだぞ!?」


 二階堂が魔球の正体に気づいたことを、要もまた気づいていた。馬場がスライドパームの軌道を見極めようとするのも。一・二塁が空いているこの場面、慎重にボールから入るのがセオリー。だからこそ、振ってこないと決めつけた。


 打席で深く息を吐き、馬場はこの若きバッテリーに、心から感服する。


 最大の武器であるはずの魔球の効力を、「投げない」ことによって最大限高めている。来るに違いない、とパームを意識することで、簡単に打てるはずの他の球種に反応できない。


 だからって普通、ここで内角にストレートを投げられるか。強気なんて言葉じゃ足りない、イカレたリード。それに一切疑問も持たずに、信頼しきって投げるピッチャーも同じくらいイカレている。これでまだ一年生。今まで、彼らより力や技術に優れた選手に何人もあってきた。


 しかし、二人で一つとしたとき、彼らほど爆発的な化学反応を起こす二人を馬場は知らない。


「勝つぞォォォォォォォォォッ!!」


「腰落とせェッ!!」


「最後まで丁寧に!!」


「馬場ァッ!! 打てええええええええええ!!」


 両軍の絶叫が乱れ飛ぶ。もはや蝉の声など聴こえない。ああ……そうだ。


 子供のころ、憧れた野球場の熱気は、こんな感じだった。



 自然に出したバットが、スライドパームを叩き潰した。



「あっ」と誰かが声を上げた。夏生が、要が、青空を見上げる。無重力の宇宙を泳ぐ星のように、白球はどこまでも高く飛んでいった。







「――ファール! ファァァァァァァル!!」




 僅かに左へ切れていった打球を見届け、馬場は悔しがるでもなく――笑った。


 楽しい。心の底から、野球が楽しい。今の俺なら、どこへでもいける。




 夏生は再びスイッチを入れた。


 出力最大。呼吸を忘れ、唾液を飲み込むのさえ忘れるほどの、海底のように深い集中の世界。これが終わったらぶっ倒れても構わない。もう先のことは考えていられない。次の一球で、必ず仕留める!



 どちらかの終わりが近づいている。一塁ベースを守りながら、佐藤は、その気配をすぐ背後に感じていた。


 今だから分かる。光葉での三年間が、野球をやってきた十一年間が、あまりにも特別に、美しかった理由。それは、咲く時期を選ぶ桜のように、終わりがあるからだったのだ。


 この日々は、いつか終わるから美しい。でも、終わるのは今じゃなくていい。もう少しだけ。あと少しだけ、この儚く美しい、夏桜なつざくらの下にいたい。



 光葉ベンチで、姫宮塁は拳を握る。あのマウンドに、立っているのは自分のはずだった。自分が立っていたかった。ここで負けたら、塁は一生自分を恨むだろう。


「勝てよ……勝てよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!!!」


 バカ、安静にしてろと、田中と鈴木が塁の背中を支える。兵頭がぎゅっと両手を組んで祈り、紫乃はその目を大きく開いて、最後の瞬間を見届けようとしていた。



 サインと共に、交換される互いの信頼。要は、馬場のインローいっぱいにこれでもかと力強く、腕を伸ばしてミットを突き付けた。少しでもズレたらホームランになるコース。夏生なら、絶対にココに投げてくれる。


 夏生もまた、要がそこにその球種と判断したなら、間違いないと信じ切る。捕手を完全に信頼し、思考も身も全て委ねる。そこまで脳のリソースを空っぽにして初めて、夏生のコントロールは機械を超える。


 全てを込めた一球が、今、解き放たれた。




 冬、枯れた桜の木の幹を割って、煮詰めると、濃密な薄紅色の色素が採れる。


 人々は桜の花びらだけを愛でるが、あの花弁は、幹が一年かけて蓄えた、薄紅色の炎の発露に過ぎない。桜は、幹まで美しい桜色でできている。


 だから、桜に「終わり」はない。目に見える美しさは一瞬でも、誰にも見られることなく、桜の木は一年中、芯から、真っ赤に燃え盛っている。


「『心に、炎を』――それが桜火の校訓だ!」


 目をかっ開き、身を乗り出した主将・駒場は、腹の底から豪快に笑った。


「桜火は枯れん! 心に炎がある限り! チームのために殺してきたその心に、本当は誰よりも、燃え滾る炎を燻ぶらせていたのだろう! 馬場翔星――今こそ、好きに咲け!」


「―—了解、キャプテン」


 氷の砕ける音がした。


 真ん中付近から不規則に揺れ、要の構えたインローに寸分の狂いなく落ちた白球を、爆炎を纏うフルスイングが打ち砕いた。打球が火矢の如く夏生の真横を駆け抜けて、二遊間をぶった切る。



 ――ポジションは、ど、どどどどこでもやります!



 あの自己紹介は、もしかしたら謙虚な彼が唯一見せた、自信の表れではなかったか。


 振り返って、要は時々思い出す。二人きりの部室で要を見上げた、凄絶な眼光と共に。



 僕、やめるよ。夢まで謙虚にするのは、もうやめる。








 火の出るような打球は、ショートを守る、山路勇気のグラブに飛び込んだ。




 グラブを守るように高く掲げたまま、顔面から着地する。ボールは、手入れされたグラブのポケットにしっかりと入ったまま。時が止まる――


 叫ぶ。吼える。涙する。ナインもベンチも、選手全員がショートの守備位置に殺到する。もみくちゃにされながら、山路は呆然と、グラブを掲げたまま放心していた。


 たったワンプレー。腹這いに着地して、前だけ汚れたピカピカのユニフォーム。心の準備の時間に比べて、出番はほんの一瞬――それでも、あの日から、疑わずに積み上げてきた。


 いつか、一二番目の選手として、必要とされる瞬間が来ることを。



 打席で馬場は泣き崩れていた。桜火は誰も、立ち上がれない。ただ一人、駒場だけが、豪快に笑いながら言った。その目から、滂沱の涙を流して。「――ナイスゲーム!」


 兵頭は立ち上がって、号泣しながら手の平が腫れるほど拍手を続ける。紫乃はベンチにひっくり返り、溶ける様に長く息を吐いた。


 勝者を祝うラッパのように。敗者の慟哭のように。サイレンが鳴る。


 歓喜の輪の中に、プロテクター姿の少年が加わる。山路に、覚悟をくれた人。テレビの中のプロ野球選手より、山路が強烈に妬み、憧れた人。


 向かい合った要が、上気した顔で、獣のような目で手を振り上げるのを見たとき、山路は初めて放心から覚めた。全身の血が熱くなるのに任せて、山路も右手の平を振りかぶる。



 二人の手の平が、絶叫と共に音高く打ち鳴らされた。

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