最終話-1

 夏生の拳が天を衝く。光葉の雄たけびが長野中に響き渡る。スタジアム全域が地鳴りのように揺れる中、二階堂は、打席から一歩も動けないでいた。


 八五キロのパームボールに全ての意識を集中させていた彼にとって、最後の一二一キロのストレートは、姫宮塁のそれより速く感じた。何より、コースだ。アウトローいっぱい――野球界で、この場所は「原点」と呼ばれる。原点に投げ切られたのだ。あの一瞬、針で秘孔を突かれたみたいに、体が硬直して動かなかった。


「見逃し三振――!?」


「なんで振らねえんだよ、あの場面で!?」


「引っ込めヘボバッター!」


 観衆の目の半数は、夏生の投球の完全さよりも打者の不甲斐なさに向いたようだった。二階堂は、球審に促されて、ようやくベンチへ引き返した。


「二階堂」


 ベンチから出迎えたのは、主将・駒場。


「あ……キャプテン……」


「――素晴らしい勝負だったな!」


 なぜこの人は、こんなときまで笑えるのか。溌溂とした主将の笑顔が、滲んでぼやける。


「今日の全てが、お前という選手の財産になるだろう! 俺はお前が羨ましい!」


 駒場のことは一番苦手だった。声のボリューム調節機能が壊れているし、ポジティブ過ぎて浮いているし、ふんどし一丁で寮を徘徊するし、今時うさぎ跳びだのタイヤ引きだの非効率的なオーバーワークばかりするし、それなのに一切怪我しないし、たまに木刀で素振りしているし……理解不能の宇宙人。彼が主将に選ばれた意味が、ようやくわかった。


「馬場! お前も存分に楽しんで来い!」


 駒場に送り出された、黒い、暗い、影の塊を、馬場だとすぐに気づけなかった。


「楽しむ……? 俺が打たれていなければ、もう試合は終わっていたんです。俺のせいで、あの一球で、試合がひっくり返ったんですよ……楽しめるわけないでしょう」


「お前は阿呆だな! 思い通りにならないから、野球は面白いんじゃないか!」


 駒場に笑い飛ばされて、馬場の足が止まる。


「お前はチームの思いを背負いすぎている! どれ、お前のその重たい荷物、ちょっとの間俺に寄越せ! 全部持っておいてやる!」


 バンッ! とシャレにならない威力で、駒場が馬場の背中を張った。「ぐおっ!」ともんどりうってよろめいた馬場の顔から、陰が吹き飛ぶ。


「一年夏から、我が桜火のエースという凄まじい重責……それを今日まで背負ってきた大義、ご苦労であった! この夏が終われば、キャプテンはお前だ! 言っておくが、荷は更に重くなるぞ! だがな、よく聞け。人のために生きるのは、自分のために生きたあとの余力でやることだ! 今日も、今日が終わっても、それを忘れるな! 桜火のエースである前に、貴様の名は馬場翔星! 常に己の、心の躍る道を征け! そういう者に、人はついてくる!」


 雷鳴のような言葉が、幾重にも着けていた馬場の仮面を、粉々に叩き割る。


「……打ってください、馬場さん。まだ、駒場さんに何も返せていない。……今さら、こんなにも、終わりたくないって思うなんて……」


 二階堂の拳が、胸のエース番号を打つ。二階堂の黒い瞳から、透明な涙がしたたり落ちるのを、馬場は呆然と見つめていた。



 太陽は、西に傾こうとしていた。


 夏生と要は、最後の打者が打席に入った瞬間、その雰囲気の違いを克明に感じ取った。


 馬場翔星――初めてマウンドに上がったとき、要は彼を感情のない殺戮マシーンのようだと思った。常勝を義務付けられた名門のエースとして、淡々と、確実に、打者を殺していく氷の人形。全国の舞台で、かつてこういう選手を何人か見てきた。彼らの体は、共通して、彼らのものではなかった。チームの所有する兵器、そういう感じだった。


 そんな馬場が、今、異様に静かだ。殺気、威圧感……そういったものを全く感じない。さっきの駒場のバカでかい声の演説が、なにか心境を変えたのか。


「ツゥゥゥゥアウトォォォォォォッ!!」


「バッター集中! 集中~!!!」


 守備に散るナインが、喉を痛めて叫び散らす。一生分の声をここで出し尽くすように。


 彼らの言う通り、二死までこぎつけた今、互いに小細工はない。打つか抑えるかの明快な決戦。夏生は顔に滲む汗をぬぐって、呼吸を整える。


 この消耗は、スイッチを入れた代償。一球投げただけで、頭に血が足りなくなったみたいにぼうっとしてしまう。繊細を極める爆弾処理を終えたばかりのように、気持ちの糸が切れてしまう感じ。こうなったときの、自分の気持ちの上げ方を、夏生は事前に探してきていた。


 結果、一番効果があったのは、要の顔を見ることだった。


 マスク越しに、目と目が合う。それだけで冷水を浴びたように、気持ちが引き締まる。理屈じゃない。初めてバッテリーを組んだあの日から、相棒は要以外に考えられなくなった。


 要だけではない。ここに立たせてくれている全員の顔を、もう一度見回す。それは逆効果だった。皆の表情を見て、泣きそうになってしまった。こんな幸せが、許されていいのだろうか。


 鼻をすすり、要のサインに頷いて――夏生は、振りかぶった。


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