第22話-3

 球速表示は『八五キロ』――スクリューより更に五キロも遅い。リリース直後は、やや山なりで「カーブ」のように見えた。直後、その球は「チェンジアップ」のようにブレーキをかけながら、「スライダー」のように遠ざかっていったかと思うと、次の瞬間、「フォーク」のように突然ストンと落ちたのである。


 意味不明、理解不能の魔球――頭が真っ白になった二階堂は、即座に打席を外し、素振りをしながら必死に散らかった脳内の整理を試みた。


「スコアラー!!」


 桜火ベンチに轟く浦島の怒声。


「今の球はなんじゃ!? スライダーとスクリューしかないんじゃなかったのか!」


「いえ、間違いなくそれだけでした……東城戦も秀明館戦も、それしか投げていなかったです」


「バカな……隠しとったのか……!? この瞬間のためだけに……!?」



 用意周到。打算的な策略家。できる努力を尽くした後は、目的のためにどんな手段でも使う――一条夏生とは、最初から、そういう女だ。


「ご忠告ありがとう、二階堂君。真っ正面からじゃ勝てないのは、よく分かったよ」


 マウンド上、一条夏生が赤い舌を出す。



「これがボクの、生きる道だ」




 敵を騙すにはまず味方から。夏生の魔球を知る者は、部内でも二人だけだった。紫乃と要。強いストレートを投げられるようになった五月から、新球種習得に向けて動き出していた。


「この球は、公式戦で、絶対に困った時しか使わない」


「それってどんな時だよ?」


「『投げる球が見つからない』、って感覚になったとき」


 魔球が完成した時、夏生は要にそう言っていた。


「不破さんから三振奪ったとき、痛感したんだよね。変化球が最も輝くのは『最初の一球』―—僕が男子に勝つためには、武器を隠し持つしかないって」


 ――今が、「その時」だったよな。


 要の前で、二階堂が打席に入りなおす。その表情はまだ晴れない。当然だ。初めて見たとき、要もあの球のあまりの気持ち悪さに度肝を抜かれたのだ。こんな短時間で看破されてたまるか。


 三球目。バッテリーはゾーンに魔球を続けた。さっきの空振りで、桜火ベンチは格段に三塁ランナーを走らせにくくなった。ここからは少しだけシンプルに戦える。


「く……ッ!」


 ところが驚くべきことに、二階堂は魔球をバットに当てた。体勢を崩しながら先端に掠らせ、打球を後方へ転がす。鋭い呼気、血走る眼光、一目で極限の集中状態と分かる。


 二階堂律。やっぱりすごい。それでも、続けるしかない。魔球以外のボールは間違いなく前に飛ばされる。


 ファール、ファール、ボール、ファール、ボール――多投するたび、魔球は不規則に、微妙に変化を変える。そのすべてに間一髪で食らいつく二階堂の方が、尋常ではない。


「そうか……ハハ、すごい……そんな手があったなんて……!」


 要は戦慄した。汗びっしょりで食らいつきながら、二階堂が――笑っている!


 要の悪い予感は、的中していた。二階堂はこの瞬間、夏生の魔球の正体を見破ったのだ。



 夏生の魔球の正体は、「スライドパーム」。


 手のひらで鷲掴みするような握りで投げることからその名がついた「パームボール」の派生形。そもそもパームとは、チェンジアップに近いブレーキと、ナックルのように不規則に揺れながら落ちるのが特徴。プロ野球でも使い手はほんの数名という幻の変化球だ。ただそれは、決して習得が難しいからではない。使われないのには、それ相応の理由がある。


 最大の弱点は球種がバレやすいこと。このボールは意図的に回転を殺して投げる。そのため、他の球種に比べて沈むタイミングが早い。独特の軌道ゆえに、打者は即座に「パーム」と判断してから対応できる。毎日のように試合を行うプロ野球では、すぐに対策されてしまう。


 しかし、だからこその魔球とも言える。滅多に投げる人間のいない球種。その不可思議な軌道。そして夏生はサイドハンドで投げるから、スライダーのように横にずれながら落ちる、一層気持ちの悪い球になっている。かつて西武、ソフトバンクに在籍した左のサイドハンド、帆足和幸は、この独特なパーム――「スライドパーム」を武器に活躍した。


 一条夏生は、彼を超える「スライドパーム」の使い手になるかもしれないと、二階堂は興奮を抑えきれなかった。なぜならこの球は――“指が短いほど”素晴らしい変化をするからだ。


 パームは回転を殺して投げる。指が長いと、どうしても接地時間が長く、余計な回転がかかりやすくなってしまう。スライダーなどの変化球とは真逆の発想。同じサイドハンドの二階堂がこの球種を真似しても、これほど不気味な軌道は一生描けないだろう。


 まさしく、女子投手である、一条夏生ならではの武器。


 だから二階堂は、高揚しているのだ。かつて自分が「欠点」と指摘したソレを、彼女は武器として磨き、逆に斬りかかってきた。――なんだこの女、面白過ぎる!


 ファール、ファール、ファール――投手・馬場翔星と打者・姫宮塁の対決を思えば、迫力にかける二人の勝負。それでも、分かる者には伝わっていた。この攻防の凄まじさが。光る汗を散らし、二階堂は目を輝かせ、まるでただの少年のように、野球を楽しんでいる。



 投げ続けながら、夏生は、思い出していた。この七年間、大きく回り道した野球人生を。


 遊ぶ時間を全部我慢して、毎日庭の壁を相手に身につけた制球力を、ある日突然、夏生は捨てることになった。夏生は涙をのんで、左腕に染みついた力にお別れを言った。


 いつの日か、必ずもう一度、取り戻すと決意して。



 ――さあ、スイッチを入れよう。


 二階堂に投じる十五球目。夏生は一度目を閉じ、制御装置リミッターを外した。


 全身の細胞一つ一つ、その全てを順番に目覚めさせていく。頭のブレーカーが落ちるほど、有りっ丈を解放する。頭のてっぺんから足の爪先まで、帯電する如く、全身に熱が漲る。世界の解像度が、十倍細かく、なめらかに輝いて、一粒一粒浮き上がるように網膜に映し出される。


『いいか? そもそもな、投手は全部の球を四隅ドンピシャに投げる必要ねえんだよ。お前にとっては当たり前だったのかもしれんが、狙ったところに投げるってのはすごい集中力がいるんだ。一球ごとに命削るようなもんだぞ。それを一日百球も二百球も投げやがって……』


 師匠の言葉を回顧しつつ、ゆっくりと、体を始動させる。上げる足の高さ、腰を捻る深さ、タメの長さ、肘の角度――どれ一つ、間違えないように細心の注意を払いながら。


『普段はもっとアバウトに投げろ。そのために球に威力をつける。そして、ここぞというとき――ギアを上げるんだ。二〇〇パーセントの集中力で、寸分違わず目標を射抜け』


 ギアとは、野球でよく使う言葉だ。ただ夏生の場合、「スイッチ」の方がしっくりきた。


 下半身で生み出した力を吸い上げ、腰で練り上げ、増幅させて、指先へ。機械のように精確に。そこへ最後に、思いを乗せる。「撃ち抜く」――血の沸騰するような灼熱の意志を。



 そうして夏生は、機械を超える。




 空間に縫い留められたように、キャッチャーミットは動かなかった。


 一条の白い矢が、ミットの芯を撃ち抜いた。まるで運命が予め、ボールの軌道を絵筆で引いていたみたいに。二階堂の膝上部を横切る高さ、ホームベースの角を削るコースに、一直線にストレートが飛び込んだ。時が止まったスタジアムに、セミの声だけが響き渡る。



 雷に打たれたように硬直していた球審は――両の拳を、硬く握って絶叫した。

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