第21話-3

 野球には、物騒な言葉が多い。


 捕殺、刺殺、挟殺、併殺。死球、憤死、盗塁死。なぜなのか。それは時として、野球のアウトたった一つに、命と等しい重さが生じるからだ。


 九回表、一点ビハインド、ツーアウト一塁。光葉最後の打者は、響誠。


「打てる! 打てるぞ!」


「打って愛しの一条をホームに返せ! 一番燃える展開だろ!」


「おい、あんまプレッシャーかけんな! 楽に打たせろ!」


 先輩たちの激励が、まるで耳に入ってこない。その代わり、「終わった」「あいつか」「代打いないの」――客席から漏れてくる諦観ばかりが誠の耳朶を打つ。


「響」


 目の前に、いきなり佐藤の顔が現れた。正面から誠を覗き込んで、佐藤は言う。


「ここで打てなくたって、お前は光葉の誇りだよ」


 誠は言葉を失った。なぜこの人ではなく、自分が五番を打っているんだ。


「キャプテン命令だ。絶対、三回振ってこい。いいね」


「三、回……」


 誠は、小さく反芻する。三回振ってこい。それは、打てる確率が絶望的に低いバッターに対して、仲間が辛うじて出せる助言。自分にはお似合いのアドバイスだ。


「響。あたしからも一つだけ。自分が、やってきたことを信じろ」


 やってきたことを信じろ。道端で初めて会った人間にでも言える、ありきたりな言葉。


「誠」


 いよいよ行かなければならなくなったとき、要が背後から肩を抱いて、言った。


「――頑張るな」


 頑張れよ、と同じイントネーションだったから、耳までおかしくなったのかと思った。


 打席に入るなり、重力が十倍に感じられた。バットがダンベルのように重い。電光掲示板に灯った二つの赤いアウトカウントが、なぜだか踏切のように見えた。カンカンカンカン、焦燥感を駆り立てるあの音。誠は線路の真ん中に立ち、降りて来た踏切に、閉じ込められる。


 今からここを通るのは、一六〇キロの快速列車。


 マウンドに立つ馬場の巨体は、向き合ってみるとまさしく大山だった。


 三回振れ。やってきたことを信じろ。頑張るな――三つの呪文が頭の中を巡る。

初回の満塁機に併殺。裏の守備でタイムリーエラー。あのどちらかでも無かったら、今、追い詰められているのは桜火の方だったかもしれない。今日ほど、過去に戻りたいと思ったことはない。そして、打席を誰かに代わってほしいなんて情けないことを思うのも――


 ギロチンの刃がゆっくりと上に上がるように、馬場が投球モーションに入る。三回振れ。三回振れ。三回振れ……! 誠がバットを差し出したとき、ボールは既にミットへ突き刺さっていた。明らかな振り遅れ。球速は『一六一キロ』。馬場の目が、危うい光を帯びている。


 二球目。おぞましいボールが内角を撃ち抜く。可能性を感じない着払いのスイングに、あぁ、と客席からため息が漏れる。ノーボール、ツーストライク――

縋るようにベンチを振り返った誠は、ネクストにしゃがみ込む佐藤の目を見て、息を呑んだ。爛々と血走る双眸。打席に立ちたくて、仕方がない目だ。……なぜ、そんな目ができる。代わりたい。代わってほしい。彼の試合を、自分なんかで終わらせるなんて、できるはずがない。


 ――四球だ。泥沼で溺れるようだった誠にとって、それは一縷の光明に見えた。

馬場はコントロールがよくない。最後の一球ともなれば力みも生まれるはずだ。そもそもさすがに、次は一球外してくるだろう。そうだ。ここからはもう、ボール球が続くことを祈る。才能のない自分にはそれしかできない。


 誠は塁がしたように、いや、もっと極端に、バットを短く持ち直した。真ん中に来たらカットする。それ以外は、見極める! 頼む、外れろ、外れてくれ。いっそ、ぶつけてくれ!


 ――三回振ってこい。


 その瞬間、針の穴ほどに狭窄していた誠の視界が拓け、目の前に無限の蒼穹が広がった。



 楽になろうとしていた。三振が怖くて、いっそバットに当てるのが怖くて、でかい図体が小人のように縮こまっていた。何がカットだ。カット打ちの練習なんて一度もしたことがないくせに。それを追求してきた加賀美でさえ、敗れて今、悔し涙を流しているではないか。


 ――やってきたことを信じろ。


 砂漠に降る雨のように、佐藤と紫乃にもらった言葉が今になって染み込んでくる。バットを振ることを、恐れてはならない。才能のない自分が、ぶっつけで塁のような天才の真似事をしてはいけない。


 一度は短く持ち直していたバットのグリップエンドに、誠は左手の小指をひっかけた。小学生のときから、ずっとこの長さで持ってきた。目を閉じても同じように持てる。指の位置を潰れた血豆の形がグリップにピタリと吸い付く位置を、体が覚えている。


 誠がやってきたのは、ただひたすら、愚直なまでの打撃練習だった。来た球を打つ。来た球を打つ。それだけだ。頭も悪い、運動神経も欠けている。全く結果の出ない日々が続いても、誠は練習をやめなかった。どうしても、将来、勝たせたい投手がいたから。


 一塁上、真っすぐこちらを見ている、信じ切った顔で見つめている少女の顔が、今ならちゃんと目に映る。大好きだ、夏生。結婚したい。


 紫乃が誠に課した個別課題は「広角打法」。馬鹿の一つ覚えみたいに全ての打球を引っ張っていた誠に、紫乃はこう言った。「そんなのは、パワーのない奴の打ち方だ」と。


 息の根を止めるその瞬間まで、一切手を緩めない殺し屋のように。凍てつく殺気をぶち撒けて、馬場の怪腕が振り下ろされる。その瞬間、誠の体から、無駄な力みが全て抜けた。




 刹那の勝負である野球において、練習の意義とは。


 新しい技術の獲得以上に、技術の「保存」である。


 人間が呼吸を、無意識に行えるように。練習の反復によって体に「保存」した動作は、意識せずとも正常に働く。そうして体に染み込ませた技術は、押しつぶされそうなほどの重圧の中でも、頭からすっかり飛んでしまったように思えても、決して、体から消えることはない。


 要は知っていた。誠が素晴らしい打者であると。最も身近にいたすごいバッターだったから。


 手本として、ずっと誠を見てきた。彼に宝石のような才能はない。代わりに、黙々と素振りする彼のスイングには、不格好な石ころを磨いて磨いて磨き抜いたような、ため息の出る美しさがある。要は、そんな誠に憧れていた。


 だから、言ったのだ。

頑張るな――お前の体は、もう、完成している。




 その一振りが、幾百万を物語った。


 静寂に包まれる長野オリンピックスタジアムのバックスクリーンに、ドン、と鈍い音がした。ゆるやかに、空気が沸騰していく。そして、大爆発を起こす。


 盤上が、世界がひっくり返る。つい先刻まで光葉の喉元に突き付けられていた刃は、急転直下、桜火の首筋に据えられた。文字通りの起死回生、逆転ツーランホームラン――


 熱狂的な歓声の渦の中、二塁を踏んだところで、誠はこらえきれず野球帽のひさしをおろす。


 練習はすぐに嘘をつき、努力は簡単に裏切る。身をもって知っていた。だから、たった一度報われたぐらいで、今までの不誠実を許してはだめだ。割に合わない。分かっているのに――どうしても涙が止まらない。無為に思えたあの日々に、感謝以外の感情が、浮かんでこない。


「誠! 誠! まことぉぉぉっ!!!」


 一足先にホームを踏んだ夏生が、真っ赤な顔で両手を広げて出迎える。誠がホームを踏む。夏生が、爽介が、全員が続々と誠に飛びつき、歓喜の輪を作った。駆け寄ってくる要を見た瞬間、誠は要に向かって突進する。


 絶叫する二人の体が、激しくぶつかった。

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