第21話-2

 塁の代走に夏生が送られ、試合が再開。場内に夏生の名前がコールされると、スタジアム一帯を様々な色の歓声が埋め尽くした。九回表、三対四、ノーアウト一塁――打席に加賀美というところで、桜火監督・浦島が動く。


『桜火高校、守備の交代をお知らせします。ピッチャーの馬場君がレフトへ。レフトの二階堂君が、ピッチャー。ピッチャー、二階堂君』


 レフトから小走りに走ってきて、再びマウンドに登るのは、左キラー、二階堂。


「なんだよ。馬場の顔面に当ててやろうと思ったのになぁ」


 打席に入った加賀美の目は、口調は、まるで冗談を言っていなかった。


「馬場さん。不破と響を頼みます」


 ボールを受け取る際、二階堂は馬場にそう言った。馬場は目を見張った。四回の表に馬場が彼からボールを受け取ったときとは、表情が全く違う。


「僕がレフトに残されていたのは、この終盤でのワンポイントリリーフ、ですよね。命に代えても、加賀美を仕留めます。だから、そのあとの二人を、よろしくお願いします」


「なんだぁ……いい顔するようになったじゃねえか」


 塁をきちんと打ち取っていれば、浦島はそのまま馬場に投げさせただろう。自分が不甲斐ない一球を投じたばかりに――そう思うと、馬場の口から素直な詫びの言葉が口をついて出た。


「悪いな、二階堂。手間かけさせる」


「あれ? 謝る相手が違うんじゃないですか?」


「ハッ! お前マジで出世するぜ」


 馬場はレフトに入り、マウンドに一人残った二階堂と、打席の加賀美の視線がぶつかる。


 左打者で選球眼の良い加賀美は、馬場に対して好相性。彼が出した四つの四球のうち二つを加賀美がもぎとっている。ここでのワンポイントリリーフは、加賀美にとっては嬉しくない。


 振りかぶった二階堂は、目を真円に近いほどかっ開き、歯を食いしばって腕を振るった。


「――ハァッ!」


 初めて見せる獣のような形相、気迫が、ボールにも乗り移っていた。カミソリのような荒々しいシュートボールが、加賀美の首元付近を抉る。とっさに退いた加賀美の背筋に寒気が走る。


 電光掲示板に灯る、『一四〇キロ』――ちょっと、待て。本当に初回と同じピッチャーか。


 皮膚がつながっているのを確認するように首をさする、加賀美の頬に汗が伝う。コントロールは滅茶苦茶。その代わり、触れれば切れそうなほどに、球威とキレが増している。


 長いイニングを投げて試合をつくる先発投手と、たった一人を全力で抑えるワンポイントリリーフでは、その役割が全く異なる。まるで二階堂に、今、先発で投げていたときとは全く違う人格が乗り移っているみたいだった。


 ストライク。ボール。ボール。ストライク。馬場もかくやという暴れ球に、一度もバットを出さずしてフルカウントに。仲間のガラガラの声援が、加賀美の耳から遠ざかっていく。水底に落ちていくように、脳が、視神経が、深い集中の世界に入っていく。


 ストライクなら絶対に当てる。ボールなら絶対に見極める。


 六球目。背中側から内角へ、強烈なカミソリシュートが加賀美へ斬りかかる。剣戟のごとくバットで弾き、カット。次も内角高め、と思ったら遠ざかっていくスライダー。間一髪、腰を曲げながら斬り払う。たった一八・四四メートル。球種とコースの判断に要せる時間は〇・一秒。凧糸の上で斬り合っているかのようだ。酸素が薄い。それなのに、二階堂はすぐに振りかぶる。投球テンポが上がっていく。呼吸をする暇がない。こいつは……四球が、怖くないのか。


 スローモーションのように見えていた世界が、その瞬間、高速で再生された。

加賀美にとってあまりに遠く、僅かに低いその場所に、純白のレーザーがアーチェリーの矢のように駆け抜けていった。息が詰まる。手が出なかった。しかし、外れた――


「ストライィィク! バッターアウッ!!」


 歩き出しかけた加賀美は、足場が陥落したように、思わずその場にしゃがみこんだ。


「今……のが、ストライク……? 有り得な――」


「――しゃあああぁぁぁぁぁぁっ!!」


 マウンド上、グラブを拳で叩いた二階堂の絶叫が、加賀美の抗議をかき消す。それは僥倖に他ならなかった。判定への不満を表に出すのは、審判への侮辱行為。最悪退場も有り得る。


「今のは仕方ない! 紙一重だった!」


「まだワンナウト! いけるいける!」


 ベンチに引き返す加賀美の頭を、無限の後悔が輪廻する。なぜ手を出せなかった。もっとゾーンを広げて待機するべきだった。いや、そもそも一度打席を外して間をとるべきだったのだ。明らかに、精神的に余裕を失っていた。


「監督……さっきのは、ストライクですか」


「ああ。アウトローいっぱいの、二百点満点の球だ。遠く見えたろ」


「……はい」


「しつこく内角高めばかり意識させて、お前のストライクゾーンを“ずらした”んだ。選球眼の良い奴ほど錯視を起こしやすい。力任せに見せかけて、全部狙ったところに完璧に投げてたんだよ。最後の一球はまさに、針の穴を通すような……緊急登板であの投球。参った」


 そこまで敵を称賛してから、紫乃は立ち上がり、加賀美の頭に手を置いた。


「泣くな。まだ何も終わってない」


「……はい……っ!」


 美形をくしゃくしゃにして、加賀美は嗚咽を押し殺した。


『――四番、ライト、不破君』


 ネクストから、光葉で最も小柄な選手が打席に入る。悔しさに崩れ落ちながら、加賀美は普段、冗談ばかり言い合っている友の背中に振り絞った。


「頼む、竜児……打ってくれ……」


「任せろ」


 剣呑な眼差しで打席に踏み込む不破。その前に立ちはだかるのは、二階堂ではない。


 場内に再びアナウンスが響き渡り、二階堂律から馬場翔星へ、三度目のスイッチ。大柄な馬場が小高いマウンドに登ると、両者の身長差はまるで大人と子どものようだった。


「碧都の仇討ちもさせてくれねえのかよ。徹底してんなぁ」


 来い――身構える不破の目の前を、白い光線が通過する。


「ストライィィク!」


 スタジアムが熱狂的に揺れる。どよめく。電光掲示板に灯る、悪夢のような『一六〇キロ』。それが不破の胸元を過ぎったのである。もう、ほとんど目で追えない。人間の投げる球か、これが。まして申告敬遠までしたほど警戒する打者に対して、初球から真っ向勝負とは。完全に裏をかかれた。名将、浦島は、試合中に起きた全ての事象を伏線にする。


「つーか……思いっきり内角投げたよな、今ァ……?」


 不破のこめかみに青筋が浮かぶ。塁にぶつけておいて、なんのためらいもなく内角に投げられるなんて、一体どんな神経をしている。


投げ終えた、馬場の瞳は漆黒。勝利のために、仲間のために、感情を捨ててしまったような目だった。たとえまた打者にぶつけて悪魔に成り果ててでも、ひたすらに勝利を渇望するその妄執。不破を見下ろす絶対零度の眼光。冷たすぎて、いっそ焼けつくように、熱い。


「――見下ろしてんじゃ、ねぇェェ……ッ!!」

 不破の小さな体から、灼熱の闘気が溢れ出す。誰よりもバットを振ってきた。背が伸びない分、誰よりも食って体重をつけた。デカいやつに負けない筋力をつけた。


「だらぁッ!!」


 凄まじいスイングが空を切る。これでもまだ当たらない。速すぎる。一体塁は、どうやってこんな球をバットに当てていたのか。もう、投げてから振り始めたのでは間に合わない。投げる前に始動させ、ボールが解き放たれた刹那の内にミートポイントを操るしかない。


「あの子、小さいのに、すごいスイング……」


 客席で誰かがそうこぼした。違う。逆だ。大きな体に生まれていたら、平凡な選手になっていただろう。小さい身体に生まれたからこそ、火が点いて、自分はこれほどの選手になれた。不破の体格を見て、勝手に同情する人間、惜しむ人間はたくさんいたが、全くもって間違っている。不破は、不破竜児という人間を誇りに思っている。


 馬場が足を上げた瞬間、不破は両腕にあらん限りの力を込めた。


 今日の試合を、観に来てくれている母ちゃん――俺を産んでくれて、ありがとう。


「ウラァァァァァッ!!!」


 金属バットとボールが衝突した瞬間、ボウリングの球を打ったのかと思った。


「ぐお……ッ!」


 リストの強さで踏ん張り、体中の力をかき集めて強引に振り抜いた打球がセカンドへ転がる。まだだ、走れ。息も吸えぬまま全力疾走。長くない脚を必死に回す。


「――アウトォォォッ!!」


 一塁ベースに飛び込んだ不破の頭上から、降り注ぐ死刑宣告。光葉の命は、あと一つ。

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