第22話-1
『光葉高校、守備の変更をお知らせします。代走いたしました一条さんが、そのまま入り、ピッチャー。ピッチャー――一条さん』
九回裏、一点差――異様な歓声を一身に浴びて、最終回のマウンドに少女が登る。
一条夏生。そして、向かい合う捕手は――王城要。
「キャッチャーは、王城でいきましょう」
そう言ったのは佐藤だった。他に誰が、それを言い出せただろうか。
「いいんだな、佐藤」
「はい。もう十分、独り占めしてきましたから」
最後の守備。紫乃の決断で、光葉は大幅に守備位置を入れ替えた。捕球能力のずば抜けた佐藤をファーストに回し、守備の良い山本をサードへ。延長に備え、守備難の誠はレフトに残す。「打たせて取る」が信条の夏生に合わせて、内野の守備を最大限に固めた格好だ。
「こんなヤバイ局面で女に投げさせるのか!? 何考えてんだ光葉の監督は!?」
「自分も女だからって特別扱いか?」
「苦肉の策だろ。姫宮も田中も下がってるんだから」
「他のメンツでもう少しマシなのがいるだろ、小早川なんて真水シニアのエースだぞ」
「お前知らないのか、あの娘、秀明館相手に完投してるんだぞ」
「知ってるよ! でも女だぞ!?」
「女だからなんだよ、実力がある!」
「そもそも桜火が情けねえよなぁ。さっきの場面は響を歩かせてでも佐藤勝負でよかった」
「これで抑えられるようなことがあったら、桜火も終わりだな」
高校野球好きの中年たちが、ああだこうだと客席で舌戦を繰り広げている。彼らの中には、野球経験すらない者もいる。何の関係もない人間に、高く遠いところから後出しで批評されるのが野球選手の宿命だ。まして名門の桜火や女の夏生は、格好の的であった。
心から応援する者。色物を見るような感覚の者。容姿にばかり注目している者。もっと露骨に、肉体を見ている者。逆に、夏生という存在を許せない者。客席だけじゃない。この世界には、様々な人間の目がある。
「黙らせよう。全部」
投球練習を終え、マウンドに歩み寄った要の言葉に、夏生は強く一度うなずく。真夏の陽光を受けて輝く、誰よりも白い肌。夏の風物詩とも言われる高校野球において、彼女の存在は異物に他ならない。青空と、グラウンドと、夏と調和していない。
一条夏生が一球目を投げるまで、多くの人間がそう思っていた。
この回の先頭、名門打線の六番を打つ強打者、若林の膝元に白炎が飛び込む。その威力、精度、それを投じた左腕の気迫に、誰もが言葉を失った。
『一二〇キロ』――初球から叩き出したのは、夏生の自己最高球速。
「――それがどうしたぁ! 馬場や姫宮の球に比べれば、止まって見えるわぁ!!」
桜火ベンチから、皺だらけの分厚いまぶたを見開いた浦島の喝が飛ぶ。一塁側スタンドでは、鳴り物を叩き、黒の長ラン、坊主頭に巻いたはちまきをたなびかせ、汗だくで声を嗄らす、桜火の野球部員五十二名。打席に立つ若林の胸を、マグマのような使命感が焦がした。選ばれなかった彼らの前で、よもや女に打ち取られるなんて、絶対に許されるはずがない!
「桜火を、舐めるなァッ!!」
「――舐めてんのは、どっちだァッ!!」
磨き抜かれたスクリューボールが、若林のバットを見事に搔い潜る。
「クソ、クソ、クソクソクソ……なんであたらねえんだ!! あんな遅い球に!!」
桜火打線の目には、田中と塁の速球の残像が、まだ、血の滲んだ爪痕のように刻まれている。夏生のスクリューと塁の速球の球速差は、六五キロ――これまで全身全霊で姫宮塁を相手にしてきたからこそ、夏生の球を捉えられない。まるで夏の蜃気楼のように。
なにより、夏生の目に漲る、溢れんばかりの気迫と絶対的な自信。その圧力が、打者のイメージを更に乖離させている。要は、まるで姫宮塁を見ているみたいだと思った。春の練習試合で粉々にされたはずのプライドが、蘇るどころか更に強靭に生まれ変わっている。
夏生は、あの日を境に胸に宿った、熱いほどのぬくもりだけを支えに、投げている。
ボクを誰だと思ってる――あの王城要が、惚れた投手だぞ!
たったそれだけで、際限なく力が漲る。女だとか男だとか関係ない。誰よりも尊敬する人物が、認めてくれているのだ。これ以上他に、どんな根拠がいる。
右打者の、膝元に落ちるスライダー。鈍い金属音、打球はサードへ。三塁手は誠から、安定感のある山本に代わっている。代わったところに、打球は飛ぶ――
打球方向を見た瞬間、山本の心臓は口から飛び出す寸前だった。それでも山本の体は、紫乃の地獄ノックを受けるときとほぼ同じように動いた。練習によって、「保存」された動作。無事一塁へ送球した瞬間、「だはぁ……っ!」と、山本はその場に膝から崩れ落ちた。
「アウトォォォッ!」
ワンアウト。ただのワンアウトではない。桜火を相手に、少女が奪ったアウトだ。人々の、夏生を見る目がまた少し、変わる。
「代打じゃあ!」続く七番は左打者というところで、浦島は右の大砲、奥田を打席に送る。代打ならば、田中や塁の残像はない。次もボールは、確実に前に飛ぶだろう。
「関係ない――かかってこい」
据わった眼差しで打席を睨む夏生の輪郭が、マウンド上、あまりの熱気に陽炎でかすむ。夏生そのものが、太陽になったみたいだった。
パキン、と、ボールが真芯に当たった音がした。
コース、高さ、球威共に、これ以上ない直球だった。相手がそれを上回ったのだ。桜火ベンチが、アルプススタンドが大爆発する。打球は弾丸ライナーで右中間へ―――
センターの雷獣が、落下地点へ稲妻の如く加速する。
爽介。わき目も振らずに打球だけを凝視し、ぐんぐんぐんぐん、人間離れした速度で走る。五十メートル五・九の快速に見慣れているはずの要も夏生も、息を呑むより他にない。
捕る。捕る。捕る――何のために光葉へ来た。夏生を、勝たせるためだろうが!
三秒足らずで二〇メートルも一息に走破し、打球が芝へ落ちるその寸前、地面を蹴飛ばしロケットのように飛び込んだ爽介の、決死の形相で伸ばしたグラブが――空を掴む。打球は後方へ弾んでいく。芝を滑り、うずくまった爽介は立ち上がれない。カバーに走っていた不破を引き離し、打球は転々とフェンス際へ。バッターランナーは一塁を蹴り――二塁も蹴った。
「――しゃあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
三塁上、滑り込んだ奥田のガッツポーズ。ヘルメットが飛んでいくほどの気迫。呼応して吼える桜火ベンチ。芝に何度も拳を打ちつける爽介。一死、ランナー三塁――ここまで不動の精神力で投げていた夏生の心に、小石を落としたように波紋が広がる。
即座に桜火はチーム随一の俊足、中野を代走に起用。次の打者は、八番・二階堂。
マウンドに、ナイン全員が集合した。
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