第18話-1

「……カットボールで詰まらせたのに、あそこまで飛ばすの……? 意味わかんない」


 マウンド上、つぶやく二階堂の頬に汗が伝う。視線の先には、左打席に入った加賀美。いつもは二番を打っている巧打者だ。ここから始まるクリーンアップを抑えなければ、初回から先制を許す苦しい展開になる。二階堂はこれが公式戦初先発。絶対にゼロで抑えたかった。


 選球眼の良い慎重打法。そんな相手には強気の三球勝負。計算通り、二階堂はたった二球で加賀美を追い込んだ。もうここからは、際どいところに投げ続けるだけでいい。


 三球目、ボールの縫い目に完璧に指がかかった。ボールは糸を引くように、キャッチャーが構えたインロー目がけて一直線に走る。決まった。あそこは、絶対に手が出ない――


 ミットに吸い込まれる寸前、加賀美のバットが“遅れて”割り込んだ。


 鈍い金属音。ボールはバットに弾かれて三塁ベンチ方向へ転がるファール。上手く逃げられたが……ギリギリのスイングだ。あれじゃ何回当てても前に飛ばない。加賀美を見下ろして、二階堂はもう一度、低めを狙って腕を振った。――しかし。

四球目、五球目、六球目。ファール、ファール、ファール――二階堂の投じた素晴らしい制球のストレートが、どれも間一髪でバットに弾かれ、加賀美の後方に弾む。


「こいつ……」


 本当に、春に対戦したときと同じ選手か。そう疑いたくなるほど別人の粘り腰。普段柔和に細められている加賀美の目が、集中の深さを物語るように見開かれて、こう語る。


 ――早く、投げておいで。




「お前、ファーストストライクは絶対に見逃すよな」


 紫乃が部員全員に個別の課題を伝えた日。加賀美碧都はそう指摘された。


「……もっと積極的にいけ、ってことですか」


「いいや、別にそのままでもいい」


「え?」


「お前は器用だから、あたしがそう注文すれば、すぐにある程度応えられるだろう。今までもそうしてきたんじゃないか? お前はもっと自由になるべきだ。賢いだろ、お前。自分の頭で考えて、加賀美碧都がどんな選手に慣れるのか、自分で結論を出せ」


 加賀美の個人課題は、まさかの本人に丸投げだった。


 加賀美は医学部志望の秀才だ。光葉を選んだのも、通いやすさだけでなく、大好きな野球を拘束力のない環境で続けつつ、学業と両立したかったから。


 思えば、勉強も野球も、あまり自分で考えようとしたことがなかった。長い歴史の中でとっくに決着している正解の理屈をいちいち考えるより、「そういうもの」だと理解して覚えてしまう方が効率がよかったからだ。教科書通りにやれば成績は上がったし、優れた指導者の本や動画の通りに実践すれば野球は上手くなった。特に守備は、それで一気に上達した。


 加賀美は、なぜ、自分が慎重打法なのか考えた。


 ああ、そうか――その方が、「投手が嫌がる」からだ。


 ホームランで自分と味方が喜ぶよりも、堅守で敵に絶望を与える瞬間の方が、加賀美の心は満たされる。初球から打つのをためらっていたのは、仮に凡打に終わった場合、投手を助けてしまうことになると無意識に計算していたからだった。


 僕って結構、性格悪かったんだなぁ。そう気づいたとき、妙に脳と心が軽やかになった。


 加賀美は、自らの課題を「カット打ちの習得」に決めた。




「―—ファール!」


 鈍重な金属音がまた響く。三つのボールを挟んで、これで十球連続カット。苛立たしげな二階堂の眼とは対照的に、加賀美は少しずつ弱っていくライオンの周りを這う毒蛇のように、口元に嗜虐的な笑みをたたえている。


 二階堂は、一球たりともコントロールを間違えていない。全てがゾーンギリギリか、ギリギリ外れているかのどちらか。球種もストレート・スライダー・カットボールと織り交ぜてきており、前に飛ばすことすら難しい。これで一年生だというのだから、改めて、凄まじい投手だ。


 だが、加賀美は最初から、前に飛ばそうと思っていない。


 一球狙ったところに投げるだけで、投手はものすごく集中力を使う。そして、追い込んでから完璧に投げ切った球をファールされると、とてつもなくフラストレーションがたまる。相手が嫌がることをする――スポーツにとって、これ以上に有効で、加賀美向きの仕事はない。


 二階堂が加賀美に投じた、十六球目。初めてボールが真ん中付近に飛んできた。


 深く呼び込んでからバットを始動。穴が空くほどボールを凝視する加賀美の慧眼が、光った。


 ピタリと中腹でバットを止めた加賀美の前で、ボールは真横にスライドし、遠ざかりながらキャッチャーミットへ。外へ逃げる大きなスライダー。アンパイアの判定は――


「ボール!」


 電流のような快感が、加賀美の体を貫いた。投げ切った二階堂の苦い表情を横目に、悠々と一塁へ歩いていく。


 一度、佐藤に訊かれたことがある。医学部志望で勉強も忙しいはず。野球は趣味だと言っていたのに、どうして毎日遅くまで一緒に練習してくれるのかと。


「自分の大好きなものに全力で打ち込めたっていう自信が、きっと財産になると思うんですよね。毎日のように、人の命を救おうっていうんですから」


「人生二週目?」


「医者になるからには、自分より他人の命のために生きていく覚悟がいるじゃないですか。だから僕にとって高校生活は、最後のモラトリアムなんです。この先八十年ある人生よりも今が大切なんです。あと三年間だけは、自分だけのために、全力で生きておきたい、一片の悔いも残したくない、そう考えたときに、僕が大切にしたいのは彼女といる時間と、皆と野球をやってる時間だった――それだけですよ」


 この時間は素晴らしい。年齢も性格もバラバラな人間が集まって、無茶苦茶に高い目標を掲げ、闇雲に球を追いかけている。なんとも非合理的で、コスパが悪くて、最高に楽しい。加賀美は自分がいくつ歳をとろうとも、思い出すたびに顔がほころんで胸がじんと温かくなるような、そんな青春時代のただなかに今、自分がいると自覚している。この時間の貴重さも、尊さも、儚さも、全部わかっている。だから加賀美は、今、野球をしている。


 今夏の運命を分ける大一番。桜火高校対光葉高校の試合は、初回表から、光葉が一死一・二塁のチャンスで四番の打席を迎えた。

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