第18話-2

 その瞬間、塁も、加賀美も、打席に入った不破も、誰もが絶句するほかなかった。


 桜火ベンチから、桜火監督・浦島が飄然と歩いて出てきたのである。こんな最序盤に投手交代かと思いきや、それ以上に有り得ないタクトが振るわれた。


「申告敬遠により、不破君は一塁に進みます」


 打席の不破は何が起きたのか分からず呆然と立ち尽くし、審判に促されてもすぐに歩き出せない。動揺しているのは桜火ナインも同じで、ポーカーフェイスの二階堂すらアーモンド形の大きな目を見張り、じっとベンチを見つめている。


「はあああああああっ!? 一・二塁で申告敬遠!?」


「タダでランナー三塁に進むぞ!? つーか、満塁じゃん!!」


「しかも、ウチの次のバッターは……」


 ネクストバッターズサークルに一人、バットを握って立つのは、光葉の五番、響誠。無表情ながら、彼の歯が軋る音、逆鱗に触れた気配は、その巨体から十分に迸っていた。


 桜火ベンチは不破との勝負を避け、ランナーをみすみす三人貯めてでも、誠との勝負を選んだ。この局面での申告敬遠は、すなわち、誠に対する最大限の侮辱と、挑発。


「よく頭を冷やしてから打席に入れ。敵はお前が感情的になるのを狙って煽ってきてる」


 紫乃の言葉に、誠はしっかりと振り返り、「分かってます」と頭を下げた。その表情を見て、要、夏生、爽介もほっと肩の力を抜く。誠はちゃんと冷静だ。


「直球に絞って外野に飛ばせ」


「はい。あのジジイ、泣かしてきます」


 悪鬼羅刹の形相で、誠が右打席に入る。踏みしめた土が焦つくような闘気をまき散らして。


 浦島は含み笑いでベンチに引っ込んだ。右打者の誠に対し、あくまで二階堂を続投させるつもりのようだ。これで冷静さを保つのは、誠でなくても難しい。


 桜火ベンチから伝令が走り、マウンドに輪ができる。伝令の口から何かを聞いて、二階堂は静かに頷いた。大ピンチには違いないのに、もういつものポーカーフェイスだ。


 ――力むな。集中しろ。この屈辱は結果で晴らせ。


 打席を一度外し、大きく深呼吸してから再び誠は土俵に上がった。内野が散って、投手と打者が向かい合う。シフトは中間守備。誠の狙いは、とにかく外野に飛ばすこと。


 二階堂が、大きく振りかぶる。


「お前なら打てる!」


「かっとばせ、誠ー!」


 固唾をのんで見守るチームの期待を、一心にその背で感じながら、誠は左足を上げた。


 決着は、一球でついた。



 歓声・雄叫び・悲鳴・ため息――誠の打球がサード正面に転がった瞬間、スタジアムは天国と地獄にぱっくり割れた。チャージしながら捕球したサードの送球がホームへ、そして決死の形相でヘッドスライディングする誠をあざ笑うように追い越して、ファーストミットへ。


 ハサミでブツンと切ったみたいに、光葉に吹いていた風が、流れが死んだ。



「ドンマイ、次々!」


 ベンチに帰ってきた三人の残塁ランナーと、虚ろな目で小走りに駆けてくる誠を迎えて、佐藤が笑顔で手を叩いた。


 誠は、スパイクの爪先を見つめたまま「すみません」と呟いた。声になっていなかった。すみません、すみません、すみませんと何度も繰り返すうちに、段々自分で自分の腹を刺しているみたいに、深い懺悔と自責の表情で歯を食いしばった。


「気にするな、響が打てなかったんなら仕方ない!」


「次はリベンジ頼むよ。ほら、守備だ、引きずってたらエラーするぞ」


 不破と加賀美の温かいフォローは、傷口に塩だった。


 加賀美が十六球を投げさせ、不破の怖さが敬遠を選択させて、お膳立てされたあの場面を、たった一球で台無しにした。そんなクリーンアップは死んだほうがいい。頭が後悔でぐるぐる回り、浮力のない沼に落とされたように、誠の心は、際限なく闇に沈んでいく。



「ふぃー。生きた心地がせんかったわ」


 ベンチにもたれた浦島に、「よく言いますよ」と部長が青い顔で胸をなでおろす。


「あんな場面で申告敬遠なんて……」


「二階堂の強心臓を買っての采配じゃ。注文通り一球で仕留めおった。やはり格が違うの」


「それにしたって、一発のあるバッターですよ」


「『ホームランを打てるパワーがあるバッター』と、『一発のあるバッター』は、全然違うぞい」


 去年、爽介に熱烈なオファーを出した一方で、浦島は、誠には声をかけなかった。それは彼の選手としてのピークが、中学時代で終わりを迎えることを見抜いていたからだ。


「小学生の頃から彼を見とったよ。六年生で既に身長が一七〇センチを超えて、面白いように柵越えを連発しとった。じゃが、簡単な球を空振りしたり、とんでもない送球エラーをしたり、どうにも、自分の恵まれた体をコントロールできとらんみたいじゃったよ」


 簡単な話、誠には運動神経――体を動かす才能センスが欠落していた。


「フィジカルは素晴らしい。しかし力だけで活躍できるのは中学までじゃ。それに気づかずスカウトしてしまえば、また三年間を棒に振る不幸な選手を増やしてしまうところじゃった」


 哀愁を漂わせる浦島の瞳に、部長も目を伏せる。どんな伯楽にも、未来を見る力はない。才能の蕾のうち、花開くのは一握り。だからこそ浦島たちは、ベンチ入りできるたった十八の椅子の、三倍の選手に毎年声をかけなければならない。そうして、羽化できぬまま不完全燃焼に終わった何人もの少年たちに、毎年、腹を切る思いで頭を下げてきた。それを何十年も続けてきた浦島だから、蕾を持つ者と持たぬ者の見分け方は心得ていた。


「のう、大多数の人間が、『一流になれない』と決定するのはいつだと思う?」


「……いつですか?」


 老将は切なげに微笑んだ。


「この世に生まれた瞬間じゃ」


 そう言って浦島は、マウンドに上がった背番号「9」に目を細めた。


「さて、ありがたいことにエースは温存か。今のうちにたっぷり点を取っとくかのぅ」

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