第10話-2
プロテクターとマスクで完全装備した要が、捕手位置にどっかりと座り込む。体格も手伝って、まるで歴戦の名捕手のような存在感。まさか誰も、あれが野球始めて半年の素人とは思わないだろう。
「フハハハハ! とうとう出てきたな、光葉の秘密兵器よ!」
「まだ言ってるよあの人……」
駒場が高らかに笑うのを、桜火部員が哀れむような眼差しで見つめる。
要が構えると、キャッチャーミットが大きく見える。吸い込まれそうになる。内側から、知らない自分が引っ張り出される。「キャッチャーまで一年に交代かよ……なんでこんな試合に俺らが付き合わなきゃいけないんだ?」「姫宮のデータは取れたし、さっさと終わらせて帰ろうぜ」――もう、桜火ベンチの声も気にならない。自分はあのミットに向かって、言われた通り投げればいい。
初球、要のサインは、左バッターの外角低めにストレート。全幅の信頼で頷き、一塁ランナーを目で牽制しつつ、クイックモーションで投球。――腕が、軽い!
「おっ!?」桜火ベンチから虚を突かれた声が漏れた。するりと放られたストレートが、要の構えたミットに真っ直ぐ吸い込まれる。球審のコールは、ストライク。
女投手の、意外なほど様になっていたクイックモーション。これまでと打って変わって制球されたストレート。淡いながら鮮やかに輝き始めた夏生に、全員の目がつられた、その一瞬のことであった。
捕手から一塁までの二七メートルを、白い弾丸が駆け抜けた。
風を切り裂き砂を巻き上げるその殺人送球に辛うじて反応できたのは、日頃からサインなしで塁の弾を受けている、一塁守備についた佐藤ただ一人だった。見事な反応で伸ばしたグローブに白球が飛び込む。帰塁する間もなく呆然とする一塁ランナーの胸に、佐藤は目を白黒させながらも、しっかりとグローブでタッチした。
桜を散らすそよ風がはっきり聞こえるほどの静寂の中、要の「ワンアウトー」という呑気な声だけが響いた。
「は……はああああああああああああ!?」
一瞬遅れて爆発した驚嘆の叫びが、夏生にはあまりにも心地良かった。自分自身腰を抜かすほど驚いたけれど、相手はもちろん、光葉の二、三年生の衝撃はこの比ではないはずだ。
「なんだあの鬼肩!?」
「素人なんて、大嘘じゃねえか!」
「……ふ、フフ、フハハハハハハハハッ! やはり俺の目に狂いはなかった! ヤツこそ光葉の最終兵器だ!」驚天動地の桜火ベンチでただ一人、嬉しそうに腹から声を出して笑う主将の駒場が隣の同輩にしばかれる。
「おい夏生、ぼけっとすんな。バッター集中だ」
佐藤からボールを受け取りつつ、夏生は要の尊大な口ぶりに小躍りするほど興奮した。やっぱり最高だ、このキャッチャー。誰にも渡さない。目をつけたのはボクなんだから。
ボクも、負けていられない。
空を仰ぎ、後ろを振り返り、順に仲間の顔を見つめて、最後に要と目を合わせた夏生は、次の瞬間に思考を捨てた。視界から、余分な情報が消えていく。頭からあらゆる思考と感情が締め出され、ただ、体のどこをどう動かせばどんなボールが投げられるのか、それだけを繰り返しシュミレーションする。九等分に区切ったストライクゾーンをペンキで描いた庭の壁を相手に、ひたすらそうしてきたように。
王城要に身も心も全部預けて寄りかかることで、一条夏生は機械になれる。
「―—……完、璧」
解き放った一球は、頭で描いた奇跡を寸分狂わず走り抜けた。左バッターの外角へ、鋭く斜めに空間を切り裂く白い光芒。だが相手も、名門、桜火の六番を任された男。想像を絶する速度のスイングが、彼の三年間を物語る肉体から繰り出された。金属バットのヘッドが最短距離で前に出て、外いっぱいに決まるコースを完璧に迎え撃つ。
金属バットの真芯が捉える寸前、夏生のボールは真横に"滑った"。
スライダー――初めて覚えた変化球。甲子園なんて夢を本気で見てしまった夏生が、最初に身に着けた武器。鈍い金属音を上げ、ボールは高く、打ち上げられた。
「不破さん!」
「お、おう!」
高々と大空へ舞い上がる打球が、ゆっくりと落ちてくる。目が、じんわりと熱を帯びる。
固唾を呑んで見守ったボールの行方が、不破のグローブにしっかり収まったとき、七年かけてようやく一つ、夏生は何かを証明した気がした。
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