第10話-1

 呼吸が、うまくできない。


 一条夏生は、初陣のマウンドで汗を拭った。まだ一球しか投げていないのに、体が重い。爽介や誠、不破たちの声援、ボールを投げ返す佐藤の声も全部うまく聞こえない。桜火ベンチの話し声だけが、耳元でワンワン騒がしい。


 女がなんで男にまじってんだ。こんなとこまで来て女の球打つとか、アホらし。もう帰って練習したいよな。夏まで時間ないのに。さっさとコールドで終わろうぜ。でも、あんま打つと可哀想じゃね――うるさい。


 野球に惚れた小学三年生の夏から、今日まで毎日、そんな声とはうんざりするほど戦ってきた。女に生まれたというだけで、誰も夏生を一人の野球人として見てはくれなかった。


 男に勝ちたい。勝って、証明したい。調べて、打算して、できる全ての準備をして、今ようやく、その舞台の入り口に立ったのだ。打席には名門高校の五番。この人を打ち取れば、一気に変わる。周りの目も、評価も、世界も。この日のための七年間だ。絶対に打たれるわけにはいかない。絶対に、打たれたくない。絶対に、絶対に、絶対に……


「ボール!」夏生の投げた二球目は、またも狙いを大きく逸れた。「さっさとストライク投げろよ、時間もったいねえな」――桜火ベンチの呟きが鼓膜にへばりつく。

どうして思ったところに投げられない。球速で勝負することができないと悟り、七年間磨き続けてきた制球力が、丸ごと左手から流れ落ちてしまったかのようだ。


 ストレートが駄目なら、スライダーで。握りを変え、深呼吸して投じたスライダーは、ろくな変化もせず外にすっぽ抜けていった。相手ベンチから失笑と舌打ちが飛ぶ。


 馬鹿にするな。投げようと思えば、もっと速い球を投げられるんだ。佐藤に何か言われながら投げ返されたボールを縫い目が破れるほど強く握って、歯を食いしばって振りかぶる。


 悲鳴と怒声が飛んだ。


 バッターの舌打ちが耳元で鳴ったみたいに聞こえた。力いっぱい投げたボールは、意図するコースの真逆へ飛んでバッターの横腹へ。デッドボール。球審のコールに、バッターは蔑むような顔でバットを投げ捨て一塁に走る。慌てて佐藤が夏生の元へ駆けつけた。


 バッターは、最後、バットを構えてもいなかった。打つ気のない相手のど真ん中にすら投げられない、それはもう、投手とは呼べない。勝負が成立しない。内野陣を振り返るのが、ライトのエースを見るのが、佐藤の顔を見るのが、全部怖くて、夏生は自分のスパイクの爪先を呆然と睨みつける。


「――ターーーイムッ!!」


 光葉ベンチから、バカでかい声が響き渡った。ハッと顔を上げると、途端に突き抜けるような青空と、こちらに向かって走ってくる要の姿が見えた。今、こんなにいい天気だったということにさえ、夏生は初めて気づいた。


「ちょっと君、勝手にベンチから出ないで!」


「伝令です!」


「え? あ、そう……」


 要を注意した球審は、「伝令」という言葉に目を丸くしてベンチの兵藤を見た。だが、野球を知らない兵藤が伝令なんて出すだろうか。球審の桜火コーチも兵藤が素人なのは知っているらしく、不思議そうに光葉ベンチを見ていた。当の兵藤はなぜ見られているのか分からずぽけっとしている。


「王城、伝令って……兵藤先生はなんて?」


「いや、俺が勝手に出てきました」


「なにやってんの!?」


 この騒ぎに、内野陣、それからセンターの爽介までマウンドに駆けつけた。全員のさまざまな視線が、要に突き刺さる。


「キャプテン。俺にキャッチャーやらせてください」


 一同戦慄に包まれる中、「あぁ?」と鬼の形相で要の胸ぐらを掴んだのは、ショートを守る不破だった。十センチ以上の身長差を物ともせず締め上げる。


「オレはお前のストイックなとこは買ってるぜ。でも調子に乗りすぎだ、シロートがキャプテンのプレーにいちゃもんつけんのかコラァッ!?」


「違います。キャプテンは俺なんかよりずっとすごいキャッチャーです」


「当たり前だろ!」


「でも、夏生コイツケツ叩けるの、俺しかいないんで」


 一歩も譲らない目で声を張り上げた要に、不破の圧力が緩む。誠が、目を見開いて拳を握った。――あぁ、と、夏生は思い出した。


 中三の夏、あの草試合は、夏生にとって生まれて初めての試合だった。そして、負けたら、甲子園の夢は諦めなければならないと思っていた。誰にも言わなかったけれど、あの日、本当は吐くほど緊張していた。誠が気を遣ってリードしてくれているのが分かった。あのマウンドで、夏生はもう心が折れる寸前だった。


 ――じゃあ俺、キャッチャーやろうか?


 偉そうな初心者が入ってきた。いきなり誠の豪速球を受け止めてポジションを奪ってみせた。圧倒的な存在感。ハンドボールの覇者だと知って納得した。彼に投げるうち、知らない自分が引っ張り出されていく感覚に戸惑った。「ここに投げてみろ」と言わんばかりの偉そうなリードに、体の内側から燃え上がるような高揚が巡って、夏生は初めて、マウンドで笑った。


「キャプテン、お願いします。この回、いや、ワンナウトだけでも、俺にコイツと組ませてください。お願いします」


「お前、いい加減に……」


「分かった」不破の言葉を遮り、佐藤が頷く。


「僕がファーストを守ろう。ごめん健太、ベンチに下がってもらえる?」


 一塁を守る三年の山本は、難しい顔で黙り込んだ。


「い、いいんすかキャプテン!? 健太さんも! 王城入れて健太さん抜けたら、あとベンチは山路しかいないんすよ!? この試合ぶっ壊れますって!」


「空回りした塁に何かしらの刺激をくれると思って、一条さんに代えた。けどこのままじゃ逆効果だ。あいつ、いつブチ切れて帰るか分からない」


 佐藤は冷や汗を垂らしてライトの塁を見つめる。代わった夏生のピッチング内容を見て尋常じゃないほど苛立っている。山本は慌てて目を逸らした。


「し、仕方ねえな……まぁどのみち、俺が九回までいたところで大して役には立てねえし」


「そんなことねえっすよ健太さん!」


 不破のフォローをしっしっと追い払って、山本は要の肩に手を置いた。


「三年追い出して出場するやつのプレーがどんなもんか、ベンチで見といてやる。舐めたプレーしたら殺すからな! 不破が!」


「……お、おぉっす!」不破の敬礼にニカッと笑って、山本は要の背中を叩きベンチに去っていった。要は頭が膝につくほど深々と、その背に向かって頭を下げた。


「気にしなくていいよ。どんなに失敗してもいいから、思い切りやりな」


 聖人君子の笑顔で、加賀美が要の肩を叩き、セカンドの位置に走っていく。


「王城! 健太さんは笑ってたけど、あの人が悔しくねえなんて大間違いだからなぁ!」


 怒鳴り上げ、不破も遊撃の位置へ。残った誠は何も言わず、険しい顔で三塁へ戻った。


「ワガママ、すいません。キャプテン」


「ホントだよ。でも、ちょっと楽しみでもあるんだよね。王城って僕じゃ予想もつかないことをやるから。今回の練習試合だって王城のお陰で実現したんだから、好きにやりなよ」


「……はい!」佐藤が球審の元へ走っていき、守備の交代を告げた。ファーストに佐藤。キャッチャー、王城。二人きりになったマウンドで、夏生は要を見上げた。


「か、要……ごめん、ボク……せっかくここまで来たのに……あんなに練習したのに……!」


 声がひとりでに上擦る。目がじんわり熱くなる。泣き虫な自分が大嫌いだ。どんなに我慢しても勝手に溢れる。泣くと、必ず相手を困らせてしまう。気を遣わせてしまう。女の涙というだけで、許されてしまう。それが悔しくて仕方ないのに。


「――泣いてんじゃねえぞ弱虫オラァッ!!」


 頭の上から容赦なく怒鳴られた直後、尻に凄まじい衝撃が走った。スパァンッ、と音高く女の尻を打ち鳴らした要の平手打ちに、グラウンド中の人間が目玉を飛ばす。


「えええええええええええええええ!?」


 やられた夏生は甲高い悲鳴を上げ、ピョンピョン跳びながら悶絶する。洒落にならない威力だった。光葉ナインも絶句する。「尻叩くって、そのまんまの意味なんだ……」と、一塁上で佐藤も半笑いだ。


「いっっっった!!? お、お尻が熱い!!」


「なんださっきのボールはぁ!? 一人で戦おうとしてんじゃねえぞ!」


 要の叫びに、ピクリ、と右翼の姫宮が反応する。


「打たれるの怖がってどうするんだ! 三振取れないお前は、打たれなきゃアウト取れないんだよ!」


 モヤのかかった視界が、その一言で切り払われた。


「マウンドに立ったら後ろの仲間は見えないってお前言ったけどな、正面のキャッチャーは見えるだろうが! そして俺には、仲間全員見えてる! だから仲間バックを信頼して、"打たせろ"!」


 空の青が、降り注いでくるみたいだった。ダイヤモンド中に響き渡った要の叫びは、敵味方、全員の目つきを変えた。姫宮塁の目さえも。彼を選んだ自分の目に、狂いはなかった。そう思うと、初めて夏生は自分に自信が持てた。すー……と、大きく息を吸い込んで、吐く。


「頼りない相方でごめん。ボクを引っ張ってくれ」


「そのためにここに来た」


 しっかりしろよと言う顔で、要は佐藤からプロテクターを引き継ぎに走っていった。呼吸が、うまくできるようになっていた。

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