第9話-1

「打った瞬間それと分かる当たり」というものを、要は生まれて初めて目の当たりにした。


 一回の裏、ノーアウト満塁。バッティングカウントの四球目、研ぎ澄まされた一撃が真芯でストレートを捉えた。巨大な氷を砕いたような、冴え渡る金属音が時を止める。


 ボールは高々と防球ネットの上を超えた。ベンチは爆発が起きたような歓声で溢れかえる。出塁していた三人と、涼しい顔でバットを投げ捨てた塁が、ダイヤモンドをゆっくりと一周し、三年生にもみくちゃにされながらベンチへ帰ってきた。さながら英雄の凱旋だ。



「相手ピッチャーは組み立ての九割近くがストレートとフォークです。低めには見切りをつけて、早いカウントから好球必打でいきましょう」


 攻撃前に組んだ円陣で、夏生がそう切り出したときは上級生全員驚いていた。夏生の持つ膨大なデータの一部に目を通した佐藤の「信頼してみよう」という一言で、初回から光葉の攻撃は統一された意識の中で行われた。


 結果、爽介、加賀美、不破の三連続ヒットでいきなり満塁。不破の低いフォークをすくう巧打がポテンヒット気味だった結果、俊足の爽介も帰塁できなかった。(低めは捨てるという指示だったはずだが……ヒットにするものだから誰も不破を怒るに怒れない。)


 そんな場面で初回から回ってくるあたり、姫宮塁は選ばれている。凡百をあざ笑うような満塁ホームラン。一人で野球をやっているような規格外さに、相手ナインは早くもお通夜。それでも敵陣最奥に座る浦島監督は、老獪に笑って心底満足そうだった。


 後続が倒れて四点どまりも、ナインのムードの差は歴然だった。


「一条、データばっちりハマったな!」


「助かったよ一条さん。これからもよろしくね」不破と加賀美が夏生の肩をポンとグラブで叩いてから守備位置に駆けていく。驚いた夏生の顔に、ゆっくり笑顔が咲いた。


 二回表のマウンドに、引き続き塁が登る。もはやそこに立つだけで桜火ベンチの空気が重たくなるほどの存在感。その時、沈鬱な桜火ベンチから、一人の男が笑いながら飛び出してきた。


「ハッハッハ! この程度の逆境で情けない顔をするな! 貴様らは俺の誇りなのだぞ!」


 サイボーグめいた鋼の肉体が、バットを刀のように腰に携えて審判とバッテリーに一礼し、左打席に入る。名門、桜火高校野球部の主将にして四番――駒場。


「姫宮ァ! 共に日本代表選考合宿でしのぎを削りあった仲だ! 我が好敵手よ、いざ尋常に勝負!」高らかに笑ってバットを突きつける駒場から、放たれる火柱のような圧力。彼の出番で桜火ベンチも息を吹き返したか、威勢のいい声援が主将の背に注がれる。


「あんたは代表落ちたじゃん」


 涼しい顔で目を細める姫宮が纏うのは、絶対王者の貫禄。振りかぶるエースのギアが、一段上がった。唸る右腕から放たれた、今日一番の豪速球。


 脳が揺れた。金属バットの真芯が奏でた轟音は、要の頭をガツンとぶん殴って山まで飛んでいった。白球は信じられない打球速度で大空へ舞い、遥か彼方の場外へ消える。


「うむ! いい球だ!」


 痺れる両手に目を落とし、駒場さんは溌剌と目を輝かせ歩き出す。今度は、桜火ベンチが爆発する番だった。要には触れることすら思いもよらなかった剛速球を、あんなに遠くまで――


「……あの人は?」


「駒場 宗親むねちか。高校通算既に五〇本越え。今年のドラフト上位候補だよ」


 唇を結んで、夏生はゆっくりとダイヤモンドをまわる駒場に熱い眼差しを送っていた。


「ドンマイ塁! 切り替えて次のバッター集中だ!」


 ショートの位置から不破が声をかけるが、塁は反応しない。不破は「まずいな」と冷や汗を垂らした。不破だけではない。ソロホームランを一本打たれただけで、まだ三点差もあるというのに、二、三年生の表情がやけに曇ってしまっている。その理由は、すぐに分かった。


 続く五番バッターにフォアボール。一球もストライクが入らないだけでなく、球速が一四〇キロ前半まで落ち込んだ。スピードもそうだが、一回表の触れれば切れそうな球威が見る影もない。更に次の六番バッターに対して、ランナーが出たにも関わらず思い切り振りかぶる。当然一塁ランナーは楽々盗塁を成功させ、あっという間に無死二塁。


 結局、二者連続でストレートのフォアボール。取られたのは一点、まだこちらが十分リードしている状況なのに、明らかにマウンド上のエースが平静を欠いている。


「タイム!」たまらず佐藤がタイムを取り、マウンドに駆けつける。「おい、どうした」と尋ねられて、塁はグラブで口元を隠しもせず唇を尖らした。


「……萎えた」


 要たちだけでなく、桜火ベンチまで口を開けて絶句する。


「な、なに言ってるんだよ、まだ二回だぞ」


「だって、もう完全試合もノーノーも完封も消えたじゃん。僕の球、あんな遠くまで打たれた。今日は調子悪いんだきっと」


 マウンドの土を足でいじりながら子どものような口調で言うエース。なんと、拗ねている。


 光葉の二、三年は慣れっこという顔だった。「何を言われても耐えてくれ」と不破たちが頭を下げに来た理由がようやくわかる。光葉の最強エースは、めちゃんこに打たれ弱いのだ。


「ごめん塁! さっきの四番に打たれたホームランは僕のせいだ!」


 すっかりいじけてしまった塁にどんな喝を入れるかと思いきや、佐藤は両手を合わせて彼に謝り始めた。


「コースが読まれてたんだと思う。そうじゃなきゃおかしいよ。塁の球を打てるやつなんて日本のどこにもいないんだから」


 ぷくり、と塁の小鼻が膨らむ。「まぁ、ね」


「でも強いて言うなら、ボール一個分高かったかも。塁のボールがすごすぎて浮き上がって来たんだ。意識して低めに投げてみてくれる? 天才のお前なら余裕だろ」


「楽勝」


 ベンチから見ても、みるみるエースの機嫌が戻っていくのが分かった。タイム中に内野外野が集まってくることもなく、佐藤一人に任せている感じだ。一分程度で話はついたようで、佐藤はマスクを被り直し捕手位置に戻ってくる。相手の七番バッターは、ベンチの指示でバントの構え。内野が前に出ようとするのを、塁が手で制した。


「できるもんなら、やってみろよ」


 蘇った右腕の大砲が、水平に構えたバットごと相手バッターを吹き飛ばした。


「いぎっ!?」力なく飛んだ打球は塁のグラブに。続く八番をたった三球で空振り三振に打ち取り、ラストバッターも二球で追い込んだ。


「な、なんだこいつ、急に立ち直りやがって……」


「僕は天才ピッチャーだぞ。――尊っ、敬っ、しろッ!!」


 地を抉るように低空を駆け抜けたストレートが、低めスレスレに構えたキャッチャーミットを撃ち抜いた。見逃し三振。結局、失点は駒場のソロホームラン一本に抑えてしまった。


「っしゃあ、ナイス塁!」「よっ、天才ピッチャー!」「今日もありがとう最強エース」


 ナインにもてはやされ、エースが満更でもない様子で帰ってくる。あの調子だとホームランを打たれたことすら忘れていそうだ。


 要は光葉というチームの特徴を掴みかけていた。姫宮塁をいかに気持ちよく投げさせるかが、光葉の勝利に直結する要因と言っていいだろう。その裏の攻撃は三者凡退で終了した。その後も両チームゼロ行進が続く。動きがあったのは、五回表。


 駒場のホームラン以降ノーヒットに抑えていた塁が、ついに連打を浴びたのだった。

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