第2話-1

 あの球は、スライダーという変化球だった。


 要は一旦タイムをもらって夏生の元に駆け寄ると、相談してストレートとスライダーのサインを決めた。勝手にあんな球を投げられてはたまらない。


 試合が再開する。夏生は要のリードに従ってストレートとスライダーを精密機械のコントロールで投げ分け、続くバッターをセンターフライに抑えた。


 あと一人で、勝ち――いくら考えまいとしても、それが頭にちらついたとき、盤面は急変する。要が身に染みて知っている現象が、やはり起きた。


 打ち取った打球をセカンドが後逸。後続には初球のアウトローを狙い打たれ、二死からあっという間にランナー一・三塁の大ピンチ。途端に重力が、五倍にも増して感じられた。


「ドンマイドンマイ! 打たせろ夏生ー!」「何点取られても俺が取り返す!」「ここしかないぞ! 逆転決めろー!」――両チームの声援が、張り詰めた空気をビリビリ震わす。


 要と夏生は、目を見合わせて頷いた。たった一イニング、四人の打者に立ち向かっただけで、二人はもはや互いを、死地を共に生き抜いてきた戦友のように思えていた。あと一人。落ち着いて投げろ。うん。勝つぞ。うん!――目を見るだけで、励まし合えるほどに。


 深く深呼吸して、マウンド上で夏生がボールを握りしめる。打席を睨み、構え、そして夏生の足が地から離れたそのとき。要の全く予想だにしないことが起きた。


 一塁ランナーが突然、二塁めがけて走り出したのだ。要の目はランナーに盗まれて、飛んでくるボールを見失いかけた。ハッと全身が火照る。しまった、盗塁!


 球キャッチして投げ返すだけだろ?――バカが、なんて浅はかなことを! 素人の自分が捕手をやるということは、盗塁され放題ではないか。


 夏生の遅い球がようやくミットに入った時には、もうランナーは道のりの半分を走破していた。ショートがベースカバーに入る。これを、投げればいいのか。慌ててミットからボールを取り出すも、要の体にも頭にも、キャッチャーの動きは何ひとつ保存されていない。


「よせ、投げるな!」誠が叫んだ。それで体が固まった。要が送球をミスれば三塁ランナーはすかさずホームへ走る。打たれもせずに、同点に追いつかれてしまう。


「――いけ!」


 氷の砕ける音がした。


 何も考えられなくなった。ただ夏生の声を合図に、要は無我夢中で、ありったけの力を込めて右腕を振り下ろした。硬球は要の手から、弾丸の如く撃ち出された。ギョッとして伏せた夏生の頭上を駆け抜け、白い光芒は――「え?」と目を見開いたショートのグラブに炸裂。


 いかにも痛そうな破裂音がグラウンド一帯に、何かを祝福するように響いた。

「ア……アウトぉ」塁審が弱々しく拳を握る。ショートのグラブがタッチで押さえたスパイクは、二塁ベースに到達していなかった。スリーアウト――ゲームセット。


 勝った、と要が理解するより早く、夏生が真っすぐ飛び込んできた。そのまま抱きつかれる。――なんだよ、男同士で暑苦しい!


「要君……ありがとう……!」


 引き剝がそうとして、夏生の湿った声に、要は硬直した。夏生は、泣いているのだ。誠が鬼の形相で引っぺがしにくるまで、要は仕方なく、ジャージにプロテクターという不細工な格好で、すすり泣く夏生を遠慮がちに抱きしめていた。

 

「――ていうか、要君! 野球やってたなら言ってよ!」

 最後は整列して健闘をたたえ合い、高校生チームと夏生の後輩たちが去っていったあと。夏生、要、誠、爽介の四人だけが残る公園で、思い出したように夏生が言い出した。


「……なんのことだ?」


「超高校級のバズーカ送球見せつけといて、とぼけない!」


「いや、だから俺がやってたのは……」


「――ハンドボール!」答えようとしたら、突然爽介がそう叫んだのでびっくりした。


「これ! ハンドボールだよな!」


 爽介は要が持参したボール袋を勝手に開封し、その中身をお宝でも見つけたように頭上に掲げてキラキラ目を光らせていた。それは確かに、要のマイハンドボールだった。


「よく分かったな。ドッジボールとかフットサルのボールとかって間違えられるんだけど」


「体育でやったばかりだからな!」


 背後に気配を感じて振り返ると、誠が背後から要のジャージをしげしげと物色している。


「な、なんだよ」


「……U-15……JAPAN……お前、マジか」


 随分久しぶりの生温かい視線にむずがゆくなって、要は手をひらひらさせた。


「あー、うん、去年の話な。ハンドはもう辞めたんだ」


 確かに要は、中学二年生にして全国大会優勝、最優秀選手選出、そして日本代表チームのエースに抜擢されるなど、ハンドボールの世界でもうこれ以上は考えられないというところまで上り詰めた。しかしもう過去の話。この日本代表ジャージも今では部屋着になっている。


「でもやっぱり、ボール投げるのは気持ちいいな」


「それでピッチャーやりたいって言ってたのかぁ。うん、納得。すごい球投げれそうだもんね」


「うぉぉぉぉすげえ! 王城要ホントに出てきたぁぁぁ!」


「は、おい、勝手に検索すんな!」


 気づけば要は、すっかり夏生たちの仲間の一員になっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る