第1話-3

 夏生が走り去るのを見送って、要は、自分一人を除いて完成したグラウンドへ向かった。


 ゆっくり角度を変えていくグラウンドの眩しさに、思わず目を細める。ホームベースの真後ろに到着し、座り込んで真正面を向いた要は、野球のグラウンドが"ダイヤモンド"と呼ばれるその所以を目の当たりにした。白線で象られた精密な扇型。シンメトリーにポジショニングした守備陣の、諸手を掲げて腹から上げた気合い一閃がぐあぁっと襲いかかるように飛んでくる。まるで夏の熱気が具現化したように。内野の中央、平たいマウンドには夏生。その視線と体が真っ直ぐ射抜く先が扇の先端。キャッチャーである、要の守る場所だ。


 初めて特等席から見渡すダイヤモンドを、美しいと思った。数学的に、かつ情熱的に。


「ミットを構えたら、動かさないで……か」


 よほど自分のコントロールに自信があるのだろうか。なんだろう。彼に他意はなかったに違いないが、多少、カチンときている自分がいる。下手くそのレベルに合わせて指示を出されたような感じが、無性に。


 素人だろうと、飛び入り参加だろうと、スポーツやるからには――主役は、俺だ。

要は目を鋭く眇め、誠に教えてもらったストライクゾーンの、ど真ん中に構えた。

爽介と誠の顔つきが変わる。腰を低く落とし、力強くミットを突き出した要の構えが、全く素人くさいのに――ぞっとするほど、サマになっていたからだ。

いっそ挑発するような眼光が、一直線にマウンドに刺さる。


 どんな球を投げるのか、見せてみろ。


「はは……!」


 うすら鳥肌を立てながら、夏生は口角を上げ、振りかぶった。

 腰をひねり、半身になった夏生の体から飛び出した左腕は、要の予想を外れて地面と水平に伸びていた。左の横手投げ《サイドスロー》――独特のフォームから白球が放たれると、それは機械のように、真っすぐ要のミットに吸い込まれた。ストライク、と球審のコール。要はミットの中に収まったボールに、驚愕していた。


 ――……おっっっっっっっっっっっそ!?


 遅い。遅すぎる、あまりにも。ハエが止まるようなスローボールだ。球速は精々、九〇キロあるかどうか。あまりに絶好球すぎて、打者も逆に手が出なかったぐらいである。


「へい、パス!」満面の笑顔で返球を求める夏生を見て、要の胸に、妙な感情が去来した。


 この最弱エースをなんとか勝たせてやりたいという、庇護欲にも似た使命感である。

 だって、こんなに弱いくせに、死んでも勝ちたいとか、あんな顔で言うのだ。勝たせてやりたい。一緒に勝ちたい。胸の奥、心臓の位置、凍りついた闘争本能が、淡く熱を帯び始める。


 夏生にボールを投げ返した要は、一呼吸して――アウトローに、強く構えた。

 


 爽介はニヤリとし、誠は気に入らないとばかりに顔をしかめる。ただ、そこに構えたというだけで、分かる者は一瞬で、要に対する認識を改めた。空気が、変わっていく。


要に野球の知識はほとんどない。そこにミットを構えたのは、ただの計算と野生の勘だ。


 公式戦でもないこの草試合、相手は一点負けて打ち気にはやっている。そこにあんな遅い球が来るなら、多少難しいボールでも強引に引っ張りに来るはず。外れすぎず、甘すぎず、手を出したくなるギリギリのところ。凡打を産む確率が、最も高そうなところ。

 すなわち、原点アウトロー。夏生の目が丸くなり、そして、心から楽しそうに破顔した。

 鈍い金属音が響く。夏生が投じたボールは要求通り絶妙なコースを飛んで、無理に出したバットの下っつらに当たった。ファール――よし、狙い通り。空振りをとる必要はない。ファールでも、同じストライクだ。もう、これで追い込んだ。

 三球目は手を出して来ず、ボール判定。先より球一個分外への要求に、夏生は完璧に応えた。四球目は一個分内へ。これにはなんとか食らいつき、ファール。

 要はようやく、背筋が凍った。――なんで、こんなに……"ちゃんと"来るんだ。

 夏生に言われた通り、要はミットを、この四球とも一ミリも動かしていない。ミットが掃除機にでもなったみたいに、勝手にボールの方から左手に飛び込んでくる。要が頭で描いた理想のボールの軌跡が、そのまま現実になる感覚。夏生と目が合う。笑う。ゾッとした。

 そのとき、バッターがホームベース側に半歩にじり寄ったのを、要は見逃さなかった。遠い球を、打ちにきている。ここでインコースに投げたら、打ち損じるんじゃないか。あの遅い球を内角に要求するのは度胸がいったが、意を決して、内角低めに構えた。

 言葉も交わさないのに、目を合わせただけで、意図が共有されるのが分かった。大きく振りかぶり、夏生が投じた四球目は――"アウトコース"に飛んできた。

 血の気が引く。ここにきて初めてのコントロールミス。狙い通りと言わんばかり、バッターの両腕に力がこもる。慌ててミットを修正して捕球しにかかったが、外狙いのバッターにとって絶好球と言ってよかった。鋭いスイングがミットとボールの間に割って入る。

 ――その瞬間、ボールが消えた。

「ッ!?」

 反射的に伸ばした左腕に硬い手応え。ストライク、アウト! 球審が背後で叫んだ。バッターは「だぁぁぁぁぁやられた!」とバットを叩きつけた。


 ボールは消えたのではない。要から見て左側に、思い切り曲がったのだ。それを捕球できたのは、断じて偶然でも反射神経の賜物でもない。捕った体勢のまま固まっている左手を見る。


ここは、最初にミットを構えたところだ。一ミリ違わずこのコースだった。だから捕れたのだ。


「もー! ミット動かしちゃダメって言ったじゃん! でも、よく捕れたね!」


 ナイスキャッチ〜! などとマウンドから手を振る夏生の、太陽の光を浴びて輝く笑顔の眩しさが、瞬間、要の網膜に、脳に、心に焼き付いた。

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